星新一『宇宙のあいさつ』『地球から来た男』

 星新一『宇宙のあいさつ』(新潮文庫)、『地球から来た男』(角川文庫)。

 この二冊は、私が初めて買ってもらった文庫本の小説である。実際に一番最初に買ってもらった文庫本は吉川英治『三国志』で、これも小説と言えば小説だが、私はこれを歴史書に近いものだと思っている。


 私の読書歴はゲーム攻略本から始まった。持ってもいないゲームの攻略本を読んで面白がっていたのである。その流れで『ドラゴンクエスト アイテム物語』などを読んだ。それからしばらくして横山光輝『三国志』を読み始め、そこから三国時代までの中国の歴史に関する漫画や小説、資料を読むようになった。


 これらに共通するのは、ベースとなる物語や歴史のある創作物だということ。歴史やゲームを基にした二次創作が私の読み物だったのである。


 そのため、教科書で星新一の「繁栄の花」を読んだときは新鮮だった。何の土台もない作品だったからである。

 教科書に載っている小説は、少なくとも舞台が現代、もしくは過去の地球のどこかだった。自分の世界と繋がっているどこかの物語だった。しかし「繁栄の花」の舞台は何の繋がりもない。未来の地球ということになっているが、具体的なことが描写されていないから、現代の自分との繋がりを感じられない。こういう小説は初めてだった。


 この頃には『機動戦士ガンダム』を観たりしていたし、退屈でしょうがなく、度々寝ながらではあったものの『スターウォーズ』三部作もテレビで観ていたから、SFが目新しかったわけではない。

 ただ、これらの作品は、舞台がリアルに見えるように細かい設定が用意されていたし、現代と繋がりがあるように見せようという演出をしていた。星新一の作品にはそれがない。抽象的なのである。

 私はその、「どこでもない」場所が舞台になっている作品に強く惹かれた。


 こうして星新一の作品を読みあさることになるのだが、その手始めがこの二冊だった。『宇宙のあいさつ』は「繁栄の花」所収だから、『地球から来た男』は教科書に代表作のひとつとして載っていたからである。



 星新一というと「エヌ氏」で有名だが、今回読み返した限り、この二冊にはエヌ氏は登場しない。星は、もともとは特に「エヌ氏」に特別な感情は無かったようである。

 たぶん誰かが「星の作品にはエヌ氏がよく出てくる」などと指摘して、星がそれに乗っかった結果、エヌ氏が増えていったんじゃなかろうか。


 星の文体は、江戸時代以前の説話や落語などに近い。物語のために人物が駒として配置されるタイプである。

 だが、風景描写や心理描写がないわけでもないし、登場人物に感情がないわけでもない。近代小説の技法も取り込まれている。

 実は日本の自然主義(ありのまま主義)よりも自然主義(小説を実験室とみなして科学的観察を行う主義)に近い(SFがそういうジャンルだからだろう)。ただし、西洋の自然主義が徹底した描写を行ったのに対して、星はあまり描写をしない。必要最低限でもないが、過剰でもない。これは、アメリカのSF小説の影響だろう。

 アメリカは描写よりも物語を重視する。一方、フランスは自然主義の発祥の地だけあって、細かい描写を重視する。


 日本の文壇は、ロシアやフランス文学を珍重する一方で、アメリカ文学には冷たい。星新一が日本の文壇で評価されなかったのはそのため。SFなんぞはガキの読み物というのが日本の文壇の評価なのである。



 私が大学で文学を学ぼうと思ったのは、星を評価しない文壇がどれだけ阿呆なのかを知るためだった。「作者の気持ち」を真面目に読み取ろうとしている連中の面を拝んでおこうと思ったのである。

 しかし、実際に文学で行われていることは、国語教育と比べると100年くらい進んでいた。ソシュールの記号学を取り入れて、ある程度論理的に作品分析ができるレベルになっていたのである。「作者の気持ち」レベルのことをやっている文学者はほとんどいなかった。国語教育でやっている文章読解は、ほぼ何の役にも立たない時代遅れの技術だったのである。


