第十五話 江戸懐都合
長屋の住人で、「
「ねえ秋兵衛さん。
「は、はい。わかりました」
おかねさんは活き活きと喜んでいて、俺はまたちょっと緊張していた。土台、俺はあまり人付き合いが得意な方ではないから、初対面の人を前にするとどうしても緊張してしまう。
銀蔵さんの家は長屋の一番端にある。おかねさんが控えめに戸を叩くとすぐに「どなたですか」と愛想の良さそうな明るい声で返事があり、おかねさんが声を掛けると、俺たちはすぐに家の中に通された。
「ご無沙汰しちゃってあいすいません、おかねさん。でも、おかげさまでいい品が揃いましたよ」
銀蔵さんはしゃっきりと背筋の伸びた背の低い方の人で、商売柄か、あたりの良い声と笑顔にこちらも楽しくなってくるような、そんな人だった。
「そうかい、そりゃあいいねえ。どうだい、ちょっと見せておくれな」
おかねさんも楽しそうに笑っていた。
「ええ、すぐに。ところで…そちらはどなたで?」
俺は挨拶の文句をまだ考えていて、銀蔵さんのご商売のことから話を広げようかとも思ったけど、「それでまた怪しまれることになってもいけないしなあ」と、悩んでいた。すると、俺が困っているのを見たおかねさんが、また助け舟を出してくれた。
「この人はね、行き倒れからあたしの下男になったんだよ。働き者で、人間はいい方さ。あがってもかまわないかい?」
「そうなんですかあ。そりゃあ大変でしたねえ。ええ、どうぞどうぞ。今ちょっくらめぼしい品を出しますんで」
俺たちは銀蔵さんの家に上がってお茶を出され、銀蔵さんは商売道具から品物を出そうと後ろを向いた。その合間に、おかねさんは俺に耳打ちをする。それは本当に小さな声で、俺たちにしか聴こえなかった。
「“しょい小間物”はね、ああやって小さい引き出しの並んだものを背負って、お得意を回って、女物を売り歩くのさ。「今度は上方へ行く」って銀さんは言ってたから、きっといい物があるよ」
俺に内緒話を囁いてから、おかねさんは嬉しそうにくくくと笑った。
ああ、そういえば、「下らない」の語源は、大阪や京都、つまり「上方」から、江戸に「下る」ものがあって、そうじゃない半端物を「下らない」と表現するんだったっけ。と、俺は思い出した。
やっぱり江戸の人も、京都や大阪からの品物っていうと、有難がるものなのかな?
そこへ、畳の上にいくつかの売り物を出し終わった「銀さん」が振り向く。
「どうだい、なんだか良さそうなものがあるじゃないかね」
おかねさんはそう言うと、品物を見定めようと少し瞼を下げて、それぞれをじいっと見つめた。
「ええ、ええ。この櫛なんか、ちょっとしたもんですよ。おかねさんならお代はちいっとばかし負けますよ」
「ちょっと見せておくれな」
銀さんから
「いくらだい?」
おかねさんが櫛を握ったままそう聞くと、銀さんは首をひねり、「うーん」と考え込んだ。
「そうですねえ…それなら…」
結局おかねさんは、新しい櫛と、
おかねさんは、やっぱり江戸っ子だった。
時分時になると来る「
“江戸っ子は
俺が魚屋の金兵衛さんを家に迎えて話をしていた時にも、金兵衛さんは、「おかねさんは通だからねえ、口に合わないものは勧められても食べないけど、いいものをちゃーんと知っていて、必ずそれを頼んでくれる」と言っていたものだ。
それにしても、聞いてないから知らないし、じろじろ見るのも悪いと思うから覗き見もしないけど、おかねさんの稽古の謝礼って、いくらなんだろう…。
それから、おかねさんは江戸っ子の中でも、面倒見の良い江戸っ子だ。
俺は下男だけど、それでも俺が身の回りに困ることのないようにと、おかねさんは、あれが要る、これもあった方がいいと、いろいろと心配をしてくれていた。
おかねさんは、俺が下男だからといって邪見に扱ったりすることはせず、俺がわからないことがあった時にも、必ず優しく教えてくれる。そして彼女は、それをむしろ「良い主人としての誇り」と心得ているのではないかと、俺は思っている。
良い人だなあ。この時代の言葉でおかねさんのような女性を表現するなら、「気立てがいい」と言えるだろう。でも、だとすると…。
「おかねさん、あの、聞いてみたいことがあるんですけど…」
「なんだい」
ある晩、おかねさんが床をのべた後、ずっと不思議に思っていたことを聞いてみることにした。
今までは「下男のくせに生意気な口を」と言われるんじゃないかと聞けなかったけど、おかねさんがそんなことを言わない人なのは、もう承知だ。
おかねさんの向こうには行灯があり、高枕に乗った彼女の横顔の輪郭は、ぼうっと薄く照らされていた。長いまつ毛や心持ち高めの鼻の先、それから大きな瞳が優しく光り、どこか憂いがかったように見える影も美しい。やっぱり、文句無しの美人だ。だから余計に不思議だったんだ。
でも、何かおかねさんが傷つくことになったらどうしようか。そう思うと、なかなかすぐには口を開けなかった。
「どうしたい。聞くなら早くお聞きよ。あたしゃそろそろ眠たくって…」
おかねさんはあくびをして目を閉じる。
「あの…どうして、お嫁に行かなかったんですか…?」
言ってしまってから、俺はちょっと後悔した。
こういうのって、俺が居た現代で聞いても、セクハラに近い発言だよな。あーやっぱり聞かなきゃよかった。
俺は目を伏せて、そんなことを考えていた。でも、いつまで経ってもおかねさんから返事がないので、彼女を見ようとして俺は驚いた。
おかねさんは、目を閉じてゆったりと息をしている。それはもう、眠ってしまったようにしか見えなかった。いくらなんでも早過ぎないか?
「おかねさん…?」
俺が小さく声を掛けても、おかねさんは翌朝まで起き上がらなかった。
つづく
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