長屋人情編
第十二話 浮気男と間男疑惑
長屋の住民への挨拶が済んでから、俺はハタキや箒、チリトリを使ってなんとか掃除をして、それから洗濯物と盥、洗濯板を持って、井戸の前までよろよろと歩いて行った。
井戸から水を汲み、それを盥に入れると、その中で洗濯板を使って、ひたすらおかねさんの服や、俺の羽織や、ふんどしや腰巻も洗う。
公共の場所で服を洗うってなんか変な感じだ。でも、これが当たり前なんだろうし、さすがに恥ずかしいとまでは思わないかな。
ゴシゴシと洗濯板にこすりつけ、そしてまた水に浸して、何度かそれを繰り返す。おかねさんにやり方は聞かなかったけど、まあこんなもんでいいだろう。
洗濯物がほとんど済んで、あとは俺の羽織だけになった頃、長屋の細道を、誰かが歩いてきた。
顔を上げてみるとそれは「おそのさん」で、彼女はどこかへお使いに行くのか、お財布と風呂敷を懐にしまうのが見えた。
「まあ。えっと、秋兵衛さんて言いましたっけ」
「ええ」
「下男なんて大変ねえ。何をするんです?」
おそのさんは立ったまま話をしていたので、俺も立ち上がってそれに答える。
「おかねさんは、お米を炊くのと、掃除洗濯などができればいいと言ってくれました」
「まあ、そうなの。じゃああたしがやることと大して変わらないねえ。ところで、秋兵衛さんはどこの生まれなんです?」
俺は、咄嗟に答えに迷った。でも、隠した方が不審がられると思ったので、ありていに話すことにした。
「それが…気が付いたら日本橋で倒れていて、そこをおかねさんに助けてもらったんですが、自分のことは、名前以外何も覚えていないんです」
すると、おそのさんはちょっと悲しそうな顔をして、片手を傾けた首に当てる。
「まあ、大変じゃないの。大家さんのところへは行ったの?」
「ええ。なんとか、わかってくれたようで…」
「それじゃあよかったねえ。あ、あたしは先を急ぐから、じゃあまた」
「ええ、お気をつけて」
おそのさんはぱたぱたと急ぎ足で長屋の木戸を開けて大通りへと見えなくなってしまった。
はあ、緊張した…。何かまずいことを言いやしないか、ひやひやしながらしゃべると疲れるなあ。
すると今度は、井戸に一番近い海苔屋のトメさんの家の戸が開く。
「あら、お前さん、さっきのお人だね」
トメさんは俺を見つけて歩み寄ってきた。
「ええ。先ほどは、短い挨拶だけで失礼しました」
「いいや、かまわないですよ。これから付き合いもあることだし、新しく若い人が来るなんて、嬉しいことだからね」
「ありがとうございます」
そんなふうに通り過ぎていく人と少しずつ会話をして、ちょうどおかねさんの稽古の一人目が終わった頃に、洗濯は終わった。
おかねさんに聞いていたし俺もすでに見ていたけど、長屋では、共同スペースになっているベランダのようなところに、家々の洗濯物がめいめいに干してある。それで俺は空いている場所に自分たちの洗濯物も干し、家に戻った。
その晩、おかねさんは長屋の路地に入ってきたおかず売りから、煮た厚揚げと青菜を買って、俺たちはそれを食べた。
俺の分のお膳や食器はもうあったし、俺は下男なので入口近くの隅っこで、おかねさんは部屋の奥で食事をしていた。
洗い物はもちろん俺がやったし、おかねさんに習って初めて知ったけど、お米をあらかじめ一晩水に漬けておくと、ふっくらと炊けて美味しいんだそうだ。だからそれもやっておいた。
そんなことをしていると、もう外が暗くなってしまった。
俺は特にやることはなかったけど、おかねさんは行灯のそばで、針と糸を持ち、端切れの布らしきもので何かを繕っていた。
「おかねさん、何を繕っているんですか?」
俺がそう聞くと、おかねさんは嬉しそうに振り向く。その表情の素直さに、俺はちょっとドキッとした。
「これかい?これはお前さんの財布だよ。財布くらいは自分で繕えないとね。もちろんあたしは着物だって繕えるけど、なかなかそこまでの時間もなくて、悪いねえ」
おかねさんはそう言って、ちょっとすまなそうにまた笑った。俺もそれを聞いて思わず笑顔になる。
ああ、やっぱり彼女は優しい人だ。なんだか本当に…。
