第十一話 お寿司と裏長屋
湯屋から帰ると、おかねさんは「食事にしよう」と言って俺を連れ出した。
江戸時代の人ってお昼に何を食べたのかな。俺たちの時代の昼食と言えば、牛丼、天丼、ハンバーガーと様々だけど、この時代なら和食一色だろう。
俺がそう考えているうちに、歩いている表通りは屋台ばかりになってきた。そこら一帯が人で賑わい、それぞれの屋台の看板は、「
どれを食べるんだろうな。そういえば、鰻とか天ぷら、蕎麦屋なんかが見当たらないな。この辺りにはないのかな?
「ねえお前さん、寿司なんかいいんじゃないかね」
「え、お寿司ですか?」
確かに江戸時代は屋台のお寿司があったなんて聞いたことがある。一つ一つの握りがすごく大きくて、腹持ちがいいとか。
「おかねさんにお任せしますが、僕はお寿司は好きですし、嬉しいです」
「そうかいそうかい。じゃあそうしよう」
ありがたいな。下男の身分で寿司を食べるなんて、なかなかあることじゃないぞ。
それにしても、俺は本当に下男なんだよな。まだあまり下男らしいこともせず、贅沢をさせてもらってばかりのような…。なんだか申し訳ないなあ。
そんなことを考えていると、おかねさんが「鮓・食すし」という看板を見つけ、俺たちはその屋台に引き寄せられていった。
「大将、やってるかい」
「あいよ、なんにします?」
「何があるんだい」
「そうねえ、
「じゃあ鯵と
「あい、ちょいとお待ちを」
おかねさんと店主がそんなやり取りをしてからすぐに「ぬる燗」なのだろう日本酒の徳利が出されて、俺たちはちょっとだけ屋台の椅子に腰かけて待っていた。でも、運ばれてきたのは、俺が思っていたような寿司ではなかった。
それはお皿の上に笹の葉が一枚あり、どうやらその笹の葉はお寿司にくっついていたものなのか、材料の野菜の欠片がくっついていた。そう、野菜。それも意外だった。
ちょっとつぶれたお米の上に、鯵の切り身が押し付けられていて、その上にいちょう切りにされたにんじんや大根が、これまた押し付けられている。浅利の方も同じだった。
そのお寿司は、もしかしたら、今で言う「押寿司」に近いものだったかもしれない。俺は驚いたままで、「大将」から丸箸を渡され、一口食べてみた。
なんだろう、ちょっと酸っぱいのはやっぱりお酢なんだろうけど、普通のお寿司にはない、旨味みたいな酸味があるな。くたっとしているけど、意外と美味しいかも。
「美味しいかい?」
「はい」
おかねさんも美味しそうにそのお寿司を食べて、食べ終わる頃にはお酒もなくなっていた。
「食べ終わったね。大将、いくらだい」
「四十文で」
「あいよ、じゃあこれでね」
「ありがとうぞんじます」
おなかも心地よく満たされ、俺たちは屋台を後にした。
「あー、家に帰ったらまたお稽古だよ。まったく若旦那だの芸狂いだのはさ、おだてておけばもちろん金になるんだろうけど、どうも気構えのなってない奴らが多くて困ってるのさ」
おかねさんはそう愚痴をこぼしている。それにしても、俺は少し気になっていることがあった。
お稽古事って娘さんがほとんどって思ってたけど、どうしてそんなに男の人が来るんだろう?
まあ、それは見てれば追々わかるかな。
「そうそう。うちに帰ったらあたしは稽古をつけるけど、その前にお前さんは長屋の皆さんに挨拶をして、すぐに掃除をしたら、明日の分のお米を研いで洗濯をしておくれな。あたしの稽古は夕には終わるから、それまでに頼むよ」
「は、はい!」
帰ったら俺はやることがたくさんだ。それに、長屋の住民の人に挨拶って、緊張するなあ。でも、昔は近所付き合いとかが重要だったみたいだし、頑張らないと!
って、俺…やっぱ元の時代には帰れないの…?
…そのうち考えよう。今は気にしても仕方ない。おかねさんに恥をかかせるわけにいかないし、きちんときちんと!
俺はなんとなくしゃっちょこばっていたような気もするけど、十分に気を引き締めて事に望んだ。
「おそのさん、おそのさん。おかねです」
長屋の挨拶回りには、おかねさんが戸を叩いて回って、俺は損料屋で借りた羽織を着て、後ろでちょっと前かがみに待っていた。
「はい!はいはい、今開けます!」
からりと戸が開いて現れたのは、もういくらか整えた髪もほつれて、忙しい中を慌てて出てきたといった感じの、おかみさんらしき人だった。
「忙しい中すみません。今度うちに下男を置くことにしたので、ご挨拶に伺いました」
「まあそれはどうもご丁寧に…そちらの方?」
「ええ、秋兵衛さん、この方はおそのさん。今月の
俺は「月番」というのがなんなのかよくわからなかったけど、とりあえず頭を下げ、「秋兵衛と申します。どうぞよろしくお願い致します」と言った。
「まあまあ、これまたご丁寧に、はい、どうぞよろしくお願いします。それで?どこの方なんです?」
俺は頭を下げたままで、ぎくっと固まってしまった。でもおかねさんがおそのさんに頭を下げて笑う。
「まあまあ、それはまた今度の時に話します。このあと長屋じゅうを回らないといけないので、すみませんが失礼します」
「あらそう、はい、じゃあ」
「トメさん、トメさん、いるかい?」
中からはしばらく返事はなかったけど、しばらくして「なんだえ?誰かいるのかい?」と、おばあさんの声が聴こえてきた。
「トメさん、おかねです。ご挨拶したい人が居るので、連れてきました」
「お待ち、今そこを開けるから。どっこいしょ…アイテテテ」
大工さんのおかみさんのおそのさん、海苔屋のトメさん、それから
「ご牢人さま、開けてくださいまし。おかねです、ご牢人さま」
すると、いきなりガラッと戸が開いて、質素な着物を着て、俺たちを睨みつけるような目のお侍が出てきた。
「あまり、牢人、牢人と表で叫ばないでいただきたい」
“牢人”と何度も呼ばれたのが気にくわなかったらしいその人は、すでにへそを曲げている。どうしよう。うまくいくかな…。
「まあ、申し訳ございません。あの…うちに下男を置くんで、ご挨拶に参りました」
「お世話になります、秋兵衛です。よろしくお願い致します」
するとその“ご牢人”は俺をじっと見つめて、どうやら怪しい者でないかを確かめているようだった。
「…ふん。勝手にするがいい。拙者にさして関わりもあるまい。もうよいな」
そう言ったきり、お侍はぴしゃっと戸を閉めて奥へ引っ込んでしまった。
「あの…大丈夫なんでしょうか。あのお侍さん、怒ってたんじゃ…」
家に入ってからそう聞くと、おかねさんは顔の前で片手を振る。
「ああ、あの人はいつもそうなんだよ。自分がえらかった時のことばかり考え込んで、ひねくれちまったのさ。ああはなりたくないね」
「そうなんですか…」
「それから、おそのさんはいい人だけどね、ご亭主は怒ると手がつけられないから、お前さん
「は、はい!」
江戸に住む人にも、十人十色の事情があるんだなあ。
その時なぜか俺は、少しずつこの土地が好きになれそうな気がしていた。
つづく
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