Epilogue

8 years after

 北の大地、その中心たる大都会よりも駅をいくつか離れた街。その街はずれ、広大な森林公園付近に、一宇の神社があった。


 『白山神社』と名のついた、そこそこの規模を持つその神社の境内けいだいで、熱心に狛犬の石像をブラシ掛けしている女性が居た。


 


「……ふう、こんなものでいいかな」


 そう呟いたのは、年を経ても変わらぬ烏の濡れ羽色をした艶やかな黒髪と、少女のあどけなさを残したまま、清楚な色香を纏う美貌の女性。


 あまり体型の出ないゆったりとしたワンピースとカーディガンという格好をした女性……星那が、手にしたブラシを水を張ったバケツの中へと落とす。


「もう、夏だなぁ……」


 長い冬は終わり、雪はもう、ひと月前には完全に姿を消した。


 今は暦もすでに夏の始め、もうじき梅雨となろうかというこの時期。

 土地柄のため、まだまだ涼しく心地よい風が流れているが……すでに昼前も近付いてきたこの時間帯、外は少し暑くなってきていた。


 作業している間にうっすら浮かんでいた汗を、首にかけていたスポーツタオルで拭いながら、今まで掃除していた狛犬を愛おしげに撫でる。


「ごめんね、簡単な掃除だけで」


 本当はもっと綺麗にしてあげたいのだけれど、ではこれが精一杯。


 それが少しだけ申し訳なくて、そう、狛犬へ語りかけていると……




「あー、お姉ちゃんまた勝手に働いて!?」


 家の方から、少しだけ怒ったような大きな声。

 そちらに視線を向けると、艶やかな栗色の髪を腰あたりまで伸ばした優しげな顔立ちの、高校生くらいの女の子が駆け寄ってくる……妹の朝陽だ。

 今日は日曜日。高校が休みという事で自主勉強に勤しんでいたはずの朝陽は、少し怒った様子だった。


「あら、朝陽、勉強は?」

「今は一休み。それよりも、お姉ちゃんは安静にしてないとダメじゃない!」


 そうぷりぷりと怒りながら、今まで星那が使っていた掃除道具を手際よく纏め小脇に抱えてしまうと、星那の手を引いて家の方へと歩き出す朝陽。


「あはは……ありがとう朝陽。でも大丈夫よ、もう安定期だし、少しくらい動いた方がいいってお医者様もおっしゃってたから」


 そう言って、星那は空いている方の手で、愛おしげに自らのお腹をさする。

 丁度その時、まるでむずがるように、お腹の中にグネグネと動いたような感触がして、クスッと笑う。




 以前はしっかりと括れ、ほっそりとしていた星那のそのお腹は……今はまだ服で隠せるくらいではあるが、一目見てわかるくらいポッコリと膨らんでいた。





 ――二人が入れ替わったあの夏から、もう八年の月日が流れていた。




 高校卒業後、星那と夜凪の二人は一緒に上京し、同棲しながら星那は神道文化学部、夜凪は経済学部のある別々の学校へと通っていた。


 そして卒業と共に星那は白山神社で女性神職に、夜凪は幹部候補生として瀬織家の経営する会社に入社すると同時に、晴れて籍を入れたのだった。




 それから一年ほど経って……今年の春の始め、まだまだ雪が残る頃――星那の懐妊が発覚した。




 ひどかった悪阻つわりも少し前に終わり、子宮内に胎盤が完成したという安定期のこの時期。

 時折お腹の中からポコンと感じる胎動に、星那は自分が母親となった事を実感し……出産を考えると怖くはあるものの、今はまだ、女性としての幸せを噛み締めているのだった。




「それに……最近太りやすくなったし……」

「はー……夜凪お兄ちゃん、気にしないと思うけど」

「私が気にするのよ……」


 好きな人のために、どんな時でも綺麗で居たい。それはもはや、星那の意地のようなものだった。

