第三十一話 喧嘩
俺は、声が聴こえている長屋の路地奥に向かって走った。わんわんと重なり合って聴こえてくる男たちの声の間から、甲高い女の叫び声が突き抜ける。俺がその場にたどりつくと、辺りは人だかりができていたが、間から喧嘩の様子を見ることができた。
そこでもみ合っているのは二人の女性だった。片方がやっぱりおかねさん、そしてもう一人の方も着物から見るに、やはりお糸さんのようだった。
「おかねさん!」
俺は彼女に向かって叫びながら、とにかく止めようと思って人の間を抜けていく。そして人垣の一番前に来ると、俺はその喧嘩の信じがたい様子にたじろいで、後ろへ一歩引いてしまった。
「邪魔ぁするんじゃない!今、
おかねさんはそう叫んだ。
なんと、二人は互いの髷を両手で掴み、なんとかグイグイ引っ張って、相手を引き倒そうとしているようだった。
その凄まじい力の入れようで二人の結び髪はぐしゃぐしゃになり、お糸さんの方は髪の毛がすべてバラバラになってしまっていた。
お糸さんは引っ張られることで首が大きく傾き、地面を見るような形になりながらも、なんとかおかねさんの髪を引っ張っている。そして彼女自身も、ぎゅっとつかんだおかねさんの髪をグイグイ揺らして、遠慮などまったくなかった。
「放せったら!なんだい色事師匠!」
お糸さんはそう叫んでおかねさんの髷をバラバラにしようと爪を食い込ませる。俺はとにかくやめさせるために何か言おうと口を開いた。でもそこでおかねさんがまた叫ぶ。
「なんだって!てめえに言えたことじゃあない!うちの下男はてめえみたいな“はすっぱ”にゃやらねえやい!」
“ええっ!?やっぱりこの喧嘩の発端俺ですか!?”
俺は一気に頬に向かって血液が集まるのを感じて、片手で顔を隠した。
「馬鹿にすんない!やっぱり秋兵衛さんに気があるんだ!」
“ちょっとお糸さん!そんなことを公衆の面前で叫ばないでください!”
俺は、周りに居る男たち全員が自分を指さしてニタニタと笑っているような気がして、とても顔を上げることなどできなかった。
「そんなこたぁてめえの世話にゃならねえ!とりゃっ!」
「あいたっ!」
はっとして顔を上げると、お糸さんがついに地面に叩きつけられてしまったところだった。
「これに懲りたら、もううちの下男に手ぇ出すんじゃねえ!」
おかねさんはそう叫んで力強く鼻息を吹き、こちらにずんずん向かってきた。
「あっ!お、おかねさん…!」
俺は、自分まで殴られたり蹴られたりするのではと思って、あわてて両手を前に出し、さらに後ずさるが、背中が誰かにぶつかる。
でもおかねさんはそのまま俺の横を通り過ぎ、家に帰って行ってしまった。
地べたに引き倒されたままの恰好で悔しそうに泣いているお糸さんをちらりと見たけど、彼女は俺のことなど見ていないようだったので、気の毒ではあったけど、そのまま俺も家に帰った。
俺が家の戸を開けて中を窺うと、おかねさんは髪の毛をまた綺麗に結い直しているところだった。
俺は何も言えず、なるべく音を立てないように静かに畳に上がって、外ももう真っ暗なので、行灯に注ぎ足す油が足りているかの確認をしていた。何かしていないと落ち着かなかった。
「お前さん、あの子に襲われたんだってね」
そう言われた途端、俺の体は動かなくなった。そして、蘇る光景に、背中がぴりぴりと震えだす。
どうやったのかはわからないけど、おかねさんは、お糸さんから俺たちの事情を聞き出してしまったらしい。俺はどう説明しようかと思うと、嫌々ながらも、昼間のことを思い出さずにはいられなかった。
俺は確かに、今日の昼に、父親の源さんが居ない、お糸さんの家を訪れた。
「お招きに上がりまして…見せたいものとはなんでしょう?」
源さんの家の戸を閉めてそう聞いた途端、なんと、お糸さんは黙ったままでやにわに服を脱ぎだして、急いで脇を見た俺の襟をつかみ、引き寄せたのだ。
もちろんお糸さんの手からはすぐに逃げられたけど、正直に言うと俺は恐ろしくてたまらず、二、三発引っぱたかれた方がまだマシだと思った。
現代人である俺にとってみれば、恋人同士でもないのに会っていきなり服を脱ぎだす女性なんて、恐怖でしかない。皆さまもそれはわかってくれると思う。
「あ、あの…でも、何もありませんでしたし…」
なぜ俺がお糸さんのしたことをわざと小さく言わなければいけないのか。俺だって怖かったのに。
でもなんとなく、“おかねさんがこれ以上嫉妬に狂ったら大変なことになる”と思っていた。事実、すでに大変なことが起きているのだし。
するとおかねさんは髪を結い終わって振り向き、俺にびしっと指をさした。
「何考えてんだいお前さんは!娘が一人きりの家を男がたずねるなんて!正気かい!ちったぁわきまえな!」
「は、はい!すみませんでした!」
反射的に頭を下げてしまったけど、これは俺が悪いのだろうか。俺は江戸の娘がどんなふうに恋をするのかなんて知らなかったし、お糸さんは俺に騙し討ちを食わせたのだから。
いや、でもやはり、男たるもの男女の距離に自ら節度を…うーん。わからない。
「ああもう!飯が冷めちまったじゃないか!何してんだい!食うんだよ!」
「はい!」
“
これはお
いや、俺がそう思っているということではない。
お糸さんの髪を引っ張っているおかねさんは、頭に角が生えていてもおかしくない顔をしていた。
“「江戸っ子」を張る女性は、そうそう夜叉をしまってはおけない、ということなのだろうか”
俺は、冷めて固くなったがんもどきをもそもそと食べながら、ずっとおかねさんの様子を窺っていた。
つづく
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