39◆裏情報

 青巒国から、イーハンの身柄の交換に応じるという返事が来たのは、武真国の厳しい冬が終わる頃になってだった。


 武真国へ来た時は秋だったせいもあり、兵たちは皆、薄い襌衣を着ている。雪が降った際の武真国の北風は、痛みを伴うほどだった。兵たちのために可能な限り火を熾し、暖を取れるようにとダムディンに頼み、なるべく武真国の兵舎にも入れてもらった。


 黎基もいっそ、皆と同じように薄着で過ごそうかと思ったが、雷絃たちに駄目だとうるさく言われた。


「元帥が風邪で鼻水を垂らしていたのでは締まりません。やめてください。大体、貧乏人は寒いからといって厚着なんてできませんから、大概は耐えます。殿下よりも体は丈夫ですよ」


 昭甫がうんざりしたように言った。それから――。


「雪は困りますね。ええ、とても」

「……わかっている」


 今に新たな戦いの幕開けとなることを、少なくとも雷絃と昭甫はよくわかっている。だからこそ、雪があってはいけないと言うのだ。


 雷絃もこの王都に滞在中、民兵の鍛錬も根気よく行っていた。統率が取れることで悲劇は減るはずである。

 その雷絃が黎基に対し、ずっと気になっていたであろうことをつぶやいた。


「展可には、殿下がこれから成そうとされていることを話されたのですか?」


 展可は今、民兵たちのところで共に鍛錬している。ずっと部屋にいるといざという時に体が鈍って動けないから、鍛錬は必要だと言われた。そんなわけで、展可は当分部屋には戻ってこない。この時に黎基は雷絃たちの部屋を訪れたのだ。


 ――国へ帰り、黎基は皇太子の座に戻れるように働きかける。しかし、きっとその機会は与えられない。

 帰るなり、謀反の恐れがあるなどと言われて父に近づくこともできぬまま葬られるのだと思う。それをさせないため、あらかじめ戦うつもりはしている。


 父は秦一族に毒され、黎基の言葉に耳を傾けることはしないだろう。だったら、その座を譲ってもらうしかない。退位という形にできればいいが、最悪は簒奪である。


 それでも、最早あの父に国を立て直す力はない。民も父を見限っている。

 知らぬは本人ばかりか――。


「展可にはまだ詳しい話はできていない」


 正直に答えた。

 妃になってほしいと、ずっと先のことを口にしておきながら肝心なところを飛ばした。これを言ったら、余計に断られそうだと恐れてしまう。


 雷絃は答えを聞く前から、なんとなく察していたのではないだろうか。驚きはなかった。


「近いうちには話そうと思う」


 話さなくてはならない。

 しかし、展可は黎基のことを過分に評価しているようなところがある。父である皇帝を退け、帝位にく、そうした血腥い行いに失望されそうで不安だと言ったら、この腹心の二人はそれこそ黎基に失望するだろうか。

 何を置いても成さなければならないことだというのに。


 この時、じっと話を聞いていた昭甫がため息交じりに言った。


「こう言ってはなんですが、あまりあの愽展可に傾倒するのはおやめになった方がよろしいかと」


 またそういうことを言い出す。黎基がムッとしても昭甫は引かない。


「私が展可に執着しすぎていると言いたいのか?」


 雷絃はハラハラとしていたかもしれないが、昭甫はまったく動じない。


「それもありますが、それ以上に、あの娘が殿下に抱くのは尊敬の念でしょう。それを好意と勘違いしてはおられませんか? 殿下もただの男に過ぎないなどと思われては、その尊敬も薄れますよ」