 故に太りやすいこの時期、休み休みながらもこまめに体を動かしているのだが……一方で、特に最愛の姉が心配で仕方ない朝陽は気が気でないらしい。


 こうして妹にお小言を言われるのはもう日常茶飯事であり……星那もシュンとする一方で、妹の気遣いが嬉しくもあるのだった。




 ――当時小学生だった朝陽も、今年は大学入試を控えた受験生。当時の星那達よりも年上で、すっかり大人びていた。


 星那の日々のお手入れを間近で見ているうちに、自分も美容に目覚め……今ではなんでも学校にファンクラブがあるらしい程に、すっかり綺麗になった。

 しかも幼い頃から日々星那の家事を手伝っていただけあって、しっかり者の良く出来た娘になっており、星那の密かな自慢である妹へと成長していた。




「はいはい、ご馳走さま。ならせめて、私に一言くらい言ってよね」

「……朝陽は受験生だから、勉強もあるのに申し訳なくて」

「私の勉強より、今はお姉ちゃんの体の方が大事でしょ……いいの、こんな時くらい思いっきり頼ってよ」


 呆れたようにそう言う朝陽に、怒られているというのになんだか嬉しくなってしまう星那なのだった。





 少し前とある事情から、いたるところに真新しい手すりが増設された白山家。


「よっこい、しょっと」


 リビングへと戻って来た星那が、ソファの肘掛につかまり、ゆっくりと負担をかけないように腰を下ろす。


「ふう……やっぱり疲れやすくなったなぁ」

「それは仕方ないよ、お姉ちゃんの体は二人分頑張ってるんだし。だから安静にしてて欲しいんだけど、私としては」


 そう文句を言いつつも、朝陽はポットと急須を台所から持って来て、星那がお腹を冷やさないようにとわざわざ暖かいほうじ茶を用意してくれる。


「今日も、お昼のお弁当持って夜凪お兄ちゃんのところに行くの?」

「うん、そのつもり。そろそろあの人も電池切れしてる頃だろうからねー」


 楽しそうに、手を合わせてそんなことを語る星那。

 ここ最近は、星那が心配で付き添いを買ってくれている義母の杏那と共に、運動がてらに夜凪や才蔵へお弁当を届けるのが日課になっていた。


「はぁ……あの人も、お姉ちゃん依存をなんとかしないといけないのに、お姉ちゃんってばどんどん甘やかすんだから」

「まぁまぁ、それだけ頑張っているんだから、許してあげて、ね?」

「それが甘いって言ってるのよ……」


 今、夜凪は会社にて夏に行われるイベントの企画出しに、会議を始めとした様々な仕事で忙しく奔走している。


 そのためしばらく泊まり込みであり、帰宅していないのだが……すっかり星那を溺愛している夜凪は、しばらく会えなくて星那分が不足するとのだ。


「あの人にも、困ったものだよねー」

「って言うけど、なんでお姉ちゃんは嬉しそうなのさ……」


 口とは裏腹に、嬉しそうにニコニコしている星那に、朝陽が苦言を呈する。


 そんな朝陽が淹れてくれたお茶を口にしながら、リビングに並んだ写真になんとなしに目を滑らせた。




 ――本当に、色々とあって、思い出の写真もたくさん増えた。




 たとえば、高校の文化祭。飲食店の模擬店をする事に決まったはいいが、クラスたっての要望によってコスプレする事になってしまったりもした。


 たとえば、クリスマス。まだ朝陽がほとんど料理できなかった頃、夜凪と共謀して星那を喜ばせようとしたはいいものの、ちょっとしたトラブルに発展してしまったりもした。


 以前、不思議な女の子のお姉さんに誘われたモデルの仕事は……色々と相談の上で、何回かやってみたりもした。その時の雑誌は、今もリビングの棚に大事に保管されている。


 お正月は……家族全員のデスマーチ進行なため、あまり言い思い出ではなかったが……そういえば、あの年から朝陽と柚夏、それと吉田さんが巫女装束を着て手伝ってくれたんだったっけか。


