第十三話 長屋の騒動、江戸の音
俺はおかねさんの家の戸口で、混乱していた。
とにかく俺は誤解されている。
「てめえは待ってろ!俺ぁこのアマ片付けてから、てめえもぶっ殺してやる!」
え、ええ~~っ!?勘違いでそこまでいくか!?
俺はこの時初めて、「江戸っ子の気の短さ」というものを思い知った。
親方はこの家からおそのさんが出てきたところを見た。そしてその時、俺は家の中に居た。
それにしたってちょっと早計過ぎやしませんか親方!
「ま、待ってください親方!誤解です!」
無駄かもしれないけど、俺は事情を説明したかった。だってそうしたら納得するんだし。
「誤解も何もあるかってんでぃ!クソでもくらえこんちきしょう!」
俺にそう叫びながら、親方はおそのさんの髷を引っ掴んで離さない。
「何さ!お前さんだって浮気ばっかりで女狂いをしてるじゃないのさ!そんなお前さんが言えた義理かい!」
おそのさんは髷を掴まれた手を引っかきながらそう叫んだ。
「なんだとぉ!?」
おそのさんはつい口からそう出てしまったんだと思うけど、それで誤解はさらに加速し、親方はとうとう腕を振り上げた。だから俺は止めるために滑り込もうとした。でも、間に入って親方を取り押さえたのは、俺ではなかった。
「邪魔すんじゃねえ!放しやがれってんだよ!」
「まあまあ、ちょっと落ち着きなさい」
五郎兵衛親方を止めたのは、大家さんだった。
「大家さんかい!悪ぃけどな、手を放してくれ!こいつぁな!」
いつの間にか現れた大家さんは、穏やかな表情を作りながらも、年老いた体でなんとか五郎兵衛親方を押さえようとして、力を込めた腕をぶるぶる震わせている。
「だから。はいはい、ちょっと落ち着きなさい」
それでしばらく大家さんと親方は力比べをしていたけど、怒りが収まってくると親方もふうっと息を吐いた。大家さんの後ろに海苔屋のトメさんが居たから、多分、騒動を聞きつけて急いで呼んでくれたんだと思う。
「それで、何があった」
俺たちはとりあえず、おかねさんの家に入って、大家さんと俺、それから五郎兵衛親方とおそのさんで、話をすることになった。トメさんは「とにかく喧嘩が収まってよかった」と、家に帰って行った。
「何がってねえ大家さん。この女、間男してたんでぃ」
「ここに居る、秋兵衛さんとかい」
「そうですぜ、まったく」
「そんなこたぁしやしないよ!お前さんが帰ってこないんで、心配をして相談に来ただけさ!」
「確かに、私はそのことで相談をされて、お茶を出しただけです」
それぞれの主張が出ると、どうやら親方にもはっきりと事情はわかったようだ。でも、さっきまであれほど怒って「ぶっ殺す」とまで言ってしまった手前、決まりが悪いのか、親方はぶすっとした顔をやめなかった。
「まあ、勘違いは誰にでもあれど、お前さんはもう少し考えてからにしなくちゃならない。とくに、おそのさんは良い女房で、お前さんだって惚れてるからあんなに怒るんだ。それならもっと大事にしておやんなさい。もう少し度量を広く持って、話を最後まで聞いてやるくらいはしなきゃならない。そうすれば今度みたいに、おそのさんに痛い思いをさせずに済むんだから。もう少し、話を聞いてやるんだよ」
「ああもう、わかりましたよ!大家さんは話がなげぇんだから」
五郎兵衛親方は恥ずかしくなってしまったのか、手を顔の前でぶんぶんと振った。それを大家さんは少し不満足そうに見ていたけど、それ以上深追いするとまた怒らせると思ったのか、俺を見る。
「秋兵衛さん、すまなかったね、うちを借りちまって」
「え、いえ…」
「すみませんでした、秋兵衛さん…」
おそのさんも涙ながらに俺に謝る。その態度があまりに丁寧だったので、俺はまた親方に誤解されやしないかとちょっとひやひやしたけど、大家さんと親方夫婦はそのまま帰って行った。
