41◆疑惑

 展可は濁りのない水流のような娘だと思った。

 透き通るほど清らかで、そこには嘘がない。


 ――本当に?


 この時、黎基は初めてそこを疑った。

 湯あたりで倒れていた展可は、手を強く握りしめていた。明らかに何かを手のうちに隠していた。何を持っているのかと手を開かせようとしたら目を覚ました。


 そして、展可は黎基の目が見えないと信じているから、目の前でその手のうちにあったものを衣の下に滑り込ませ、何事もなかったかのようにして振る舞った。


 何を隠したのだろうか。

 少なくとも、それを黎基には知られたくなかったようだ。


 たいしたことではないのかもしれない。何かを拾って、それを懐に入れただけの話かもしれない。

 それでも、黎基は命を狙われる立場にある。


 もし、展可が黎基を油断させるために差し向けられた人材なのだとしたら――。


 それだけはないと思ってそばに置いたのに。昭甫も雷絃も、展可の忠誠心を疑っていない。

 しかし、それならば何故、今、こうして黎基は引っかかりを覚えたのだろう。


 展可は心を開いているようでいて、何かを隠している。

 ふと、それを感じた。


 展可の隠し事は、女であるということ。愽展可本人ではなく、その近しい血縁者ということ。

 その辺りだとするのなら、その嘘は黎基にとっては小さなものである。咎めるつもりはまったくない。

 けれど、展可の抱える嘘がそれではないのだとしたら。


 黎基は暗がりの中、身を起こし、隣で眠る展可を見下ろした。長い髪がしんだいの上に広がっている。

 無防備な姿だが、それも黎基を油断させるためなのかもしれない。


 ――信じたい。

 それが黎基の本心である。


 ただ、それは個人の気持ちでしかない。

 もし展可が秦貴妃の回し者であった場合、この命をくれてやるわけにはいかないのだ。今はまだ死ねない。

 黎基は、展可の薄物の襟に手をかけた。何を隠したのか、知らねばならない。


「…………」


 少し緩めたところで、どうしても開くことができない。

 無実だったらあんまりな仕打ちではないのかと。

 大体、途中で目が覚めたら襲われたと思うだろう。その場合、なんと言ってごまかしたらいいのか。


「…………」


 疑うのはつらい。

 少なくとも、黎基はこの娘を気に入っている。


 展可が黎基を害するつもりであるとは考えたくないのだ。

 声をかければ嬉しそうに笑い、照れて、慌てる。すらりとしていて、一見落ち着いた雰囲気を持つのに、黎基の前ではどこか子犬のようなまなざしになる。


 これが嘘ならたいしたものだと雷絃も言った。

 嘘ではない。そこには確かな心があると、黎基は信じていたいのだ。


 今まで、尽くしてくれた家臣のいくらかは秦一族の回し者で、黎基の動向を探っているということがあった。それを知っても傷つかなくなっていた。ああ、またかと。


 おもねる者ほど、信じてはいけない。

 それでも、展可のことは疑いたくない。


 黎基は展可の襟から手を引いた。すやすやと、展可の小さな寝息が聞こえる。

 その滑らかな頬に軽く触れてみた。それでも、展可は起きない。


 笑いが込み上げてきた。

 何かを企むのなら、こんなふうには眠らないかと。


 黎基は闇の中、漏れる月明かりだけで展可の寝顔を眺めた。

 この娘のことをもっと知りたい。

 そうしたら、こんな気持ちにはならずに済むだろうか。


 すやすやと眠る展可は、悪意のない寝顔をしている。この顔を見ていると、とても傷つけるようなことはできない。


 むしろ、胸の奥から今まで感じたことのないような熱が込み上げる。

 他の女でも、しばらくそばに置いていればこういう気持ちになるものなのだろうか。


 そのところが黎基にははっきりとわからない。靄がかかったような心に自分でも戸惑う。

 この娘が特別なのか。それとも、この状況だからこそでしかないのか。

 この気持ちの正体を、そのうちに突き止めてもいいだろうか。



 朝になって、展可が起きた気配があった。

 しかし、黎基は寝たふりをしていた。そうしていたら、展可が何か動くかもしれないと思って様子を窺っていたのだ。


 朝陽が眩しい部屋のしんだいの上に座り込み、展可はじっと黎基の顔を眺めているようだった。目を瞑っていても視線を感じる。

 それにしても、いつまで見ているのだと思うくらいには長く見ていた。これは黎基が起きるまでこのままなのだろうか。


「……展可?」


 呼びかけてみる。


「はい、おはようございます」


 いつもと変わりない声だった。そこに疚しさはない。

 やはり、昨日は黎基が勘繰りすぎただけなのかもしれない。


「よく眠れたかい?」


 まぶたを閉じ、横になったまま声をかける。展可は多分、うなずいていた。


「はい、とても。本来なら、殿下をお護りする役割の私が熟睡してはいけないのですが……」


 確かによく寝ていた。そのことを恥じ入っているようだ。

 黎基は思わず笑った。


「いや、ここは安全だから。……展可、着替えをしたいから、しんだいから降りるのを手伝ってほしい」

「畏まりました」


 やはり、展可は腫れものを扱うようにしてそっと黎基に触れる。害するつもりがあるようには感じられない。


「展可、狼に噛まれた傷の具合はどうだ?」

「もう塞がりましたし、痛みもありません。お気遣い、痛み入ります」


 目は閉じたままだから表情は見えないが、微笑んでいる気がした。

 黎基は、ぽつり、と言う。


「傷口に触らせてくれないか?」

「え? あ、えぇっ?」

「少しでいい」


 手を差し出す。展可は黎基に乞われたのでは断れないと観念したようだった。肩くらいなら、と思っただろう。


 黎基の手を、展可が自分の衣の襟を開いて肩を出した上に導いた。ザラリとしたのは瘡蓋かさぶただ。指先を滑らせると、展可が体を強張らせた。薄くて細い肩だ。それから、思った以上に柔らかい。


 とっさに思考が止まってしまった。傷口を確かめたかったのは、展可を信じるようになったあの日のことが嘘ではないと確認したかったからなのに、触れた途端に頭がぼうっとしてしまう。


「……よかった、治りかけのようだ」

「は、はいっ。よく効く薬を持ってきていたのでっ」


 展可の声が上ずる。少し、やりすぎたかもしれない。

 黎基は手を放し、苦笑した。


「すまない、私の衣を取ってくれ」

「はいっ」


 慌ただしく足音を立て、展可は衣の入った籠を黎基に手渡す。


「ありがとう」

「いえ……」


 黎基も寝衣を脱ぎ、深衣を着て帯を締める。その間に展可も急いで着替えているようだった。黎基が目の周りに布を巻いて振り返ると、展可は着替えを終えて髪を縛っていた。


 ただ、上手くできないのは、手が震えているからだ。

 怯えさせてしまったかと思ったが、そうではなく、布越しだからわかりにくいが、耳まで赤いように見受けられた。動揺が手を震えさせるらしい。


 その様子を目の当たりにし、黎基はぼんやりと思った。

 ――可愛い、と。

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