サイモン・シン
サイモン・シン『フェルマーの最終定理』
サイモン・シンは2000年代に、『フェルマーの最終定理』、『暗号解読』、『宇宙創成』と、数学や科学を題材にした専門的な内容を、物語のように平易に描いたノンフィクションを次々に発表した。
そのシリーズの初弾にして、最も評価が高いのが『フェルマーの最終定理』。
その名の通り、フェルマーの最終定理が世に知られるようになった経緯と、それに数学者達がどのように挑み、どうやって証明したかを描いたノンフィクション。
フェルマーの最終定理自体は、ピタゴラスの定理の変形なので理解しやすい。
ピタゴラスの定理は、直角三角形の斜辺の長さをz、他の2辺の長さをx, yとしたとき、
x^2+y^2=z^2
という等式が成り立つ、というもの。
一方、フェルマーの最終定理は、
x^n+y^n=z^n
nが3以上の自然数のとき、この式を満たす自然数x, y, zは存在しない、というもの。
適当にxとyに自然数を入れてみればわかるが、確かにzは自然数にならない。しかし、無限にある組み合わせ全てにおいてそうなることを証明するには350年以上かかった。
フェルマーはもともと、この定理を公表するつもりはなかった。手持ちのディオファントス『算術』の余白にメモしただけで、そのまま誰にも知られずに散逸したかもしれない。
しかし、フェルマーの息子がこのメモを重要視して、メモ入りの特別版『算術』を公刊した。それで世に知られるようになった。
フェルマーは最終定理以外にもいろいろメモを残しており、それらは数学者によって検証され、証明されていった。最後に残ったのが最終定理だった。
フェルマーの最終定理は、証明したところで特別何かいいことがあるわけでもなかった。誰も解けなかったパズルとしてのみ価値があり、いろいろ役立つ便利な定理、というわけではなかった。
数学者達は、証明するのが絶望的な上に数学的な業績になりそうにないフェルマーの最終定理から離れていった。一方、最終定理を証明したら賞金がもらえることになったために、この問題は一般人にも広く知られるようになり、素人のパズルマニアがこぞってめちゃくちゃな論文を学術誌に送りつけるという珍事が起きる。
1984年、ゲルハルト・フライが、谷山-志村予想(の一部)を証明するとフェルマーの最終定理も証明することになる、というアイデアを提示した。このアイデアを成立させる上での問題点をジャン=ピエール・セールが指摘し、それは86年にケン・リベットによって解決され、証明された。
谷山-志村予想は、「有理数体上の楕円曲線はモジュラーで一意化される」というもの。一般人には何のことだかさっぱりわからない。私も書いていながら、本当にこの文章が谷山-志村予想を正しく表現できているかはわかっていない。
数学の問題は、そもそも問題の意味を理解すること自体が難しい。これを見れば、フェルマーの最終定理がどれだけ理解しやすいかがわかるだろう。だからこそ素人でも「解ける」と思って挑戦してしまうのである。一方、谷山-志村予想を証明しようとする門外漢はいない。問題の意味すらわからないのだから。
『フェルマーの最終定理』では、谷山-志村予想が何なのかわかったつもりになれる、わかりやすい解説が書かれている。それで調子に乗ってwikipediaとかで調べてみると、実は全然わかっていなかったことを思い知らされる。
谷山-志村予想は、もし定理化すれば数学界に多大な利益をもたらす。これによってフェルマーの最終定理は、プロの数学者が挑むに足る存在となった。とはいえ、谷山-志村予想の証明は絶望視されていたため、ほとんどの人はまともに挑戦しようともしなかった。例外的に、一人こっそりと証明するために密かに研究を続けていたのがワイルズだった。
ワイルズは10歳の時にフェルマーの最終定理に出会って以来、ずっとそれを証明しようとしてきていた。しかし、大学院生になると、業績にならないパズルにかまけているわけにもいかなくなる。それで楕円曲線の研究をするようになったのだが、フライ・セールの予想により、自分の専門分野に関係のある問題を解決することで、フェルマーの最終定理も証明できてしまうという僥倖に出会うことになる。これでワイルズは俄然やる気が出たのである。
フェルマーの最終定理をめぐる経緯は、それ自体が物語としてよくできている。作家がプロットを組んだんじゃないかというくらい、数々の伏線がクライマックスで効いてくるようになっている。
なので、もともとノンフィクションの題材としてはおいしいネタではあるものの、それを数学者ではない一般人にわかる(わかった気にさせる)ように描いたサイモン・シンの手腕は見事なものである。
フェルマーの最終定理を巡る物語については読んでもらうとして、本書において、私が気になった点についていくつか。
本書(新潮文庫版・初版95ページ)によると、エウクレイデスは数学的真理の追求そのものに価値を認め、自分の仕事を応用することは考えていなかった、とある。その例として、あるとき生徒が「いま教えていただいた数学はどんな役に立つのか」と質問したら、エウクレイデスはその生徒に小銭を与えて放校にした、というエピソードが紹介されている。エウクレイデスは生徒が数学を金儲けのために使おうとしている根性が気に入らなかった、というわけである。
この生徒が聞きたかったのは数学上でどのように役立つかということで、実用性の有無を聞きたかったわけではない可能性もあるのではないか、実はエウクレイデスの早とちりじゃないか? と思うところもあるのだが、それはいい。
問題は、このエピソードの出典がどこなのか、ということ。これが調べてもわからない。
サイモン・シンはちょくちょく間違ったことを書いている箇所がある(訳註で指摘されている)ので、このエピソードについても一応裏を取りたかったのだが、どうしてもわからなかった。
444ページには四色問題の証明が取り上げられていて、ワイルズの手書きによる証明に比べて、コンピューターの証明は味気ないという、守旧派的な話が載っている。
それで、どれだけ味気ないのかと思って、四色問題を取り上げた本をいくつか読んだことがある。確か新潮文庫にそのまんま『四色問題』という本があり、持っていたと思うのだが、本棚を探しても見つからなかった。
四色問題の証明は、コンピューターがHAL9000みたいなもんだと思っている連中にはつまらないかもしれないが、プログラミングやAIに興味のある人には面白い。ワイルズの古典的な英雄叙事詩のような面白さとは異なるが、これをくだらないものとして切り捨てるのはどうかと思う。特に、この後に『暗号解読』を書いた筆者としては。
『暗号解読』だって、結局最後はコンピューター任せであり、暗号作成も暗号破りも人ではなくコンピューターがやる。四色問題がくだらないなら、暗号の歴史だってくだらない。「なんだ、結局コンピューター頼みかよ。つまらん」で切り捨てるべき話になってしまう。
コンピューターによる証明は、コンピューターが間違っているかもしれない可能性を除外できないというが、それは人間による証明の検証だって同じだろう。なぜコンピューターは間違え、人間は間違えないと言えるのだろうか。そもそもコンピューターが間違うのは大概、人間が間違えることが原因である。
いずれにしても、人間が道具を使うことを否定するのは、人間性そのものを否定することに他ならない。人間は道具を作って使うことで初めて偉そうにできるわけで、道具なしだとただの弱っちい動物にすぎない。
コンピューターを使うことと、紙と鉛筆を使うことの間に大差はないのである。
もっとも、四色問題の証明が問題になったのはパソコンが普及する過渡期で、今のように、どこでも誰でも当たり前のように高性能なコンピューターを所有している現代では、コンピューターを否定したって始まらないと、数学者たちも諦観しているのではないかと思うが。
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