別れ編
第五十一話 死と香
「親父、
「おう」
その日、俺と秋夫は二人で酒を飲んだ。秋夫が家に居る、最後の日だったからだ。
秋夫はあれから、次郎と組んでの八百屋から成長して、一人でやっちゃ場から家までを渡り歩くようになり、少々信頼もついたらしい。そこで、一人で居を構えて仕事に集中した方がよかろうとの話になったのだ。
「相変わらずおめぇはすぐに真っ赤になるぜ、親父さんよ」
秋夫はヒヒヒと笑ってそう言う。
「生意気な口利くな」
大して威勢もない俺がそう言うと、秋夫はもう一度ニヒヒと笑った。
「秋夫、煮しめを食べるかい」
おかねがそう言うので秋夫は機嫌よく振り向き、「おうよ」と言って返した。すると、おかねが日の暮れ方に買った煮しめが膳に出される。椎茸と蓮根だけだったが、甘辛く味付けのされた、大層美味しいものだった。
「おっ、こいつぁいい。なかなか腕のあるやつのもんだな」
えらそうにそんな事を言ってみせる秋夫。俺はそれを、「もっと有難く頂きな」と窘める。それももう、今日で終わりになる。
「はーうめえ」
蓮を食べては酒を飲み、飲んだら椎茸を口に放り込む。すっかり大人の酒飲みだ。でも、そんな秋夫を見つめていても、「俺の子なんだ」と胸に迫る気持ちがあった。
「なあ、秋夫…」
「なんでぃ」
俺は、べらべらと喋るわけにはいかなかった。恰好をつけたいわけじゃない。とても単純な事を話すからだ。
じわりじわりと俺の下瞼に涙が溜まる。秋夫は俺の様子を見詰めていた。
「達者で暮らせよ」
俺がそう言うと、またニヒヒと笑い、秋夫は「そっちこそだ」と言ってくれた。
それから、俺達家族は散り散りになってしまい、もちろん嫁に行ったおりんの元を訪ねるなんてほとんど出来ないし、独り立ちした秋夫の邪魔も出来ないと、俺達は子供達にほとんど会えなくなった。
「さみしくなったねえ…」
おかねがそう言いながら、お茶を飲む。俺は、「ああ」とだけ返す。
それから一年ほどが経ってからだ。おかねが時々咳をするようになったのは。
「ごほん!ごほん!いえ、すまないね…ちょっとお待ち、おさめるから…ごほん!ごほん!」
稽古の合間に喉を使うと、おかねの咳が始まるようになり、それはだんだんとのべつの事になっていった。
「おかね、医者に診てもらおう」
俺がそう言っても、やっぱりおかねは初めは聞かなかった。
「いいよこのくらい。風邪なんだから、すぐになおるさ」
俺は彼女の両肩をがっしと掴み、「だめだ」と言った。俺が急にそんな事をしたもんだから、おかねは驚いてしまって一瞬体を固くしたが、力を抜いた時には、「わかったよ」と小さく言ってくれた。
おかねは、多分
“どうしてこんなに病ばかり…”
俺は、自分達が天然痘に罹った時の事を思い出していた。それから、昨日おかねが咳をした後で、胸元にするりとしまった、赤い手ぬぐいも。
咳に、
おかねは、そろそろ五十八になる。俺はまだ四十八だ。正確な勘定が難しいけど、俺は元禄元年に二十三歳で江戸へ来て、その時おかねは多分数えで三十四だったから、俺達は十歳の差がある。
いくら力をつけようとも、結核を治すのが大変だというのは、何も知らない俺だって解る。俺の居た現代でも、根絶されていないウイルスなんだ。
俺達はある日に、医者を家に呼び寄せた。おかねは咳ばかりしていて辛そうだったから、「家に呼ぼう」と俺は言ったのだ。
お医者は歳のいったお爺さんで、一通りおかねの診察をしてくれたが、最後に首を振って、「胸の病だ。なるべく力をつけなさい」と言っただけだった。
俺はしばらく、泣き暮らした。もちろんおかねの見えない時に。
“この時代に、結核に有効な治療は何もない…彼女が…彼女がもし死んでしまったら…!”
