第九話 大家さん
さて俺たちはやっと一服ついて、それからおかねさんはこんな話を始めた。
「それでねえ、あたしはこの長屋で一人住いってことになってるけどさ、「今度下男を」って話を一度大家さんに通しに行くから、お前さんも行ってよく挨拶するんだよ。うちの大家さんに限って「いけない」なんて言わないと思うけど、少し心配性でね、だから。さ、じゃあ行くよ」
「は、はい!」
俺はおかねさんの
コンコンとおかねさんはある家の戸を叩く。すると中から「はいよ、どなたかな?」と、おじいさんの声がした。
「おかねです。開けてください大家さん」
おかねさんは少し緊張しているようだったけど、なごやかな声でそう言った。
「締まりはしてないからね、お入り」
家の奥からはそんなのんびりした声が聴こえた。
「はい。失礼します」
俺は戸を開ける前に目配せをされて、おかねさんは戸を開けると同時に頭を下げたので、俺もそれに倣った。
「おお、どうしたい。そちらは?どなたかな?」
頭を下げたまま少し考えていたようだったけど、おかねさんが顔を上げると、もうそれはいつも通りの顔だった。
「実は、今度うちに下男を置くことになりまして、それで、本人を連れてご挨拶に…」
「おお、そうかい、そうかい。そりゃどうもありがとう。ささ、そこじゃあ話がしづらいから、こっちへ来てあがんなさい。ばあさん!お客人が二人だよ!お茶をおくれな!」
大家さんが奥に向かって叫ぶと、奥からは大家さんよりもさらにのんびりとした「はあい」が聴こえてきた。
「ありがとうございます。さ、お前さんも上がらせてもらって」
「はい」
俺たちは草履を脱いで玄関に揃えると、大家さんが肘をついているちゃぶだいの前に立った。
「さ、ご挨拶おしよ」
俺はほとんどおかねさんがしゃべるんだろうと思っていた。でも、急にしゃべらなければいけなくなったので、俺はちょっと焦った。
それに、「江戸時代の大家さん」と言うとなんだか「ちょっとえらい人」のような気がしていたので、緊張で舌が突っ張って、しばらく何も出てこなかった。でもなんとか笑顔を作って、こう話し出す。
「あ、あの…わたくしは昨日、行き倒れていたところを、おかねさんに助けていただいた…秋兵衛という者です…それで…行くところがないと申しますと、おかねさんが下男として面倒を見てくださるとおっしゃってくださったので…お世話になることにしました。あの…」
そこで俺は、大家さんの顔を見た。すると大家さんはびっくりした顔をしていたので、“もしや気に障ったのでは”と思い、俺はこう言い直した。
「あの、もし大家さんの方で「いけない」ということであれば、もちろんわたくしは出ていきますが…なにぶん、行くところもないので、
俺は無理に時代がかったしゃべり方をして頭の中がしっちゃかめっちゃかになって、だんだん自信がなくなってきた。そしてそのまま、うつむいてしまう。
どうしよう。「無作法者だ」なんて言われたりしたら。
しばらく場は沈黙していたが、急に大家さんは「はあ、こらぁ…」とため息を吐いた。
「なにかい、おかねさん。この人はどこで行き倒れてたんだい」
するとそこで、妙な内緒話のようなものが始まった。
「え、日本橋ですが…」
「それで?恰好は?」
「つぎはぎだらけで…それで、着物を神田に買いに行ったんです」
「へえ、そうなのかい。じゃあほんとの行き倒れだねえ…」
「え、ええ…でも…」
そこでおかねさんは横に居る俺をびっくりしたように見つめる。
「秋兵衛さん…お前さんそんなに上等の口が利けるなんて、ほんとにどこから来たんだい?」
「えっ…!?」
しまった!ちょっと丁寧過ぎたか!
俺はこの時代に言葉遣いを合わせようとしたもんだから、丁寧になり過ぎて町人には不自然なほどになってしまっていたみたいだ。でもそれだけのことだし、そんなに慌てはしなかった。
「いえ、違いますよ。でも、何もおぼえていなくて…」
そこへ、大家さんの奥さんなんだろうおばあさんが顔を出し、「あら、おかねさん」と言って、お茶を二杯差し出してくれた。
「まあまあ話をさえぎって悪いが、とにかく座りなさい」
それから大家さんの前で俺は、目が覚めたら日本橋に居たことを話し、「少しはものもわかるけど、わからないことが多い。それから、自分が「秋兵衛」という名前であることはわかるけど、生まれや育ちのことは覚えていない」というように話した。
俺のその話を聞くと、大家さんは俺が何度も見てきたあの同情をするような顔になって、何度か頷く。
「そうかい、そうかい。そりゃ困ることも多いだろう。でもおかねさん、心配しなくてもいい。この方はちゃんとした方だよ。じゃあ届け出はあたしが
「はい。きっと」
俺が見た限り、その時そこでは、何か大切な取り決めがなされたように見えた。もしかして、この時代の大家さんというのは、奉行所に住民の身元を届け出たり、行き倒れの世話をしなければいけなかったのだろうか。だとすると、「何も覚えていない行き倒れ」で話が通るのか、俺は不安だった。
そこでよくお礼を言って、俺はおかねさんと一緒に頭を下げ、大家さんの家を出た。
帰る道々、おかねさんは心配事がなくなったように、晴れやかな顔をしていた。
「ああ。これでお前さんはやっとうちの下男として、長屋の住民になれるよ。じゃあそうだねえ、昼の前に
「え、もうお風呂に入るんですか?」
「なんだい、「お風呂」なんて田舎者みたいな言い方してさ。湯屋なんて一日になんべんも行くじゃないか」
えっ?そうなの?江戸時代の人ってそんなに何回もお風呂に入ったのか。意外と清潔好きなんだな。
「じゃあお前さんに
そう言っておかねさんは懐から財布を取り出し、お金を数えていた。俺はその時、初めて間近で江戸時代のお金を見た。
うわあ、ほんとに穴が開いてて、文字が彫ってある…。
「うん。二十文もあればいいだろう。はい、じゃあこれだよ」
「はい、ありがとうございます」
俺が受け取った銅銭は、ちょっと確認してみたところ、二種類あったみたいだ。でも、どうも違いがわからない。
「あの、これは…」
俺がそう言って聞こうとすると、おかねさんはまたくすくすと笑った。
「なんだいお前さん。こりゃいよいよ御大尽だねえ。銭も見たことないのかい?これが四文。こっちが一文さ。ちょっと半端になっちまったけど、釣りはもらっておくれよ」
「あ、はい、ありがとうございます…」
俺がしげしげと銅銭を手に乗せて眺めていると、おかねさんは「こら、銭は早くしまうもんだよ。
つづく
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