38◇休息
そのすぐ後、袁蓮たちは宿へ連れていってもらえたようだ。女たちが固まってはしゃいでいた。
いいなぁと物欲しそうな目をしてしまいそうになった展可の背に声がかかる。
「展可、行くよ」
「は、はい」
黎基が手を差し出したので、展可はその手を取った。
「太守のところまで行く」
「畏まりました」
この時、黎基のための馬車がすでに用意されていた。門の表で待っている老人が多分、太守その人だろう。黎基の姿を認めると、拝手拝礼した。
「あの話の続きをしたい」
「はい。今晩は拙宅にお泊りくださいませ」
馬車にまず黎基を乗せ、その隣に劉補佐が乗るだろうと思ったら、黎基が展可の手を放さなかった。
「展可も乗ってくれ」
「は、はい」
その後、遠慮なく劉補佐も乗り込んだので、座席が狭い。劉補佐は自分の座る場所を無理やり確保する。展可に背を向け、押したのだ。展可は黎基に体を押しつける形になった。
「い、痛いですっ。あぁっ、すみません、殿下!」
従軍中の薄汚れた着物や髪で密着したくない。展可が内心で慌てても、劉補佐は背を向けて座っている。むしろ黎基の方が気にして劉補佐を押し戻した。
「こら、展可が潰れるだろう。展可、すぐに着くからしばらくの辛抱だが、私の方に寄りかかっていいぞ」
優しいことを言ってくれるけれど、そんなことはとてもできない。
もう一台の馬車には郭将軍と太守が和やかに乗っていた。体の大きな郭将軍が三人目だったらもっときつかったなと思いつつも、この派手な心音が黎基に伝わらないかが心配で、生きた心地がしない展可だった。
明りの
郭将軍と共にもう一台の馬車から降りてきた太守に、劉補佐は何かを細かく話しかけていた。あの人は時々、目上の人に失礼がないか不安になる。
太守の屋敷は、
「――ええ、それくらいでしたらご用意させて頂きます」
と、太守が答えている。劉補佐はうなずくと、黎基のそばに来て耳打ちした。
「ああ、そうしてくれ」
黎基が答える。一体なんの話かと展可が首を傾げると、黎基は展可の手を軽く握り、そうして言った。
「展可、私たちは大事な話があるから、その間に湯を使わせてもらっておいで」
「えっ、そんな、殿下より先になんて――」
湯が使える。体や髪を洗って、服も洗って――考えただけで嬉しい。
しかし、物には順序があり、黎基を差し置いてというわけにはいかない。後ででも入らせてもらえるだけで十分だ。
それでも、黎基は軽くかぶりを振り、展可の手を放した。
「いや、話が長引くかもしれないから。そう長く滞在できるわけではないし、時は惜しいだろう? ここは甘えて使わせてもらうといい」
にこり、と笑ってくれる。劉補佐は冷たい目を展可に向けてぼやいた。
「お前がごねると後がつかえる。こちらは大事な話があるんだ」
「ごね……」
その認識は違う。ごねてなんていない。
大事な話とは多分兵糧のことで、確かに大事だ。展可は複雑だった。
「まあ、ここは気にするな。ゆっくりしてこい」
郭将軍までもがそう言ってくれた。むしろ、展可がいない方が話が捗るとでも思っているのだろうか。ここへ来て部外者扱いされては疎外感も覚えるが、仕方がない。
「わかりました。ありがとうございます……」
そんな話をしていると、太守の屋敷の使用人らしき女がきたので、太守は事情を軽く話した。女は黎基に拝礼すると、展可に声をかける。
「どうぞこちらへ」
「あ、はい」
黎基たちの方を気にしつつも、展可は女についていった。
元々、報酬もしっかり受け取らずに病人を診るような
だから、小振りだが庭園の池のような湯殿には心が躍った。黎基がすぐに入ると思ったのか、すでに湯は満たされている。
「お手伝いは要りますか?」
と、女が訊ねてきた。展可はかぶりを振る。
「いえ、一人で入れます」
「では、湯上りにはこちらをお召しください。あと、何か入用でしたらお声がけくださいませ」
薄物を駕籠に入れたものが片隅に用意されていた。
黎基が連れているから、展可にまで丁寧だった。展可はただの民兵に過ぎないのだが。
この湯殿には、
展可は束ねた髪を解き、着物を脱いで体と髪を急いで洗った。昔は癖毛に悩んでいて、髪が濡れると今でも少しうねりが出る。それでも、乾けばまた伸びるから、もうそれほど気にならない。
それから、着ていた衣も洗ってしまおう。丸洗いできることはそうそうないので、手で揉むと黒い汁が出てきた。しかし、着替えはないので大事にしなくてはいけない。
胸に巻いたさらしも一緒に洗い、天河石を入れてある守り袋も洗った。
すっかり洗って、絞って、囲いの柵に引っかけると、展可は今度こそゆっくりと湯に浸かる。守り袋の中の天河石の粒は、失くすわけにはいかないので手に握ったままで湯に浸かっている。
――とても、気持ちがよかった。
従軍しているというのに、味わったことのない贅沢をさせてもらっている。どうしてこうなったのかもよくわからないが。
ゆっくりと湯船に浸かっていると、こっくり、こっくり、と睡魔に襲われる。
体があたたまったせいなのか、思いのほかに疲れていたのか。
水面に顔をつけては意識を取り戻すということを繰り返した。
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