 あとは……東京のお店を全面的に任せられている瀬織家長男、星那の腹違いの兄が来襲した際は、彼が妹を溺愛していたことも相俟って、色々と一悶着あったなぁ。




 そんな風に、一つ一つ写真を眺めて思い出に浸っていると……不意に朝陽が、思い出したように口を開いた。


「あ、そうだった。陸さんから連絡があったよ。夏祭りはこっちに来るって」

「本当!?」

「うん、お姉ちゃんの様子、気にしてたから後で連絡したげなよ」

「そっか……元気でやってるなら良かった」


 陸と柚夏は、高校卒業後は二人揃って大学、そして警察学校へと入学していた。


 だが、その過程が終わった陸たちが、てっきり警察官になるものとばかり思っていた星那達だったが……実際は、そうはならなかった。


 二人には何か星那達には知り得ない事情があるらしく、卒業後は実家の家業を引き継ぐ準備とかで、しばらく音信不通となっていたのだった。


 ――俺が警察大学校に行ったのは、まぁ、キャリアの肩書きが必要だっただけだな。


 ……などと陸はその際に言っていたが、その事情とやらだけは教えて貰えなかった。


 その時はちょうど星那の懐妊が発覚した頃だったため、特に柚夏はしきりに星那の事を気にしながら出立したので、きっと早く連絡を待っている事だろう。




 そんな風に、今は近くにいない二人の親友に想いを馳せていると。


「星那さん、そろそろ出ませんと、向こうのお昼休みが終わってしまいませんか?」

「あ、お義母さん……もうそんな時間でしたか。ごめんなさい、すっかり思い出に浸っていました」


 リビングに入って来たのは、共に夜凪の会社へ向かう約束をしていた杏那。




 時折姉妹と間違われるこの義理の母は、この数年、本人は小皺が増えたなどと言っているが、星那にはどこに皺などあるのか全く分からない。


 ……という事を朝陽に愚痴ったところ、「お姉ちゃんが言うな」とつっけんどんに返されたので、おそらくは遺伝なのだろう。




 そんな彼女の声に、慌てて時計を確認する。

 電車まで時間はまだあるが、急げない今の体だと、もうあまり余裕がある時間でもない。


「私が荷物を持って来ますから、星那さんはお母様に出かけると報告してらっしゃいな?」

「はい、ありがとうございます」


 優しくそう言ってくれる、未だに若々しく綺麗な義母に、礼を言う。

 社務所にいるであろう両親の元へと顔を出すべく、さっと手を貸してくれた朝陽に支えられて、よっこいしょと立ち上がるのだった。




 ――瀬織夫妻は……星那の妊娠を機に、もともと住んでいた屋敷を売りに出してしまった。

 今は白山家のすぐ隣に、まるで離れのようなこじんまりとした平屋を立てて、そこで暮らしている。


 一応、表向きの理由として……後妻として迎えた杏那はともかく、才蔵の方はもう若くないため、体が思うように動かなくなっても管理が楽なように、小さな家に暮らしたかったのだと言っていた。


 しかし、それが星那が心配だった為なのと、あとは生まれてくる初孫と少しでも共に過ごしたいからだという下心なのは、星那の妊娠以来すっかり浮かれた様子から見て明白だった。


 ついでだからと、階段が必要なく、白山家の中から直に移動できる星那と夜凪のための新しい居住スペースの増築までしてくれて……そちらは再来月、そろそろ星那も身重となり、まともに動けなくなるであろう頃には完成予定だ。

 更には白山家の各所の手摺りなどバリアフリー化の改装までしてくれたという大盤振る舞いで、白山家としては頭も上がらない。


 そんなわけで……八年前に比べ、すっかりと賑やかになった白山家なのだった。






 だいぶ外観の変わった白山家を眺めながら、先導してくれる朝陽に手を引かれて歩いていると、すぐに両親が仕事をしている社務所に辿り着く。


「ありがとう、朝陽。社務所に誰かは居るだろうから、もう大丈夫。勉強の方も頑張ってね」

「うん……本当に気をつけてね、絶対よ!?」


 妹がすっかり過保護になり、昔とは立場が逆転してしまったことに苦笑しながら……社務所に入る前に、その傍に立つ木の下へと向かう。


「ハチ、大丈夫?」


 社務所の横の木陰に伏せっていた白い巨犬、ハチは……星那の声に反応して顔を上げ、うぉん、と軽くひと吠えして、また俯いてしまった。


 ハチは白山家に来た時の年齢は分からないが、当時から成犬だったのだから、もう大型犬としては老犬の部類なのは間違いない。


 あの後、結局飼い主は見つからず、そのまま白山家に引き取られたハチ。


 そんな彼はある日、動物の活躍を描くドキュメンタリー番組で取り上げられ、八年前の誘拐未遂事件の際にまるで騎士ナイトのような活躍をした事が報じられ、一躍人気者になってしまった。


 検査の結果、秋田犬の純血種と判明したのも相俟って、すっかり引く手数多な人気犬となってしまったのだが……そんな彼も、今ではめっきりと、こうして眠っている事が多くなってしまっていた。


