第八話 “損料屋”ってなに?
俺は朝食を食べてから、おかねさんに「洗い物をしてきとくれ。それから遅くなったけど、水も汲んできておくれね」と言われ、なんとか井戸で水を汲んで、その水で、盥に水を張って、たわしで茶碗の米粒を落とした。
「ふう…家の中に水道がないと、こうなんだなあ」
俺がそんな独り言を言ってから一仕事を終えて家に戻ると、おかねさんは出かけるために羽織を着て、お化粧をしていた。
うわ…、ほんとに
おかねさんは三段重ねの丸い容器から水と粉を取り出し、水に粉を溶かして、刷毛のようなもので念入りに塗り重ねていた。そうして、あっという間に白粉でおかねさんの顔はとても色が白くなり、首や胸元にも塗っていたようだけど、そこは少し白色が薄かった。それにしても、粉をはたくだけだと思ってたのに、本当は白塗りに近かったんだなあ。
俺は言われた通りに、水瓶と桶、食器をへっついの脇に重ねて置く。そして振り向いた時には、おかねさんは御猪口のようなものから薬指で口紅を取り、それをちょいちょいと唇に塗っていた。でもそれは唇全体に乗せるのではなく、ただちょっと真ん中あたりに色を付けるだけだったみたいだ。昔はおちょぼ口が好まれたって言うし、それでかな?
そしてお化粧道具を棚の中にしまうと、おかねさんはくるりと振り返る。それは、とてもじゃないけど口では言えないくらい、綺麗だった。
俺はもうおかねさんを見るたびに胸がときめくようになっていたけど、“そんなことは考えても無駄だ”と思っていた。
何しろ俺はただの下男だし、もし彼女を好きになったとしても、どうせ叶わぬ恋だ。何せ俺はこの時代の人間じゃないんだから。
「さ、じゃあお財布を持って、まずは
「あ、はい。よろしくお願いします」
俺には“損料屋”というものがなんなのかわからなかったけど、とにかくついていけばわかるかなと思って、そのまま二人で家を出た。
「着いたよ。ここがこの町内の損料屋。とにかく、お前さんの布団やら茶碗やらを借りないとね」
「え、借りる?それでいいんですか?」
布団や茶碗を貸してくれる店があるなんて俺は知らなかったし、“借りる方がお金が掛かるんじゃないだろうか”と思った。
「大丈夫だよ。使った分の損料を払えば、最初に払った銭は返してもらえるんだから。そうやってみんな、いろんなものを借りていくのさ。もし火事なんか起きて、買ったものが全部灰になるよりはいいからね」
おかねさんはそう言って安心したように笑っていた。俺も、“確かにそうかもな”と思いながら、おかねさんがその店ののれんをくぐるあとについて、店に入った。
店の中には、それこそありとあらゆる日用品が揃っているようだった。
食器、鍋、衣服に布団、それから火鉢やこたつらしきものに、ちゃぶ台まであって、他にもこまごまとしたもので店内は埋め尽くされていた。
「へえ…すごいなあ」
俺は感嘆の声を漏らして店内を見渡していた。おかねさんは「いらっしゃい」と迎えてくれた店員さんにこう切り出した。
「あのねえ、急に家に人が増えたからさ、膳と瀬戸物、それから羽織と布団を借りたいんだよ。いいかい?」
「ええ、もちろんですとも。どれになさいますか?」
「そうねえ。少し見て回るから、ちょっと待っておくれな」
「かしこまりました。何かございましたら、お声がけ下さい」
“損料屋”の店員さんはなんとなく俺たちを気にしていたようだけど、おかねさんは構わずにその場にあったごはんのお膳とにらめっこしたり、お茶碗を持ち比べて選んだりしてくれた。そして、不意に俺を振り向く。
「ねえお前さん。茶碗はこれでいいかい?」
見たところそれは青色で描かれた綺麗な模様のある大きめの茶碗で、俺は「はい」と頷く。そして、お膳も同じようにおかねさんの選んだものに従った。
「布団はねえ…ちょっと値が張るけど、このくらい柔らかくないとやっぱり体を痛めるからね。よし、これにしよう!」
「すみません、ありがとうございます」
おかねさんは最後に俺に羽織をいろいろと着せてみて、何度か眺めては「次はこれはどうかねえ」なんて、また新しい羽織を出してきてくれた。
俺は錆びた緑色のような落ち着いた羽織が気に入ったので、「これをお願いしてもいいですか?」と聞く。
