第十六話 冬の晩
「秋兵衛さん!お前さんとこでおまんまが焦げてるよ!」
「ええっ!?あ、ありがとうございますおそのさん!」
「早くしな!お師匠に怒られちまうよ!」
「はい!」
俺は桶を井戸端に放って家へと駆け戻り、慌てて薪に灰を掛けて消した。そしてお釜を開けてみると、中身はほぼ丸焦げだった。俺は、はあっと息を吐く。
おかねさんは、食べる物にうるさい。もしお米が丸焦げで朝ごはんが台無しになったなんて言ったら、
「どうしよう…」
「何をだい?」
玄関口から飛び込んできたおかねさんのさり気ない一言に、俺の背筋は跳ねて、つい「なんでもないです!」と言ってしまった。でも、部屋の中は焦げ臭いし、おかねさんはすぐに気づいたのか、彼女の眼は一気に俺を射抜くように鋭くなる。
「…焦がしたのかい」
仕方ない。これはもう謝るよりほかない。俺は怯えながらゆっくりと振り返り、そのまま竈の前で床に手をついて頭を下げた。
「すみません!お米をだめにしてしまいました!」
すると、聴こえてきたのは怒鳴り声ではなく、実に楽しそうな笑い声だった。俺は呆気に取られ、畳に手を置いたまま顔を上げる。おかねさんはお腹を抱えて、あははと笑っていた。
「おかねさん…?怒ってないんですか?」
俺がそう聞くとおかねさんはようやく笑うのをやめ、部屋の中に上がってきて、着物の裾を手で足の下に滑り込ませて正座をした。
「なあに。あたしは怒ったりしないよ。釜を洗って、新しいのを早く炊き直しておくれな。それと、今晩は久しぶりに「
おかねさんはそう言って笑い、俺とは少し
江戸の季節は、俺が飛ばされてきた秋から、いつの間にか冬になっていた。俺たちはぴゅうぴゅうと北風の吹く表通りを、着物の前を両手で合わせて、なんとか歩いていた。
うう、寒い。なんだか、令和の東京よりよっぽど寒い気がする…毎晩気温が下がっていくにつれて、眠りづらいほど寒くなっていってるしなあ…。
「もうそろそろ雪でも降りそうじゃないかね。お前さん、雪見は好きかい?」
「え、ええ…」
俺は「雪見」なんてほとんどしたことがなかった。江戸の人は雪見をするのが通例なんだろうか?
「そうかい、じゃあ一緒に雪だるまも作れるねえ」
「そ、そうですね」
へえ。雪だるまって、こんな古い時代からやっぱりあったのか。でも、もしかしたら昭和以降とは違う形かもしれない。これはちょっと楽しみかも。
「ふう、着いた着いた。早くあったかいもんをやりたいねえ」
俺たちは「元徳」に入ると、どうやらおかねさんのお気に入りらしい座敷にまた通された。いつものようにおかねさんは「熱燗を」とお酒を頼み、それからその日は、「鍋がいいねえ、食べ応えのあるものがいいからねえ、“ねぎま”を頼むよ。あとはおにぎりをね」と言った。
え?ねぎま?ねぎまって、あの焼き鳥の?
俺は「ねぎま鍋」がどんなものか想像しながら、少しだけお酒を付き合い、女将さんが「お仕度のできますまでは」と置いていった、ぬか漬けと味噌汁、それからお刺身を食べていた。
どんなものだろうな?やっぱり鶏肉とねぎの鍋かな?まあ美味しいけど、料亭でもそんなものを出すなんて意外だな。この時代、鶏肉は「
俺はそのくらいに考えていたが、実際に出てきた鍋は、もっともっと驚く物だった。
おかねさんが蓋を取ると、目の前には、ぶつ切りにした魚の切り身らしい物と、切った
え?魚?“ねぎま”なのに?俺はそう不思議に思ったので、ちょっと鍋を覗き込む。
「なんだい、お前さんねぎま鍋は初めてかい?」
「え、ええ…このお魚は、なんの魚ですか?」
浅い鉄鍋の中の魚にはどこかで見覚えがあった気がするけど、ちょっと思い出せなかった。
「
「えっ!トロ!?」
そんな贅沢な鍋を江戸っ子は食べていたのか!つまり、「ネギトロ鍋」ってことじゃないか!しかもトロがこんなにたくさん!
俺はそう思ったのに、おかねさんは「おあがりな」といつものように言い、ぱくぱくと鮪の切り身を食べ始める。
ああっ!もったいない!お寿司で食べたかった!
「どうしたんだい?ああ、お前さん、やっぱりトロは嫌いかい?」
「いえ!そんなことはありません!好きです!」
日本人の誰が鮪のトロが嫌いだって言うんだ!俺はそう断言する!
俺は“こればっかりは譲ってばかりではいられない!”と思ったので、鮪の切り身と葱を焦って箸で掴んで、口に入れた。
ああ、ほろりととろけるトロのうま味…葱の甘み…これ、発明した人を胴上げしたくなる!うまい!
「美味しいですね!」
「そうだろう?普段は捨てるようなところだけど、こうして食べれば、うまいもんさね」
あっ!そうか!
おかねさんの言ったことで、俺はようやく思い出した。そういえば江戸時代にはトロはあまり好まれていなくて、ほとんどの店で捨てていたのだと。
トロよ…よかったなあお前。こんなふうに食べてもらえる場面もあったんだな。
俺はなんとなく鮪のトロに同情しながら、美味しい鍋を噛み締めて温まり、梅干しのおにぎりもおなかに入れて、満腹になった。
食後、おかねさんはなぜか長いこと黙っていて、なかなか最後のお銚子を飲み終わらなかった。それに彼女は、顔色も
「あの…おかねさん、具合でも悪いんですか…?女将さんを呼びましょうか?」
「いいや、そんなんじゃないんだよ」
ぼーっとしながらも、悲しんでいるように、おかねさんは空になって脇へ押しやられた鍋の中を見て、それだけ返事をした。
そしてまた奇妙なほど長い沈黙があり、合間に彼女は徳利の中のお酒を飲んだ。でもその飲みようはまるでやけ酒を煽っているようで、食べている間の楽しそうな様子とは全然違った。
「お前さん、この間、「どうして嫁に行かない」って、聞いたね」
そう話しだしてからも、おかねさんは鍋に目を落としたまま、何か別のことを考えているように上の空だった。
「あたしにはね…言い交わした相手がいたのさ。「二世も三世も」と…芝居がかったちょっと気障な男だったけど…誰よりあたしに優しかったのさ…」
俺には、彼女が悲しいことを話しているのだとすぐにわかった。その相手とは結局別れ別れになったことも。
そして、この前の晩、俺が気軽に聞いた一言を寝たふりでやり過ごさなければ、彼女は傷ついて取り乱しそうになるほどに、まだ悲しみが癒えていないのだろうことも…。
俺はうつむいて、“余計なことを言いやがって”と、自分を責めた。
「死んじまったよ。こんな、冬の晩にね…」
それ以上、おかねさんは何も言わなかった。俺も、何も聞かなかった。
「食べ終わった。さあ、帰ろう」。そう言った時にはおかねさんはいくらかいつものように笑っていたけど、それは痛々しく悲しげな微笑みだった。
つづく
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