第三十二話 お説教





翌朝、俺たちが食事が済んだ頃合いで、トントンと戸を叩く人があった。


「はい、どなたでしょう」


返事をすると、「あたしだよ、秋兵衛さん」と、どこかため息交じりの大家さんの声が聴こえてきたのだ。


「はい!今開けます!少々お待ちください!」


俺はばっちりと心当たりがあったので急いで返事をしたけど、おかねさんはふてくされたように横を向いていた。









目の前にはしかめっ面をした大家さんが居て、おかねさんはそれを真っ向から受け止め、さっきからもう五分ほども二人は睨み合っていた。


俺は一人で“この長屋から追い出されるんじゃないか”とか、“またおかねさんが喧嘩を始めたらどうしよう”などと考えて悩んでいて、時折二人の様子を窺っては、その険しい表情にすぐ目を逸らした。


しばらくすると大家さんがだあーっと息を吐き、そうするとおかねさんはつんと横を向く。そしてついに、「お説教」が始まった。


「あたしがなんでここに来たのかはわかるだろう」


横を向いたまま、おかねさんは「いいえ」と答える。


「これ、しらばっくれても無駄だ。源さんから今朝、これこれこうとみんな聞いたんだから」


大家さんがそう言ったので、おかねさんは目だけを大家さんの顔に戻す。


「そうですか」


「そうですかじゃあない。若い娘さんの髪を引っ張り回して引きずり倒しちまうなんてのは、もってのほかだよ。どうしてそんなことをしたんだい」


おかねさんはちょっとためらったのか黙っていたけど、顎をくいっと持ち上げると、大胆にもこう言った。


「うちの下男に手を出そうとして、襲いかかったからですよ」


その時俺はどんな顔をしていればいいのかわからなくて、うつむいて息を止め、肩を縮めていた。


「そうは言ってもね、それは本当なら本人同士で済ませる話だ。おかねさん、なにもお前さんが出て行かなくたって…まったく、お前さんの癇癪かんしゃくにも困ったよ」


大家さんはすっかり呆れてししまいそうになりながらも、おかねさんに噛んで含めるように言い聞かす。


俺は必死で二人を見守っていたので、手元にあったお茶を飲むことすらできなかった。


「大家さんは、ご存じのはずじゃございませんか」


その言葉にドキッとして、俺はおかねさんを見たけど、彼女は向こうを向いていて、顔を見せてはくれなかった。


「お前さんと、秋兵衛さんのことをかい」


大家さんはちゃぶ台に肘をつき、おかねさんの方へと身を乗り出した。


「じゃあ言うがね、亭主ともいろとも言っていない男のことで、ほかの女と喧嘩になるなんて、こんなおかしな話はないんだ。これほどのことを起こすんなら、なんとか心を決めたらどうなんだい」


そう言われておかねさんは下を向き、膝のところで浴衣をぎゅっと握った。


どうでもいいけど、俺はこの話を聞いていて大丈夫なんだろうか。


「だって、そんなこと言ったって…」


「まだ善さんのことが気になるのかい」


「いいえ…大家さんがああ言って下さって、それからあたしもさほどまでは…」


「じゃあなぜ」


おかねさんはそこで浴衣の袖を自分で引き寄せ、がばっと顔を覆った。俺と大家さんは、息を詰めてそれを見つめる。


おかねさんはいつの間にか小さな肩を縮めて背中を丸め、すっかり落ち込んでしまっていたようだった。俺は思わず、彼女に声を掛けようと口を開く。その時だった。



「だって…あたしはもう、三十五じゃないですか…」



“えっ?おかねさん、三十代だったの!?そうは見えねえよ~!!”



俺がそう驚く顔を隠そうとして下を向いていると、大家さんがまたため息を吐くのが聞こえた。


「まさかお前さん、自分の年を気にしてたのかい」


俺が顔を上げると、おかねさんは袂の布地を両目に代わる代わる押し当てて、ちょっと涙を拭っているようだった。


「そりゃあそうじゃないですか…だから、お糸さんのことだって、よけいにカーッとなってしまって…あたしはもう、若くはないんですから…」


おかねさんは苦しそうに泣いている。俺は今度こそおかねさんを慰めようと、身を乗り出した。でもなんとそこで、大家さんが思いっ切り笑い出したのだ。


「アーッハッハッハ!」


俺とおかねさんは驚いて大家さんを見たけど、大家さんは体を引いてちゃぶ台を叩き、とても愉快そうに笑っている。


「わ、笑うことないじゃありませんか!何がおかしいんです!」


おかねさんは涙声でそう叫んだ。しばらくの間、大家さんは笑いを収めようとして苦労していたみたいだけど、目尻の涙を拭うと、おかねさんに頭を下げて手を合わせる。


「いやいやごめんよ、笑っちまって。でもお前さん、色事は年でするものじゃない。それに、お前さんたちはもう想い合っているんだしね。あとはなんてったって、お前さんはまだそんなに綺麗なんだ。だから、悩むこともないと思って、つい笑っちまったんだよ。悪かったね」


大家さんがそれを言い終わった時、おかねさんは今度は恥ずかしくて顔が上げられなかったようで、それに、俺にも顔を向けてはくれなかった。


頬を染めて顔を逸らす彼女は、やっぱりとても綺麗だった。




“知らなかった…そういえば俺、聞いてなかったな…”









つづく

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