 私は、真面目に文学を学ぶことにした。そして、学ぶにあたって星新一を封印した。なぜなら、星新一の小説は、日本文学では評価不能という立ち位置だったからである。けなされていたわけではないが、評価されていたわけでもない。どう評価すべきかわからないという感じだった。


 その理由は、今ならわかる。星の小説には文学者を必要としないからである。専門家の解説や解釈など必要ないし、評価の必要もない。



 星はメモの断片をたくさん箱に入れて、ランダムに2つ取り出すことで、異質な組み合わせを作ろうとしていた。この手法については『できそこない博物館』などのエッセイで紹介している。


 これに近いアイデア捻出法を使っていた作家がフランスにいた。レーモン・ルーセルという。ルーセルの手法はもっと複雑で、言葉遊びから抽出された言葉を組み合わせて無理矢理くっつけた後、そこから物語を作り出すという手法を取っていた。


『アフリカの印象』や『ロクス・ソルス』では、言葉遊びによって作られた言葉の羅列が、『アフリカの印象』では王の聖別式の出し物として、『ロクス・ソルス』では発明品の説明として表現される。その後に、その出し物や発明品がなぜ催されたのか、作られたのか、という物語が語られる、という手法を採っている。

 物語部分は比較的読みやすいが、出し物や発明品の部分が、あまりにも人智を越えてわけがわからな過ぎたため、ルーセルは生前はほとんど評価されず、自費出版した作品は延々と在庫を抱えた(なお、物語部分を先に読んでから出し物や発明品の説明部分を読めば、多少は読みやすくなる。なぜそんな奇妙な出し物や発明品が存在するのかを知っているからである)。

 ルーセルが評価されたのは死後、ミシェル・ビュトールやミシェル・フーコーなどが高く評価した影響である。


 ルーセルと星が似ているのはそれだけではない。ルーセルは、小説は現実と全く関係ないものを書くべきだという信念を持っていた。現実から隔絶された作品を書こうとしていたのである。

 星も、できるだけ作品から時代性を排除しようとした作家である。晩年は作品に手を入れ、電話をかけるときに「ダイヤルを回す」という表現を削るなど、時代を感じさせる表現をできるだけ排除しようとしていた。

 両者の作風は全く異なるが、雰囲気は似ている。この世との関わりの薄さ、私達の知っている世界から切り離されたどこかの物語といった感じ。


 私はルーセルの作品が、読んでも全く意味がわからんくせに、なぜか好きなのだが、今回、星新一を読み返してわかった。読めば誰でも理解できるくらいシンプルな作品を書く星新一と、読んでもさっぱりわけのわからんレーモン・ルーセルが、実は似たタイプの作風なのである。



 私は、星の作品の魅力は、オチにあるとは思っていない。星の作品には、特にオチの意外性にこだわっていないタイプも多いし、伏線があるわけではなく、唐突に引き出されてくるオチも多い。

 星の作品におけるオチは、読者の思考の隙を突くためのものというよりは、登場人物や読者に理不尽を押しつけるためのものとして機能しているように思う。理不尽な出来事に遭遇したときに人はどう反応するのかが重要で、オチを知ってすっきりする、という類いのものではない気がする。


 むしろ、オチを放棄して読者を置いてけぼりにするタイプの方が多い。芥川龍之介の「羅生門」、夏目漱石『こころ』など、最後に主人公がどうなったか書かないタイプである。

 国語の授業ではしばしば、「羅生門」の続きを考えさせるとかいう課題が出るが、酷い課題だと思う。書かない方がいいから書いていないのに、そこを考えさせてどうするのか。もっと考える価値のある課題を出せばいいものを。

『こころ』の主人公が、手紙を持って汽車に飛び乗った後、奥さんと結婚するんだとかいう解釈を得意げに話す文学者も同類である。その解釈に何の意味があるのか。そこに気付いた俺偉いとか得意げになっているのか。オチがなかったら寂しくて死んじゃうのか? そのエピソードをくっつけたら、作品がより良くなるのか?


