第三十話 翻弄





俺たちは翌日、不忍弁天に行く支度をしていた。少し涼しい風も吹く日だったので俺は久しぶりに羽織を出し、おかねさんは念入りにお化粧をした。


「はい。これはお前さんのだよ」


そう言っておかねさんは、いつか繕ってくれた俺の財布を、渡してくれた。でも、それにはたんまり銭が入っていたのだ。


「えっ!こんなに…!?」


俺がずっしりと重い財布を上げ下げしていると、おかねさんはくすくすと笑った。


その時の彼女は、いつもより一層綺麗だった。


白粉を塗った肌は眩しいほど白く、吊り上がり気味の両目が細められた様子はまるでお狐様の目のようで、彼女は唇の端を弓なりに持ち上げ、その真ん中は、真っ赤な紅に艶やかに彩られていた。


「あたしが足した分もあるけど、ほとんどがお前さんの写し物の分さ。そういや出してなかったと思ってね」


「あっ!そうか!」


そういえば俺は、「写し物」で少しお小遣いを稼いだのだ。彼女と病の床から抜け出したあとは、俺はそのことをすっかり忘れていた。


「自分で稼いだ銭を忘れる人があるかね。ああ、おもしろい。さ、行こう」


「は、はい!」









俺は思うのだが、江戸時代の人は「信心深い」のもあるけど、今で言う「パワースポット巡り」のような感覚で、好き放題に寺社参詣を楽しんでいたようなところもあるのではないだろうか?


だって、どこの神社にもわらわらと人が居るし、人々は立派な建築を仰いで感心したり、まるで行楽気分でいるように、茶屋の団子を食べ歩いたりしている。


参道を歩いている時、俺はふと、そばに居たお職人らしき三人組が噂話をしているのを、小耳にはさんだ。



「よお。あれぁいい女だな」


「だな。ここぁ弁天様だ。似合いだぜ」


小股こまたの切れ上がった、涼やかな…うちのカカアとぁえれちげえだ」


「いるだけいいじゃねえか、カミさんもよ」


「あんなガミガミうるせえカミさんいらねえよ、あれじゃあガミさんだ」


「にしても、隣にいるのぁ、ずいぶん若えなぁ」


「だなぁ。弟じゃねえか?」


「ああ、きっとそうだな。あんまり似ちゃあいねえが」


「男女違えば、姉弟きょうだいなんてのぁそんなもんだ」


「かもな」



家族に聞かれたら家に雷が落っこちるようなことを言っているのも居るし、俺は勝手におかねさんの弟にされるし、噂話なんてのは、面白いんだか腹が立つんだか。


おかねさんに聴こえていないだろうかと心配して彼女の方を見ると、彼女は真っすぐ本堂へさして歩いていて、気にも留めていないふうだった。



ところが、帰りの参道を抜けて俺たちが弁天様を出た時、おかねさんはやっぱり大笑いし出したのだ。


「ど、どうしたんです?」


「アハハハ…ああ、おっかしい」


「何がです?」


お化粧が崩れそうなくらいにおかねさんが思い切り笑ったので、俺は周りの目も気になった。でも、誰も気にしていないようだったので、おかねさんに目を戻す。彼女はもう笑っていなくて、でもまだニヤニヤとしながら俺を見ていた。その目は、どこか惹きつけられる目だった。


おかねさんは上目がちにこちらを見ていて、睨むように瞼を寝かせているのに、薄く微笑んでいる。「色目」とも言ってしまえるような、そんな目だった。


「だって、行きに後ろにいた三人組ときたら、お前さんのことをあたしの「弟だ」なんてさあ。おかしいじゃないかね」


「えっ…!」



“これはもしかして!世間で言う「口説き文句」の始まりではないか!?”



俺は急に顔が熱くなり、慌てておかねさんから目を逸らす。するとおかねさんは立ち止まった俺を置いていき、元の道をそのまま戻って行ってしまった。


おかねさんは何か言うかと思いきや、それっきり黙っていて、鼻歌など歌っている。


「ま、待ってくださいおかねさん。あの…さっきの話は…」


「さっき?さっきってなんだい」


彼女がいたずらっぽくしらばっくれるので、俺は“照れているのかな”と思った。俺は、はしはしと歩く彼女についていく。


「あの、私が…弟ではないと…」


俺は思った台詞をやっぱり言い切れず、恥ずかしくてうつむいてしまった。そんな俺に、おかねさんはこう言ってのけたのだ。


「ああ、そりゃそうさ。お前さんは下男じゃないか」


その言葉は、俺の心にぐっさりと突き刺さったあと、氷のように溶けて消えて行った。



“えっ、なにそれ…。あまりに冷たくないですか、おかねさん…”



俺は帰り道に、綺麗に結い上げられた彼女の後ろ髪を見つめながら、心の中でこう叫んだ。



“江戸の乙女心がわからない!俺にはわからない!”