「もちろん。ところで、他に何か欲しいものはないかい?」
そう聞かれた時、俺は今まで我慢していたものをついに言う気になり、勇気を出してこう言ってみた。
本当は自分で稼ぐようになってから買ったりしたかったけど…。
「えっと…、実は僕は、煙草を吸うんです…だから、
俺がそう言うと、おかねさんはくすくすと笑った。俺はそれに戸惑い、顔を上げておかねさんを見つめる。
「…まったく、いつまでも遠慮しっぱなしなんだからさ、お前さんは。煙草飲みじゃないほうがめずらしいくらいなんだから、別にいいんだよ。よし、じゃあこのあと煙管屋も行こう」
俺はびっくりした。江戸時代って、そんなに喫煙率が高かったのか。
俺の生きていた現代じゃ、もう煙草を吸う人間なんて、毛嫌いされるくらいなものだったけど…。ずいぶんおおらかな時代だったんだな、江戸時代って。
「すみません。じゃあ、お願いします」
「じゃああたしは勘定を済ませてくるから、外で待っといで」
「え、は、はい。ありがとうございます、よろしくお願いします」
少し店の前で待っていると、おかねさんはすぐに大きな風呂敷包みを抱えて戻ってきた。
「秋兵衛さん、悪いんだけどね、これはお前さん背負っておくれ。お前さんの荷物だからね」
「はい!もちろんです!」
俺はそれから風呂敷包みを背負い、おかねさんのあとについて、今度は煙管屋を目指して歩いた。
「長さん。長さんはいるかい?」
俺たちは、大量の煙管やいろいろな物が置いてある店に着き、おかねさんは奥に向かって声を掛けた。すると奥から「へい、お待ちを」とのんびりした声がして、六十は過ぎてるんじゃないかというおじいさんが姿を現した。
「おお、おかねさんじゃねえかい。どうしたい。もう替え時かい?」
そのおじいさんの顔にはしかめっ面に近い眉間の皺があったけど、それはどこか職人らしい引き締まった顔つきに近くて、おかねさんに向けている笑顔は十分朗らかに見えた。恰好は甚兵衛に裸足と、これまた職人じみている。
「いやいや、そうじゃないんだよ。今度この人を下男として家にいれることにしてね、それで煙管がないってんで、ちょっと欲しいのさ」
「そうかいそうかい。それで?お連れさんはどんなものが好みだい?」
「まあこの人は大人しいんだから、短いのでけっこうさ」
「そうかい。じゃあちょっと待っておくんな。えーっと…じゃあ、こんなもんはどうだい?まあなんてこたない竹だが、十分すすめられるもんだよ」
するとおかねさんは顔の前で片手を振って笑う。
「いやいや、やっぱり
“延べ煙管”ってなんだろう?俺がそう思う間もなく、煙管屋のおじいさんはそれに何度か頷きながら、近くにあった、細かな装飾の施された金属製らしい煙管を手に取って、おかねさんに渡してみせる。
「そいじゃあ、これぁどうだい」
「…うん、いいねえ」
おかねさんは俺を振り返って、嬉しそうにこう言う。
「ねえ秋兵衛さん。これでいいと思うんだけどねえ、どうだい?」
俺は鉄らしき胴体に綺麗な彫り模様のある煙管を見て、“どう見てもこっちの方が高そうだぞ”と思った。
でも俺には違いなんてわからないし、遠慮をしたところでおかねさんは聞かないだろうなと思って、「えっと、じゃあそれでお願いします、すみません」と言った。
そのあと家に帰って荷物をほどいてから、俺たち二人は一緒に煙管で煙草を吸った。もちろん俺は煙管の使い方も知らなかったけど、おかねさんがやるのを見て真似しようと思っていた。
おかねさんは煙管の先に刻んだ煙草の葉を詰め、おくれ毛が火鉢に垂れないように指で押さえながら、口にくわえた細長い煙管を、火鉢に近づける。少しそうしていると、ちりっと音がして、煙管の先にぽうっと灯りが点いた。それからおかねさんはゆっくりと煙を吸い込み、ふうっと吹く。
それはまるで、浮世絵の中の艶やかな女性が、のびのびと煙管をくわえている場面そのままだった。
何をさせても様になる人だなあ。俺はそう思いながら、自分の煙管にも煙草の葉を詰めた。
つづく
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