第五十話 晴れの日
俺達夫婦は、前々から呼ばれていた日に、利助の家を訪れた。
おりんは、俺達が出る前に、必死に怯えながら、「父ちゃん、母ちゃん、どうかよろしく言ってくれな、どうか頼むな」と泣いて頼んだ。昔から自信がなかったおりんだから、“相手方によく思われないのでは”と不安だったんだろう。
「大丈夫だ。うちで待ってな」
俺はそう言って慰めた。
「ゆっくり休んでおくんだよ。秋夫、お前、おりんを頼むよ」
秋夫は、「わかったよ」と背中で返事をした。
俺達は利助の煙草屋を訪ね、表から声を掛ける前に、利助に迎えられた。
「ああ!これは…どうも、お越し下さいまして、申し訳のない…!」
また口が利けなくなってしまったらしい利助に、おかねは優しく笑って「いいえ、お招きにあずかりまして」と返した。
「今日はよろしくお願いします」
俺がそう言って頭を下げると、利助は「こちらこそ…」と三度ほどぺこぺこお辞儀をした。
この間はどうとも気にしなかったけれど、利助は十分にいい男だった。
眉目秀麗とまではいかないけど、濃く太い眉に、切れ長の目、それから、薄い唇。でも、それらはすっかり気弱に垂れ下げられているので、“気が弱そうだな”という印象の方が強く残ってしまう。ちょっと惜しいところがあって、憎めない男だなと思った。
俺が俯いている利助を観察している間で、利助の父親らしい人が店の奥の間から出てきた。
襖ががらりと開くと、煙草の葉を刻んでいるらしかった仕事場が見えて、俺達が立っている土間に、背の高い、白髪の老人が現れた。
老人は快活そうな微笑みを浮かべて俺達を見ていて、二度ほど頭を下げながらこちらへ来る。
「いやいや、わざわざのお越しですまなんだ、利助の父で、利吉と言います」
「楽しみにしておりました」
おかねはにこにこ笑って利吉さんに挨拶をして、俺達は奥の間を通って、住まいに通された。
「それにしても、まさかうちの利助がおりんどんを仕留めるとは、思いもしませんでしたよ」
「そういう言い方はよしとくれ、親父」
「うふふふ、二人とも照れ屋なのが、合ったんでしょう」
おかねはこういう時に頼りになる。四人で話をしていたけど、うちの側はほとんどおかねが喋っていて、利助と利吉さんの話に上手く調子を合わせて、華を添えてくれていた。
“おりんは、あなたとの縁を喜んでいます”
その台詞だけは俺が言ったけど、その時の利助の表情と言ったら。
よくもあれだけ大きく開けるものだなといったように驚愕に見開かれた両目に、俺達も一瞬驚いた。
それから、「ありがとうございます」とか、「こんなに嬉しい事はありません」なんて事をありったけ言ってしまって、しまいにはおいおい泣き出したのだ。
俺達は少し酒を振舞われて、式の日取りについて話し合い、「おりんさんにどうぞよろしく」という利助の言葉をしっかり受け取って帰った。
婚礼の支度は、なかなか大変だ。
おかねはおりんに着物や櫛などを渡してやって、後々、利助方からも婚礼の衣装を調えるだけの代金が贈られてきた。
「どうだいお前、これは気に入りそうかい?」
おかねが新しい櫛や着物を着せてやっても、おりんはどれも「綺麗だなぁ」と感心してばかりで、結局おかねがどれがいいのか決めてから、おりんは「うん」とそれを了承した。
「まったく、お前ねえ、嫁入りなんだからもうちょっとしっかりしな」
「うん…」
おかねが言って聞かせてやっても、おりんは綺麗な打掛を身にまとった自分の姿に見惚れていて、聴いているのかいないのか分からなかった。
俺達は慌ただしく嫁入りの準備をしていたけど、俺は気になっていた事があった。俺達の様子を横目に見ながら、秋夫が面白くなさそうな顔をしていて、おりんの婚礼について、喜んでいなさそうだったのだ。
おりんの嫁入りの二日前、俺は秋夫を飲み屋へ誘っていった。
「なあ、男同士の話があるから、飲み屋へ行こう」
おかねがはばかりに、おりんが納豆屋の相手をしに出ている時、俺は秋夫にそう声を掛けた。秋夫は嫌そうな顔をしていたけど、俺が「なあ」と繰り返すと、渋々立ち上がった。
「俺達はちょいと出かけてくる。すぐに戻るから、先に夕飯を食べててくれ」
「あらそうかい」
長屋から出る前に、はばかりから出てきたおかねへそう声を掛けた。おりんは、長屋の奥へ入って行った納豆屋を追いかけて行ったようだった。
近辺にある飲み屋はどれも騒がしくてせせこましい。どこを選んでも大して変わりはないので、俺達は一番近い店へちょっと歩いた。
「おう秋夫ぉ。おとっつぁんも一緒かい」
「おう、にごりを三合くれやぁ」
店の親父に迎えられ、俺は一礼して、近在の飲み屋をいつも渡り歩いている秋夫に注文を任せた。
「今日は蛸があるぜ」
「じゃあそいつを。煮つけか?」
「おうよ、待ってな」