とりあえず、五郎兵衛親方には気を遣って、いつも手短に用件を済ませるようにしよう。二口以上しゃべったら怒られそうなくらい、気が短いみたいだ。
「うーん…」
俺は思わず唸った。
そのあとおかねさんが家に帰ってきたので、俺はお茶を入れたりしながら、「いいものはありましたか」と聞いた。
「ああ。なかなかちょっと手に入らないものがあったよ。お前さん、聴いてみるかい?」
「ええ。違いはわからないかもしれないですが、聴いてみたいです」
「じゃあちょっとやってみよう。お待ち、今音締めを…」
「ありがとうございます」
俺は正座をして姿勢を正し、おかねさんはきりっと三味線の弦を引くと、新しい撥をちょっと手になじませるように何度か握り込む。そしてひたむきに目を伏せて、大きく息を吸った。
ちん、ちり、ちん…
三味線の音は、力強いのに、とても艶がある。俺はそう思う。
「あねぇ、え、さま、をぉ~」
何かの唄の一節だったのか、おかねさんは“春風師匠”になってそう語った。おなかから声を出すと、それは潤った喉を通って凛とした響きになる。
ろくに聴いたこともない歌い方なのに、昔懐かしい気がして、どこか憂いを帯びたような声は、俺の心に沁みたような気がした。
そのあとも唄は続き、音が途切れると、おかねさんは惚れ惚れとしたような顔で、三味線を撫でる。
ああ、ほんとに三味線が好きなんだろうなあ。
「綺麗な音ですね。お声も素敵です」
俺がそう言うと、おかねさんは上目がちに俺を見て、何も言わずにふふふと笑った。内緒ごとを一緒に楽しんでいるようなその空気に、俺の胸はどこか苦しくなった。
昼からお稽古に来るお弟子さんが何人か居て、夕飯を食べたあとはおかねさんは仕事は休み。そんな時は、二人で話をしたり、買い物に行ったりした。それに、たまにはお休みも欲しいと言って、まるで稽古のない日もあり、その時はおかねさんは遊びに出るのに俺を連れて歩いたりした。
ある休みの日、おかねさんが念入りにお化粧をしているので、俺はそれに気づいて、「お出かけですか」と聞いた。
「ああ、これから弁天様へ行くのさ」
おかねさんは、小さな唇に紅差し指でちょいちょいと紅を乗せながら、そう答えた。
「弁天様?おかねさんは弁天様を信仰しているんですか?」
そう言うと、おかねさんは怪訝な顔をしてこちらを向いた。
「なんだい改まって。当たり前じゃないの。あたしは三味の師匠だよ。鳴り物を扱うのに、弁天様を拝まないでどうするのさ」
あ、そういえば、弁天様は音楽の神様だって聞いたことがあるような気がするな。へえ、やっぱり昔の人って信心深いんだなあ。
「そうでしたね。お気をつけて行ってきてください」
「はいはい。じゃあ
「はい」
おかねさんが出かけて行ってしまってから、俺はお茶を入れ、静かに江戸の町の音を聴いていた。
表通りの雑踏、納豆売りの声、男同士の喧嘩、赤ん坊の泣き声。
なんとも騒がしくて、「はじめはこれに慣れるのに苦労したっけなあ」などと思い返す。
俺は、元居た時代に帰る方法を知らない。多分、探したところで見つからないだろう。そして、もう一度思い出す。
父さん、母さん、数人の友達、お世話になった人たち。その人たちを置き去って、俺はもう帰ることのできない場所へ、たった一人で連れてこられてしまったこと。
さびしくないわけじゃないし、今でも帰りたい。でも、そう思うたびに、おかねさんの言葉が耳によみがえるのだ。
俺が「何もおぼえていない」と言った時。
“それじゃあ心細いだろうに。安心おしよ、お前さんはちゃんとあたしが面倒見るからさ”
彼女は俺のことを本当に気の毒と思って、気をもんでいるような顔でそう言った。
俺は自分の湯飲みを傾けながら、お茶の温かさが手に伝わってくるのを感じて、ゆるく息を吐いた。
つづく
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