23◆嘘

「――それで、ご満足頂けましたか?」


 天幕の中、昭甫は銀器によそった食事の毒見をしている。それを眺めつつ、黎基はうなずいた。


「ああ。やはりあの子は害がないと思う」


 昭甫が毒見をしている椀は黎基のものなのだが、親王が食べるには粗末な雑穀の粥である。しかし、黎基がそれでいいと言ったのだ。行軍中は兵と同じものを食べると。


 当然、親王の黎基がそれを食べるのだから、昭甫や雷絃も粗食である。昭甫はあからさまに迷惑そうだった。それでも、総帥自らが食べることで兵の不満も理解できると思うのだ。


「雷絃殿もそう感じましたか?」


 そばに控えていた雷絃は、大きな体を揺するようにしてうなずく。


「殿下から直々に声をかけられ、感極まって泣いていた。あれが嘘だとしたらたいしたものだが」


 狼を前に、体を投げ出して黎基を庇おうとした。

 狼は、下手をすれば展可の喉笛を噛み切っただろう。もしあれが黎基の信頼を勝ち取るための演技だとしたらと疑ってみたものの、死んでは元も子もないのだ。あれは演技ではないと結論づけた。


 ――この行軍が始まった時から、黎基はどさくさに乗じて殺される心配をしている。

 秦一族の手の者が紛れ込んでいると見て、まず間違いはないだろう。間者の潜入を完全に防ぐことはできないのだ。ただ、誰がそうなのか、目星さえつけられない。だから、信じられるのは昭甫と雷絃だけだと思っていた。


 しかし、展可はきっと違う。

 姜の里という辺鄙な田舎の出で、秦家との直接的な関りはないはずだ。身元を調べてみて、しかしふと考える。


 愽展可は愽家の長男であるはずが、男ではない。正確には、展可の姉か妹だろう。なんらかの理由で展可本人が従軍できない事態に陥り、代わりにやってきたと考えられる。


 この場合、本人の名で登録すればよいのだが、長男である『展可』としてやってきたのだ。やはり若い女であると必要以上に侮られたり、劣情を向けられたりと、厄介なことが多いから、男として従軍したかったと考えるべきだろう。


 けれど、展可の隠し事はその程度のことだ。女だからといって咎めるほどのことでもない。むしろ、女の身でよく従軍したと気の毒に思うだけだ。

 血塗れになったせいで髪を洗ったのか、束ねずにおろしていた濡れた髪が肩にかかっていた。座っていると、本当に細身の少女にしか見えなかった。


 やはり、女だと知ってしまうと心配にもなる。

 複雑な思いを抱えた黎基の思考を、昭甫が椀を置いた音が遮る。


「あの狼たちは尋常ではなく興奮していましたが、狼たちをあんなふうにいきり立たせる薬はあるんでしょうか? 輿が通る前までは何もなかったのに、急でしたからね」


 あの狼たちは雷絃が率いる兵が駆逐した。狼の遺骸に不審な点はなかったが、それは見た目だけのことだ。


「血の匂いで酔うことがあるように、まったくないとは言えぬが」

「狼は鼻が利くから、人が嗅げないような匂いでも感じ取ってしまうことはあるかと」


 昭甫がため息交じりに言った。黎基も眉を顰める。


「それは、あの狼の奇襲は人為的なものだということか?」

「それも可能性のひとつです、と申し上げておきましょう。何せ、秦家の中には怪しい調薬をされる方もございますので。ご用心くださいませ」


 秦一族の秦謹丈は人を操るようにしていうことを聞かせるのだと言われている。それがなんらかの秘術によるものなのか、薬によるものなのかはわからない。

 ただ、皇帝の秦貴妃への寵が長年冷めやらぬのは余程優れた媚薬の力ではないのかと陰ではささやかれている。

 それ故に秦一族には優れた秘薬の作り手がいると噂になっただけの話かもしれない。 


 どんな手を使って黎基を狙うつもりなのかが知れない以上、些細なことでも疑ってかからねばならない。こうした時、疑り深い昭甫の人柄が生きるのだが、それを言ったら誉め言葉には聞こえないだろう。


「ああ、気をつけよう」


 神妙に答えた黎基に、昭甫はどこか冷めた目をした。


「そのおつもりがあるのでしたら、あまり得体の知れない者はお近づけになるべきではありませんが……まあ、若い娘ですから、殿下が気になるのも無理からぬことでしょうか」


 嫌な言い方をされた。ムッとすると子供っぽいだろうかと、精一杯平然としてみせる。

 それでも、年の離れた昭甫からすれば黎基はまだ幼いと思うのかもしれない。諭すような口調で言われた。


「御母堂様はそれはそれはお美しくお優しい女人でございますが、あのようなお方がそうそうおられるとお思い召されますな。女人に夢を見てはお怪我をなさいますよ」

「何を……」


 夢を見てなどいない。

 ただ、女は男に比べると力が弱くて、涙もろくて、優しくて――。

 無理に触れると壊れそうな儚さを感じる。その代わり、喜んだ時の笑顔は花が咲くように艶やかになる。もちろん、秦貴妃のような例外はいるとして。

 その認識がそもそもいけないとでも言うのだろうか。

 昭甫は考え込んだ黎基に続ける。


「目のことがございますから、常日頃、必要以上に人を近づけるわけには参りませんでした。本来でしたら相応しい御妃様と妾が数人いてもおかしくない御年ですが、秦一族の手前もあり、殿下は女人を侍らせることができませんでした。接し慣れているとはとても……」


 皇帝ちちの男児は二人だけ。ここに皇族の男児が生まれるのは秦貴妃としては避けたいところだ。それがわかっていたから、黎基は大人しく慎ましく暮らしていたのだ。


「殿下の秘密を今ここで知られては、今まで周囲を欺いてきた意味が水泡と帰します。あの展可という者が例え拷問にかけられても喋らないかどうかは確かなことではございません。少しの危険でも起こり得るのなら、それは隠し通さねばならぬことなのです」


 いつも、昭甫の言うことは残念ながら正論であった。


 この目が見えぬと嘘をつき通し、命を護った。生き永らえた。

 けれど、同時に、他人の命を犠牲にした。


 黎基を生かすため、人が死んだ。流れてしまい、生まれてこなかった弟妹もだ。

 その命を糧にして生きている。

 この嘘を意味のないものになどしてはならないのだ。


 秘密は、何人なんぴとであろうとも知られてはならない――。

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