すぐに温められた蛸の煮つけが出され、俺達は湯呑へ酒を注いだ。それから俺は秋夫へこう聞く。秋夫は店に吊るされた魚を気にしている振りをしていた。
「なあ、お前、なんだってそんなに気に入らなさそうなんだ?」
俺が聞いた事の意味は、秋夫にも分かったらしい。でも、秋夫はしばらく俺を見つめてから下を向いた。そして、こんな事を言ったのだ。
「…昔、利助を脅した事がある」
「脅したって」
俺は長い事秋夫の父親をやっていたので、大して驚かなかった。でも、秋夫は片手を顔に押し当てて悔しそうな顔になり、それからその手を前に放り出した。
「ちょっと金に困ったって時に、脅かして、金を巻き上げたんだ…それを奴が覚えてたら…」
俺は“そういう事なら”と合点がいき、秋夫にこう言った。
「覚えてる」
俺が言った事に、秋夫は驚いて顔を上げた。その時初めて秋夫は、怯えた顔をしていた。
「そういうのは人間は忘れねえもんだ。お前、今から行って謝ってきな」
秋夫はバツが悪そうに横を向いていたが、持っていた湯呑を置いて「ちょっと行ってくる」と言い席を立った。俺はしばらく一人で酒を飲んでいた。
“俺が江戸時代に来た時は、何も持ってなかった。それが、子供を持ち、娘を嫁に出す事になるとはな…息子に説教も…”
しみじみと色々な事を思い出しながら、俺は酒を飲み、すぐに酔いが回ってきたので、蛸の煮つけを味わって食べた。
小半刻もすると秋夫は戻ってきた。
黙って座敷に戻ってきた秋夫は、まずは湯呑から酒をぐぐっと煽って、ぷはあと息を吐く。
「ふいーっ。堪ったもんじゃねえ。あんなに極まりの悪ぃもんはねえぜ」
俺は笑って、秋夫の湯呑に酒を注いでやる。
「まあ、謝るってのはそういうもんだ。でも、すっきりしただろ?」
そう言うと秋夫は顔を赤くして、「まあな」と小さく息を吐いた。
「“自分は気にしてない、謝ってもらえたらいいだけで、おりんに何を言うつもりもない”、とよ。まったく、良い奴なんだか頼りにならないんだか」
自分が悪い事をしたというのに、それを騒ぎ立てない利助の事が気に入らないらしい秋夫に、俺は思わず笑ってしまった。
元禄より宝永を挟んだ正徳三年の冬の日に、おりんは十六歳で、利助の元へ花嫁となって旅立った。
まずは昼に婿の利助が家に来て、おりんはそれを迎えて、頭を下げた。
家の戸口をおかねが開けて、「どうぞようこそ」と中へ迎えると、俺の隣に座っていたおりんは真っ赤になって俯き、居た堪れなかったのか、座ったままで利助へ深く頭を下げたのだ。
利助もどうしたらいいのかわからないのか、ぐるぐる目を回しながら戸口に突っ立ってばかりいた。だから俺は、おかねに「利助の足を拭いてやんな」と言った。
「そんな!自分で出来ます!こちらの手ぬぐいでよろしいので?」
そう言って利助が手に取ったのは、おかねの羽織だった。
「お前さん、あたしの羽織を泥だらけにしちゃいやだよ。ほら、足をお出しな」
「は、すみません…」
利助が家に上がると、おりんはますます俯いてばかりになり、“これで披露の席に立つなんて大丈夫なのか”と少し心配になった。
でも、おりんの前に利助が来ると二人は見つめ合って、おりんは、今まさに来た幸福の絶頂へと押し出され、泣き出しそうに笑った。
利助も泣きそうに笑い、俺達は二人に酒を注いでやって、二人も俺達の盃に酒を差してくれた。
花嫁衣装の披露は、利助の家で着替えてやる事になっていたので、おりんは、新しく買った小紋縮緬と桃色の羽織を着ていた。
それから少し食事をしていたけど、利助とおりんはたまに互いをちらっと見ては、俯いてから幸せそうに笑うばかりで、何も話そうとしなかった。
祝いの膳には、田作りや数の子が並んでいた。誰もが踊り出したいほどこの場に感謝をしているはずなのに、その分精一杯口を引き結んで、粛々とご馳走を胃袋に収めた。
おりんと利助は早く二人きりになりたいんだろうに、俺達は何という事もない互いの家の話などを出して、その場を次いでから、昼過ぎにおりんと利助を送り出した。秋夫は「おりんの荷物を持っていく」と言ってついていったが、すぐに帰ってきた。
「上手くやってるかねえ、おりんはさ」
すっかり緊張が解けてぐったりと壁にもたれたおかねがそう言う。
「あいつぁ結構抜け目がねぇんだ。心配ねぇよ」
秋夫は、さっきまではちびちびと控えめに飲んでいた酒を、がらっと煽る。
「きっと上手くいくさ。利助がいるんだ」
俺は、“なかなか上手い事が言えたな”と思った。
利助は頼りにならなそうに見えるけど、俺はずっと利助の隣に座って、彼の様子を見ていた。彼がおりんを、大事そうに大事そうに見つめているのを。
つづく
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