 どうしてそう、胸を抉るようなことを真顔で言えるのか。

 そこで傷ついてしまうのも、昭甫の言うことがまったくの的外れでもないと黎基自身が思うからかもしれない。


 怒るよりも意気消沈した。そして、今、悩まなくてはならないのはそこではないと思い直し、それでもやはり悩ましく、黎基は嘆息する。


「――部屋に戻る」


 一人になって少し頭を冷やそう、と。



     ◆



 黎基が部屋を出ていき、雷絃は思わず眉を顰めて昭甫に小声で言った。


「昭甫殿は何故に展可には否定的なのだ?」


 ひた向きで健気な娘だ。身分はないかもしれないが、黎基が気に入ってそばに置きたいと思っているのならそれでいいのではないか。


 しかし、昭甫は難しい顔をしていた。


「まさか、あの娘が刺客だなどと思っているのではないだろうな?」


 すると、昭甫は首を横に振った。


「それはありません。しかし、少々気になる点が……」

「気になる? 何がだ?」

「策瑛に、姜の里から従軍した者にそれとなく話を聞くように頼んでおいたのです」


 人当たりのよい策瑛なら、仏頂面の昭甫が訪ねるよりは打ち解けてなんでも話してくれたことだろう。それをわかっているからこそ昭甫は策瑛を使ったのだ。

 今は怪我も癒え、王都に到着してからはすっかり元気なものである。


「……展可の故郷だったな? 展可のことを訊ねたのか?」

「いえ、違います。の妹のことですよ」


 『愽展可』というのが兄の名で、あの娘はその妹である『愽桃児とうじ』であると昭甫は考えている。だから、桃児について探りを入れたのだ。



 策瑛が言うには――。


「あんたたち、姜の里から従軍したんだろ? 俺は展可と同じ隊だったんだ。展可には妹がいるって聞いたんだけど、どんな娘なんだ? 展可に似ているなら、きっと元気で可愛い子なんだろうな」


 姜の里から来たという二人は、戦などとは無縁の、いつも畑を耕しているような中年の男たちだった。姜の里は国の中でもかなりの僻地で、人も少ない。こうした人たちが暮らす、落ちついた里なのだろう。


 二人は顔を見合わせた。喋ってもいいかどうか警戒しているように見えた。

 集落には結束があり、余所者にはわからない絆がある。声をかけてきた男が何を目的とするのかが読めないので、用心しているのだろう。


「……あ、ああ、な。いい子だよ」


 と、それだけを言った。


「ふぅん。桃児っていうのか」


 ニコニコと策瑛が笑っていると、男たちの警戒心も薄れてきたようだった。少しずつ饒舌になる。


「桃児はしっかり者で、里の男たちも嫁に欲しがっているんだ。でも、桃児は先生に気があるからな」

「先生?」

「そう。お医者の先生だ。いつも嬉しそうに手伝いに行ってさ。先生がどう思っているのかはよくわからないけど、桃児の家族が赦すわけないんだよ。可哀想だけど」

「なんで? そんな変わり者なのか?」

「いや、まだ若いけど穏やかな人だ。人柄はいいとしても、先生は余所者だから」


 排他的な里でのことだ。流れてきた者をどこまでも受け入れない。まったく関りのない策瑛がそれを馬鹿げているとは言えないのだが。


「そうなんだ? 展可もきっと複雑だろうなぁ」


 二人はまた顔を見合わせ、うぅんと唸った。


「まあ、複雑だろうよ……」

「話、聞かせてくれてありがとな。じゃ!」



 ――と、策瑛は昭甫に頼まれていた通りに展可の妹の話を訊き、それを昭甫に伝えてくれたのだった。


「若い医者、か」


 雷絃は苦々しい面持ちでつぶやく。

 その医者を慕っていたとして、それがどの程度のものなのかはわからない。年上の異性に抱く淡い初恋程度であれば、まだ救いはあるのだが。


 ここで昭甫は嘆息した。


「もし、あの娘が己の願いを突き通すため、家族となんらかの取引をして従軍したのだとしたら?」

「どういうことだ?」

「ただの里娘が成り行きで従軍したにしては覚悟が違うように思えます。何がそうさせるのかがわからないと常々考えていました」

「国のために戦うのは、民として当然のことではないのか?」


 自分で口に出しておきながら、雷絃はきっとそうではないとも感じた。

 展可の言動はその範疇を超えている。自分を犠牲にしてでも黎基に尽くそうとする。それは自分たち武人ほどの忠義に近いものがある。


「そんな愛国心に溢れる娘なら余計に、殿下の求愛を躱し続けるものでしょうか? 何か仔細があるという気がしてなりません」

「民として殿下を尊敬していたとしても、その尊い御方と男女の仲になるとは考えにくいのか。自分に見合った身分の想う男が他にいる故に、殿下に色よい返事をしないと、そういう――」


 言いかけて雷絃は続きを呑み込んだ。それもすべて憶測にすぎない。勘違いであればいい。

 もし、本当にそんなことがあれば、黎基が深く傷つく。


 多分、黎基が誰かを恋しく思ったのは初めてのことなのだ。それが絶望に変った時のことを思うといたたまれない。それはあまりに惨たらしい現実だ。


 どうか展可が黎基の心を拒まずにいてくれるよう、雷絃も祈らずにはいられなかった。

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