 私は、話の結末が落とされた話は、それそのものとして好きである。突然物語から放り出されることにリアリティを感じる。人生や現実の出来事は区切り良く終わるとは限らないし、むしろブツ切りにされることの方が多い。


 私がこの手の話が好きになった理由は、おそらく『三国志』の影響だろう。

 創作された物語では、なんやかやあっても結局は論理的に話が進み、それなりの結末に到達するものが多い。物語として安定している。そういう作品ばかり知っていた私は、『三国志』は結局、蜀が天下統一するのだろうと思って読んでいた。

 しかし、あれだけ長々と話が展開した挙げ句、蜀は滅んでしまうのである。それだけでなく、呉も魏も滅んでしまって、結局中国を統一するのは晋とかいう、ぽっと出の謎の国だったりする。これが推理小説だったら非難囂々である。犯人は人物リストにも載っていない、終盤に突然出てきたおっさんでした! で納得できるわけがない。


 私は虚無感に襲われたが、それと同時に「これが現実なんだ」と思った。主人公が都合良く魔王を倒してハッピーエンドなんてのは、作られた物語の中だから起きることに過ぎない。現実は理不尽なものなのだと。そして、私はこの理不尽や虚無感が嫌いではなかった。



 後藤明生の『挟み撃ち』も、ものすごく中途半端なところで話が終わる。外套を探す話なのに外套は見つからないし、そもそも外套探し自体も中途半端なままで終わる。とある人と待ち合わせをしているのに、その人も来ない。

 そしてこの作家も、アミダクジ方式という、突然やってくる異質なテキストを作品に取り入れるタイプ。


 私は『挟み撃ち』について大学の講義で講師に感想を聞かれたとき、「この作品は現実と切り離されているところがいい」と答えた。講師はニヤニヤ笑っていたが、その理由はわかる。『挟み撃ち』は戦争によって自己の一部を喪失した男の物語だから、「戦争」という現実にあった出来事とは切り離せない作品である。だから講師は「こいつわかってねえなあ」と思ったのだろう。


 いくらなんでも、読めばそのくらいのことは誰だってわかる。わかった上で「現実と切り離されている」と言っている。

 戦争を知らない私にとって、『挟み撃ち』の男の話はどうでもいい。戦前と戦後で、日本は歴史を分断したからである。分断することによって、悪の大日本帝国と私達は「関係ない」ということにした。

 だからこそ、挟み撃ちの序盤で、主人公は言うのである。


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もっともわたしが「諸君」などと呼びかけてみたところで、誰かが「ハイ!」などと返事をするわけではない。もちろんこの橋の上にただ立っているだけの男の人生など、現在の諸君の人生には何のかかわり合いも持たぬはずだ。

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 ここでいう「諸君」とは読者への呼びかけでもあるが、構造的にはお茶の水橋を通る人、つまりは学生ということになる。要するに、戦争を知らない世代に向けた呼びかけである。

 もし戦争を知っている世代なら、『挟み撃ち』の男の物語とは関わりがある。共に自己を分断された悲哀を共有できるかもしれない。しかし、その講師は戦後生まれである(ちょうど「諸君」と呼びかけられた世代)。だから彼にとっても、この作品とは関わりがない。なのに彼は上辺の知識だけで繋がっている気になっているからニヤニヤするのである。蓮實や柄谷が同じことを言ったら一目置くくせに、無名の学生は頭から馬鹿だと思っているからわからないのである。自分が『挟み撃ち』から「何のかかわり合いも持たぬ」と放り出された存在であるということに。



 私はいままで、自分が好む作品の傾向がよくわからなかった。星新一と『三国志』と後藤明生の間に何の共通点があるのだろうと思っていた。共通点などなく、ただ個々に好きなだけだと思っていた。

 しかし、今回、星新一を読み返して、ようやくわかってきた。意外だったが、案外似た手法を採っているのである。



 結局、星新一の作品そのものについてはろくに言及しないまま話は終わるが、そんなもの必要ないだろう。読めばわかる。あとは個人が作品とどう関わるか、というだけの問題である。

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