35◆今は
それから、ダムディンは王城へと戻る手筈を整えた。
黎基たちはヤバル砦に残留かと思えば、ダムディンと共に行くことになった。
バトゥについていた兵のうち一万はダムディンに
イーハンと青巒兵は捕虜である。
ヤバル砦、アマリ砦に兵を残し、ダムディンはイーハンを連れて王城へ戻るのだ。
イーハンの身柄は金になる。交換に多大な見返りが望めるのだ。ダムディンはこれから使者を立てて青巒国と交渉を始めるのだという。
このヤバル砦の部屋で黎基がダムディンと語るのは、多分これが最後になる。明日にはここを出て王城へ向かうのだ。
「
と、残留を願われた。黎基は笑顔で答える。
「王弟フォン・イーハンを捕らえたのは、うちの展可です。ある程度の報酬は頂けるのでしょうね?」
「…………」
展可を勝手に使ったことを、黎基が根に持っていて当然だ。それをダムディンも察知しているからこそ、今後は必要以上に
ダムディンは渋々うなずく。
「報酬は兵糧がいいか?」
「助かります」
これから黎基が取る行動を、ダムディンはわかっている。だからこそ『兵糧』と言うのだ。
「先の火事で山野が燃え、作物の収穫量は実際のところどうなのです? 大きな影響はありますか」
「直に焼けずとも風で田畑に粉塵が積もる。それに、焼け出されて住処を失った獣が作物を荒らすので、まったくないとは言えないが、少々の蓄えはある。そこに青巒国からふんだくれば、な」
「青巒国の王弟があそこまで愚物だとは思いませんでした。王は交換に応じますか?」
黎基が冷ややかに言ってしまうのは、イーハンと顔を合わせたからである。
とにかく泣き喚いていて、王族とは思えないほどなんの覚悟もなかったのだ。毎日遊び暮らしていたとしか思えないほど情けない。
すると、ダムディンはククッと軽く笑った。
「要らぬとしても、交換するしかないだろうな」
「何故そう思われます?」
「王族が武真国で殺されたとあっては、向こうも体面上は報復せぬわけにはいかん。交換せぬのなら、全面戦争になる。しかし、今はお前たち奏琶国の援軍もいる。この時にことを荒立てたくはないはずだ」
青巒国の斥候も近くで様子を窺っていたはずだ。事情はわかっているのだろう。
そこでダムディンは頭をガリガリと掻くと、眉根を寄せて黎基を見た。
「それで、我が国の事情はあとひと息といったところだ。しかし、お前の方はこれからだ。なかなかに険しい道のりになるだろうが、お前はやり遂げるつもりでいるのだろうし、俺が止めることでもない」
もちろん、ダムディンが止めたからといって黎基の気持ちが変わることはない。
どのみち、目が見えるようになって帰れば待つのは死だろうから、選択肢はないのだ。
「ええ。それでも、私にも人並みの欲はあります。そのためには我が国が安定した治世でなければならないのです」
ずっと、苦しみ続けた母が健やかに暮らせる国であればいいと願っていた。
旅立った時の最たる目的はそれであったはずが、今は増えてしまった。
皆が平穏に暮らす中、己の傍らには展可がいてほしい。何も後宮に美女を集める必要はないのだ。最も愛しいと思える者がいてくれさえすれば満足できる。
逆にいうのなら、その一人を欠いて他に何百と数をそろえられても、そんなものは代わりにはならない。
展可はまだ、色よい返事をくれない。けれど、心底嫌がっているようには思えなかった。
戸惑いと恐れはあれど、黎基のことを嫌って断っているのではない。自惚れと取られそうだが、展可が自分を見つめ返す目の奥には好意も滲ませていると感じる。
もし、身分など何もない一個人としてならこんなにも抵抗されることはなかったのだろうか。
ただの庶民とはいえ、展可は琵琶を巧みに弾きこなし、武術にも優れ、何より度胸がある。黎基の隣に立っても十分にやっていけるだけの能力があると思える。
そんなものは欲目だと、昭甫なら言うかもしれないが。
黎基が部屋に戻ると、いつものように男の装いに戻った展可がポツリと待っていた。
女らしい恰好とはいえ、武真国の着物を着ているのはあまり嬉しくなかった。ダムディンが気に入って、また展可を寄越せと言わないか不安になってしまうから。
「おかえりなさいませ」
展可が迎え入れてくれる。
少しばかり表情が硬いのは、二人きりになると黎基が口説いてくるから構えているのだろう。
黎基はにこりと微笑んでみせる。
「これから武真国の王都アルタンへ向かうことになる。そこでしばらくは待機だ。本国へ帰るにはまだ時がかかる」
それを告げると、展可は嬉しいのか悲しいのか、どちらとも取れるような複雑な表情を浮かべた。
「左様ですか……。武真国は寒いですから、冷え込む前に戻れるとよかったのですが」
「早く帰りたいか?」
思わず訊ねると、展可は言葉に詰まった。
戦を終え、従軍から解放されるのだ。人を傷つける戦が楽しいはずもない。早く終わればいいと思うのは当然だろう。
ただ、黎基には展可が、黎基から逃げていこうとしているように感じられた。
「帰国が遠のくほど、展可が悩む時が長引いてしまうな」
――どうしてそう、困った顔をするのか。
心を決めて、共に生きると答えてくれないのか、黎基にはもどかしい限りだった。本当は、選ばせているようでいて、断られるとは思っていないのだ。
最後には少し強引になってしまうかもしれない。
展可が気にするのは、里の家族のことだろうか。
年老いた親や、何か問題を抱えた兄がいるのだとしたら、それも含めて面倒を見てもいいのだから、それならその事情を話してくれたらいいだけなのに。
それが受け入れられないほど狭量のつもりはないが、展可にとっては容易いことではないのか。
「答えは変わりません」
頑なにそれを言う。
そのくせ、黎基があっさりと諦めることも望んでいないような、そんな気がしてしまう。
展可の心はつかみどころがなくて、だからこそこんなにも惹かれてしまうのだろうか。
「
苦笑して、黎基は泣き出しそうに見えた展可を気遣うだけだった。
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