そう思って、心細くて堪らなかった。
おかねは、「おりんや秋夫には言わないでくれ」と頼んだ。「心配をさせちゃならない」と気丈夫に振舞っていた。でも、血を吐くのがしょっちゅうになってくると、「おりんはどうしてるかねえ」なんて口から漏れるようになり、俺はますます泣いてばかりになっていった。
“どうしたらいいんだ”
どうしようもないのだなんて、絶対に思いたくないのに、多分そうなのだ。
おかねの体は瘦せ細り、見る影もない。俺は、彼女がゆっくりと休めるようにもしてやれない。夜中もおかねは咳をし続けて、寝る間もなかった。
“ああ…”
俺はある晩、秋夫を家に呼んだ。戸口に立った秋夫はしばらく絶句してから、おかね目がけて、「お袋!」と叫び、抱き着いた。
「なんてこった…!なんてこった…!」
おかねの病気がなんなのかは秋夫に話してあったし、今の様子がどんなものかも聞かせた。それでも受け入れ難い、げっそりとやつれたおかねの姿。それを見てしまった秋夫は、この先が分かってしまって、わんわんと泣いた。
「なにさ、秋夫、泣くんじゃない」
風がさざめくような微かな声で、おかねはそう言って笑った。
おかねは、その年の暮れ、逝ってしまった。五十九歳だった。そして正徳が終わった。
彼女が最後に吐いた血が、まだ手にこびりついている。俺はそのままの姿で放心していてしばらく気づかなかったが、不意にどやどやと足音がして、振り返ると、おかねの両手両足を二人の男が抱えて、樽に詰めようとしていたのだ。
「何を…何をする!」
俺ががむしゃらに彼らにつかみかかろうとしても、脇から誰かが出てきて、俺を押さえつけた。
「嫌だ…!嫌だ…!連れて行くな!連れて行くな!」
おかねを樽に押し込め、蓋をした連中が、まるで死神のように見えた。でも、誰も俺を叱らなかった。
秋夫やおりんが駆けつけてから、俺はやっと正気を取り戻したが、泣いて泣いて話をするどころではなく、おりんや秋夫も同じだった。
近くの寺で経を上げ、縁のある人達とのお別れが済むと、彼女の体は土の下に埋められた。
俺は、誰の悔やみを聴く余裕もなく、ぼーっとしていて、秋夫の方がしゃっきりしていたくらいだ。
葬儀が終わって家へ帰る道で、ぽつりとこんな言葉が降ってきた。
“俺が江戸時代に来たのは、彼女のためだったのに”
俺はぴたりと立ち止まる。口から小さく、「そうだ」と声に出た。
そうだ。俺が江戸時代に来たのは、彼女のためだった。子供達はもう独り立ちしたんだ。あとは彼女の微笑みを見詰めて、また彼女に尽くせる日々がやってくるはずだった。
顔を上げると、遠くにぼーっと富士が見え、頭の上には太陽があった。俺はびしっと空を指さし、太陽を睨みつけてこう叫ぶ。
「やい!もう俺を戻せ!俺はこんな所にいたくなんかないんだ!」
“おかねの居ないところになんて…!”
俺はそう思っていたはずが、どこからか懐かしい香りが漂ってくると、強い恐怖が湧き上がった。
俺はその時、寺からの小さな道を歩いている所で、辺りには誰も居なかった。そこへ、あのお香の香りと、眠気がやってくる。もう何十年も前なのに、俺はなぜかその香りをはっきり覚えていた。
「いやだ…」
不意に口からついて出た泣き声さえ、どろっとした眠気に食い潰されていく。
“嫌だ、彼女と別れてしまうなんて嫌だ!”
俺はそう念じて、泣きながら目を閉じた。
つづく
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