俺はその先を考えようとして頬が熱くなり、“いやいや”と気を逸らそうとして、こう言った。
「そんなことをしていただけるなんてありがたいです。すみません」
「いいんだよ。ちょっとお待ち。もう少しでできるから」
しばらくしておかねさんは歯で糸を嚙み切ると、それをほどけないように結んで、できあがった財布を俺に手渡してくれた。
それはちょっと幅が長い袋のようで、中に小銭を入れてからたたみ、紐でくるくるとしばりつける、おかねさんの財布と同じ作りだった。
「ありがとうございます。大事にします」
「いいえ。じゃあそろそろ寝よう。灯りももったいないからね」
「はい、おやすみなさい」
俺はその晩、おかねさんが用意してくれたやわらかい寝床に横になり、あたたかい布団を掛けてぐっすりと眠った。
そんな暮らしを毎日続けていると、俺はだんだんと仕事に慣れてきて、長屋の人とも少しずつ打ち解けるようになった。
おそのさんには「何も覚えていない」ことは話したし、それはそのうちにみんなに伝わったようで、海苔屋のおトメさんは、「困ったことがあったらお言いよ」と声を掛けてくれたりした。銀蔵さんは小間物を売り歩きに遠方に出たとかでずっと帰らないし、ご牢人さんはまだ名前も知らないけど。
それからさらに一カ月ほどが経ったある日、ちょうどおかねさんが「新しい撥を見てくる」と言って出かけていた時、おそのさんが家を訪ねてきた。
「こんにちは、どうしたんですか」
おそのさんはもじもじと言い淀んでいたようだったけど、「おかねさんはいないのかい」と言って、「ええ、出かけました」と俺が返すと、「上がってもいいかい…?」と、控えめに聞いてきた。どこか悩んでいるようなおそのさんの様子が気になったので、俺はすぐに中へ通した。
火鉢で湯を沸かしてお茶を入れ、俺はそれをおそのさんに差し出す。ちゃぶ台の前に正座をしたおそのさんは、どこか切羽詰まった表情をしていた。
でも、おそのさんはお茶を前に「ありがとう」と言った切り、なかなか話し出さなかった。そこで、俺の方から声を掛けてみる。
「あの…何かあったんですか?」
俺がそう聞くと、おそのさんは大きくため息を吐いて、それから両手でがばっと顔を覆い、そのまま泣き出した。
「どうしました。ただごとでないようですよ」
俺はさすがに心配になって、おそのさんの肩に手を置こうと思ったけど、「そういえばこの時代、あまり男女が親密なのは良くなかったはずだな」と思い出して、それはよしておいた。
しばらくおそのさんは涙を袖口で拭っていたけど、やがてぽつりぽつりとしゃべりだした。
「…亭主がね…
おそのさんが話す様子は、ずいぶん深刻だった。それに、確かにそれは捨て置ける問題じゃないと俺も思ったから、まずは落ち込んでしまっているおそのさんをなぐさめることにした。
「それは大変ですね。さぞご心配と思います。ご亭主は、説得してみたんですか…?」
するとおそのさんは首を振って、また涙を流す。
「あの人は、ちょっと口を出すだけでかんかんに怒り出しちまうし、それにあたしをぶったりけったりするんだ…だから、あたしも時には我慢をするしかなくて…」
俺はそれを聞いて、本当に彼女に同情をした。俺の居た時代でも、「そういう男の人も居る」というような噂は聞いていたけど、こんなに悩んでいるおかみさんがやっぱり居たんだと思うと、胸が痛くなった。
俺が何を言えばいいのか迷ってしまっている時、不意に表から男の人の怒鳴り声が聴こえてきた。
「おその!おその!居ねえのか!」
それを聞いておそのさんはびくっと肩を震わせ、慌てて家に戻ろうとして「ごめんよ、戻らなくちゃ」と、席を立った。どうやら怒鳴っているのは五郎兵衛さんだったらしい。
でも、間の悪いことに、おそのさんがうちの戸を開けた時、目の前をその五郎兵衛さんがちょうど通ったのだ。
おそのさんは「あっ!」と叫び、その前に立っていた五郎兵衛さんは急に歯をむき出しにして、こう叫んだ。
「てめえ、なんでそんなとこに居るんでい!さては、
つづく
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