第四十九話 盃
秋夫がふらふら遊び歩いていて、おりんもまだ小さかった時の話を、今日は振り返る。
元禄時代と言えば。と言ってすぐに思い出せる人も多いだろう事件が、元禄十五年に終結する。
その前から、江戸では、それぞれどれもまことしやかに、色々な噂が立っては消え立っては消えしていた。
“
俺の居た現代ではそう呼ばれ、「
説明するまでもないが、公家からの客人が将軍家へ招かれていた日、その城内で
江戸城から罪人が出てきた!
その触れが伝わったのは早かった。「不浄門」と呼ばれる、“平川門”から、どうやら人が乗せられた駕籠が出てきたらしいというのは、市民にも分かる事で、そこからあらゆる憶測が飛び交い、果ては「明日は上様のお葬式が執り行われる」なんて事を言い出した者も居た。
浅野の切腹は簡素な形式で粗雑に行われ、彼は罪人として、葬儀もせずに
その後大分して、市民にも事が知れてからは、今度は、“浅野か吉良か”の論議が、酔っ払いの間で盛んに行われるようになった。
俺はある晩、珍しく一人で酒屋へ行った。そこには、既に出来上がってしまった中年が二人、それから若い町人と思しき四人連れが居た。
酒を頼みもしない内に、隣の床几に掛けていた酔っ払いの一人が、こう叫ぶ。
「吉良が悪いに決まってらぁ!お侍が城内で抜刀するなんてなぁ、よっぽどだよ!」
その声はあまりに大きく、俺の向こうの壁まで飛んで返ってきた。
「でも浅野様だって、訳はとうとう話さず終いだってぇじゃねぇか」
「口憚る程の事ぉする奴ぁいくらだっていらぁ!だから言えなかったんだよ!」
「そうじゃなくてよぉ、勝手な理由かもしれねぇだろうが!現に吉良様はお咎め無しだぜ!」
「勝手な理由でお侍が刀を使うかよ!」
「それぇ言うならよ!吉良様が勝手な真似ぇするか?あの日ぁ、お公家さんがおいでになったってぇじゃねぇか!」
いつまで経っても平行線らしいのに、酔っ払い二人は酒を飲み続け、喧嘩腰に喋っていた。俺はそれを聴きながら、考えるともなしにこの先に起こるべき事を考え、二杯程酒を飲むと、家に帰った。
“
“赤穂義士は吉良邸までの地下通路を掘っている”
“吉良邸には赤穂の隠密が入っていて、討ち入りはもう間もなくだ”
こんな噂が、並べ切れない程囁かれ、遂に討ち入りの日はやってきた。元禄十五年の暮れ、十二月十四日だ。俺は日付を勘定していて、今何が起こっているのか知りながら、その晩家で、考え事をしていた。
暗い中、屋敷の扉を打ち破り、慌てて起き出してきた屋敷の者達を次々に切り捨てる四十七士へ、近くの大名屋敷からは提灯が差し出されて、吉良の首は討ち取られる。
俺は、江戸時代に生きてはいるが、価値観はまだまだ現代人かもしれない。彼らのする事を美しい話だと叫ぶのは気が咎めるし、浅野がやった事が「無責任だった」と言いたい気持ちも無い訳じゃない。
もしかしたら、俺はこれを物語に書けたかもしれないし、もっと言えば、変えられたかもしれない。元から全てを知っているのだから。
でも、悲しい結末だからと書き換えて良いのは、本当に物語だけだ。それに、なぜだろう、俺は彼らが死ぬと分かっていながら、「止めなければいけない」と感じなかった。
もちろん彼等の命が必ずなくなるだろうと大いに悔やんでいるが、討ち入りを止めるのは、もしかしたら、命を奪うよりも無礼な事なのではないかと思ったのだ。
なんとも悲しい運命だが、出来てしまった物は仕方が無い。
彼らはもしかしたら、単純な運命に絡め取られただけかもしれないし、変えた先にもっと彼等が納得する運命もあったかもしれない。でも、そこに俺は関わるべきではない。
「秋夫」
俺の後ろで、小さなおりんとおかねが寝ていて、秋夫が寝る前の一服をやっていた。行灯の光は乏しく、俺が振り返ると、秋夫はこちらを見て、うるさそうな顔をしていた。
「なんだよ」
俺は、父親だ。これはきっと、秋夫に教えておかなきゃいけないだろう。
「義理の為なら、やるしかない事もあるだろう」
「はあ、まぁ…」
秋夫は、何の話なのか分かっていないようだった。それはそうだろう。みんなに知れるのは明日の朝だ。
「どれか一つしか選べない事だってある」
俺がそう言うと、秋夫は煙管を唇から離し、俺をじっと見た。
「必ずいつか、そういう時が来る」
「…おう」
秋夫は戸惑っていたけど、そう見せないようにと煙草を吸って、ふーっと煙を吐いた。
俺は目の前にあった酒を一気に飲み干し、湯呑の底を卓へ半ば叩きつけると、布団へ入った。
つづく
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