第十四話 彼女に知れた嘘
俺は悩みを抱えていた。もちろん、おかねさんのこともある。ただ、俺の母親は病気を抱えていた。だから、「もしかしたら小説家の道は諦めて、これから介護をしなくちゃいけないかな」と、考えていたところを、俺は江戸時代に飛ばされてしまったのだ。
それにしても、あのお香は一体何者、というか、どういったものだったんだろうか。
「母さん…」
俺はその時井戸で水を汲んだところで、井戸端に誰も居ないと思っていたから、そんなふうに独り言で母さんを呼んだ。
その日もおかねさんはお弟子さんに稽古をつけ、俺は次々訪れる彼らにお茶や干し芋を差し出したり、合間に米を研いだりした。
俺はおかねさんの言う通りに「如才なく」していたと思うので、なかなかお弟子さんたちからも評判は良かった。とりわけ栄さんからは、付き合いが一番古いと言われて可愛がられ、「秋兵衛さん、今度一緒に遊びへ行かねえかい。
「「中」とはなんのことですか」と俺が聞いた時、栄さんは突然大笑いし始め、「師匠!こりゃあ確かに御大尽ですぜ!まいったなこりゃあ」と言っていた。
栄さんも、残りのお弟子さんもみんな稽古が済んでしまってから、おかねさんは俺を火鉢のそばへ呼んで、こう言った。
「なんでしょうか、おかねさん」
おかねさんはこめかみに手を当てて軽く首を振り、俺をちろっと横目で見た。それはなんだか呆れているように見えたので、俺は「何かまずいことをしたかな」と思って焦った。
「今日栄さんに、中へ誘われたね」
俺はそう言われて、“ああ、そういえば「中」とはなんだろうな”と、疑問を思い出したけど、その時のおかねさんがどうやら怒っているように見えたので、聞く気になれなかった。そして、その必要もなかった。
おかねさんは、俺と彼女の真ん中にある、何も乗っていないちゃぶ台を見つめて、大きくため息を吐く。そして、まるで汚らわしいものでも見るように、表の戸を見た。
「ああいう札付きとうちの下男が同じ場所で遊ぶなんざ、もってのほかさ。それになんだい?「中へ行こう」だなんて。フン。女が相手にしてくれる面でもないくせに気取ってさ。お前さん、
おかねさんがそう言い切った時、俺は「中」とは「吉原の
もちろんそれは、自分の下男である俺に良くない遊びをさせるつもりはない、ということでしかないんだろうけど…。
俺の毎日は江戸の下町にある一角でひっそり過ぎていき、それでも俺は自分のことを、令和に生きる人間だとまだどこかで思っていた。だから、暇を見つけては考え込んで、だんだんと、戻れないことへの焦りが募っていった。
その日、おかねさんは稽古は休みで、「二人で
俺はおかねさんの荷物にきんちゃく袋を持ち、おかねさんは財布の中を見てお化粧をしてから、家を出た。
裏長屋の木戸を開けて表通りへ出ると、職人たちが大わらわをしている通りが続き、そこを過ぎると
そこから先は
あとで屋台で夕食にしようと話しながら、俺たちは参道を後に戻ろうとした。でも、言葉が途切れた時、おかねさんがこう言った。
「おっかさんのことでもお願いしたんだろ?」
俺はびっくりして一瞬立ち止まりそうになったけど、そのままおかねさんの後をついて土産物屋に入って行きながら、彼女の後ろで、“どうしてわかったんだろう”と、もう思い悩み始めていた。
「お前さん、おとつい井戸端でおっかさんを呼んでたじゃないか」
夕暮れ時に家に帰ってから、気まずいながらも俺が「どうしてわかったのか」聞くと、おかねさんはそう言って、どこかうつむいてがっかりしたような顔で笑った。
それから行灯に火を入れて羽織を脱ぐと、それをそこらへほっぽって俺が拾うのを待ち、おかねさんは行灯のそばへ正座をする。俺は、“この場をどうやって切り抜けよう”と考えながらも、衝立にでも掛けておこうと羽織に手をかけた。その時だった。
「どうして嘘なんかついたんだい。お前さん、何者なんだい?」
そんな冷たい、侮蔑を孕んだ声音が、俺の頭に降ってきた。それはびしゃっと冷たい水を掛けられた気持ちになるような、険しく尖った声だった。
「そ、そんなこと…」
俺は迷った。本当のことを話したって狂人扱いされるだけだ。この時代に、“未来”なんて概念はない。それに、もう「何も覚えてない」では押し通せない。でも、嘘に嘘を重ねるなんて嫌だ。でも、でも…。
俺は、ここを追い出されるなんて嫌だ。どうしても嫌だ。
薄暗い中に行灯のほのかな灯りでおかねさんの姿が浮かび上がり、俺を咎めるような表情は、その乏しい光が顔の下から差す様子で一層厳しく見えた。
どうしよう。どうしたらいいんだろう。なんとかごまかさなくちゃ。でも、その方法がない。
それでも、「行くところがない」なんて理由ではなく、俺にはもう、はっきりと“ここに居たい”と思う理由があったんだ。
俺は、“おかねさんが納得できる理由を言わなければ追い出される”と思うと、両手の先がぶるぶると震えて止まらず、とにかくごまかすために笑顔を作ろうとしているのに、自分の顔がどんどん泣き顔になっていくのを感じていた。おかねさんの羽織を握りしめたままでがっくりと畳に手をついて、俺は必死に涙をこらえ、おそろしさに耐え切れずおかねさんを見上げた。
おかねさんは俺がそんなふうに精一杯怖がっているのを見て、悪いことをした気になったのか、急に怯えて眉を寄せた。俺はそれを見逃さず、とにかくその場で額を畳にぶっつけた。
「お願いします!ここに置いてください!ご迷惑はお掛け致しません!お願いします!お願いします…!」
そうして俺は何度も頭を床に叩きつけ、いつのまにか畳を濡らしてじりじりと額を擦りつけていると、おかねさんは俺の肩を引っ張って起き上がらせてから、手ぬぐいで涙を拭ってくれた。
「わかったよ。…なあに、何も追い出そうって話じゃないんだからさ。お前さんは大事な下男だし、もしわけを話して頼りたくなったりしたら、その時にそうしとくれな」
俺はその言葉を聞いて気が緩み、一気に目の前が歪んで、またぼろぼろと涙をこぼした。
「泣くんじゃないよ。わかった、わかったからさ」
「ありがとうございます…」
「ほら、じゃあ今日はもう寝よう」
「はい…」
つづく
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