俺はなんだか、おかねさんにもてあそばれているような気がしないでもなかった。








弁天様から帰って長屋の木戸をくぐる時、俺の隣を誰かが通り過ぎようとしたので、俺は道を譲ろうとした。ところがその人が立ち止まったので、俺は足元を見ていた顔を上げる。


顔を見てみると、名前は覚えていなかったけど、この長屋の端っこに住んでいる娘さんのようだった。


俺が「なんでしょう」と言いかける前に、その娘さんは急に俺の手を掴んで、手のひらに紙切れを押し付けた。


そのまま彼女は両手で俺の手を包んで紙を握らせると、「読んでよ」と言っただけで長屋の奥へ引き返して行く。


その姿を目で追いかけると、おかねさんがこちらを振り向いて、「何してんのさ、早く帰るよ」と言っていた。娘さんはおかねさんの方は見ずに、横を素通りして行った。


「あ、はい、ただいま!」






俺は夕食のあとで皿を洗う時、袂にしまっておいた手紙をこっそり開いてみて、おかねさんの方を窺って、彼女が本を読んでいるのを確認してから、読んでみた。


“見せたいものがあるので、あすのひる、うちに来てください  お糸”


そこには、それだけが書いてあった。俺は一人で首を傾げる。


“見せたいものってなんだろう?あの娘さんとは話もほとんどしたことはないし、思い当たることはないけど…”


“でも、もしかすると内緒の頼みごとでもあるのかもしれない”


俺は翌日、おかねさんのお稽古の合間に訪ねてみることにした。









「た、たすけてえ!」



俺はそんな悲鳴を上げ、慌ててその家を飛び出し、必死で自分の家に駆け戻った。すると、俺があんまり大きな音で戸を開け閉めしたものだから、お弟子もおかねさんもびっくりして、お稽古をしていた三味の音が途切れる。


「なんだい騒々しいね!稽古の最中だよ!」


「は、はい…すみません…」


俺は心臓がドクドクと強く脈打って体中を揺らしているところで、とてもおかねさんの顔を見られる状態じゃなかった。背中は、冷や汗でびっしょりで、心の内はぐらんぐらんと揺れていた。


怒ったおかねさんに追い出されて洗濯をしていた井戸端に戻ってからも、俺は気が気じゃなくて、絶えず長屋の奥を振り向いていた。







そしてその晩、俺はいつもの通りに畳のへりのすれすれで膳に向いながら、まだ悶々と悩み、ごはんを食べていた。その日のお菜は、がんもどきときんぴらごぼうだった。


「お前さん、昼間、血相変えてうちに飛び込んできたね」


顔を上げておかねさんを見ると、彼女はしかめっ面でお米を口に運んでいた。


「え、ええ…」


俺は、“どうしよう”と迷った。



“あれは間違いなく、誰かに話していいことじゃない”



「何があったんだい。お言いな」


そう言っておかねさんはパチンと箸置きに箸を置いて、俺を一睨みした。


「言うまい」と思っていた。


なのに、彼女の眼光のあまりの鋭さと、今にも茶碗を投げてきそうに肩を怒らせた様子に、俺はいっぺんですくみ上ってしまった。


「じ、実はその…お糸さんといいましたか、長屋の娘さんに、家まで呼ばれまして…」


おかねさんはそこで、ぴくりと眉を動かした。それも怖くて、俺はうつむいてなんとか先を続ける。


「“見せたいものがある”と呼ばれたはずだったんですが、戸を閉めた途端、娘さんが…」


俺の言葉を聞き終わらないうちにおかねさんは立ち上がると、ほとんど駆け出すように家を飛び出し、あとをも閉めずに家を出て行ってしまった。



そしてしばらくすると、外が騒がしくなり、長屋の男連中が「喧嘩だ!喧嘩だ!」、「それっ!やっちまえ!」とはやし立てるような声が聴こえてきたのだ。


俺は“もしや”と思い、急いで外に飛び出した。








つづく

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