 しかし星那は、高校を卒業した日から、何かハチが変わったような気がしていた。

 今も立派な犬なのは間違いないが、その日を境にどこか超然とした、神聖さすら感じる雰囲気が薄れたような……




「あら、星那さん?」


 ぼんやりしていると、不意に後ろから掛けられた声。


「あ、吉田さん、お疲れ様です……あ」

「ふふ、その癖、まだ抜けないんですね」

「ごめんなさい、何故か呼びやすくって……その、遥お義姉さん」


 そう、少し照れくさそうに星那が言い直す。


 彼女……吉田さんと呼ばれていた同級生の彼女は、宮司となった兄、一夜とめでたく籍を入れ、今は『白山遥』となっている。

 しかし星那は何故か、癖で『吉田さん』と昔のまま呼んでしまうのだ。


「それで……陽太ようたくんは?」

「ふふ、中でお義父さん達が見てくれているわ。私はちょっと休憩」

「そうですか、それじゃ私も少し顔を見ていきますね」

「うん、どうぞどうぞ」


 そう遥に促されて、星那はウキウキとした様子で社務所に入っていく。




「あ、星那、お疲れ様。出かける報告?」

「うん、一夜兄さんもお疲れ様。それと陽太くんの顔を見に来ましたっ」

「はは……息子も喜ぶよ」


 社務所に入ると、手近な机で書類の整理をしていた一夜がにこやかに迎えてくれる。


 その奥では真昼が帳簿を付けており、手の空いた夕一郎が赤ん坊を抱いて、あやしていた。


 その、夕一郎の抱いている赤ん坊が、白山陽太。今年初めに生まれたばかりの、生後半年弱になる一夜と遥の息子で……星那にとっての甥っ子だ。


「あ、父さんが抱っこしてたんだ。陽太くん起きてる?」

「ああ、うん。今ミルクを飲み終わって、すっかり上機嫌だよ」


 夕一郎の言葉に、そわそわしながらそちらへ向かう星那。


「こんにちは、陽太くん?」


 夕一郎が抱えていた、小さなお包みに包まれている赤ん坊を覗き込み、ニコニコと笑顔で語りかける。


 そんな星那にきゃっきゃっと笑いながら、何かを求めて手を伸ばす赤ちゃんに指を差し出すと……まだまだ弱い力で、それでもキュッと握りしめて来た。


 ――か、可愛いぃい!!


 その様子に、きゅんとする。


 ……その瞬間、星那のお腹の中からまるで嫉妬したように、どん、と強い振動があった。


「あ……あはは、ご、ごめんね」

「あらあら、お母さんは大変ね」


 そう、お腹をさすって中にいる我が子に謝罪する星那。その様子を眺めながら、新米お母さん達をを優しく見守っている母、真昼が笑う。


 年齢もすでに五十代へと突入した夕一郎と真昼だが、二人とも、まだまだあまり大きな変化は無い。

 一夜に長男が生まれて以降、真昼が「私ももうお婆ちゃんなのかぁ」と複雑そうに呟いているくらいか。


 むしろ、一夜に遥、そして星那と働き手が増えたことで休みを取れる余裕が出来て、あちこちに旅行に行くようになってからは……以前よりも若返った感すらある。


 初孫となる陽太の面倒も、嫌な顔一つなく積極的に参加してくれる両親。

 そんな二人が控えていてくれるため……星那は、あまり出産や、その後の子育てに不安を覚えずにいられるのだろうと思うのだった。



 星那はそのまましばらく、指先に陽太をじゃれさせていると……


「そろそろ、いいかしら?」


 杏那の呼ぶ声が聞こえ、慌てて社務所から出る。


「それじゃ、行ってきます」

「うん、気をつけて」

「急な動きは絶対しないようにね」


 心配そうに声をかけてくる家族達に、大丈夫だよと苦笑しながら別れ、石段の方で待っている杏那の元へと小走りに向かう。


 ――そんな時だった。


「……?」


 石段を降りようとした時……突如吹いた一陣の風とともに、何か声が聞こえた気がした。

 しかし……星那が振り向いたそこに居るのは、狛犬の像のみ。誰の姿も無い事に、首を傾げる。


「……まさか、ね」


 狛犬の像を眺めていた星那だったが、やがてかぶりを振って踵を返す。


 そんな事より目の前には、最初の難関、神社の石段。そこへ、決して無理せず危なくないように、慎重に一歩一歩踏み出すのだった。






 駅まで歩き、電車で五駅ほど。


 途中、星那が鞄に付けた『お腹に赤ちゃんが居ます』マークを見て席を譲ってくれた、優しい初老の夫婦と談笑しているうちに、目的の駅へと着いていた。


 その駅から、更に徒歩で五分。そこに、目的地である瀬織家が経営する店があった。




「あ、お嬢さん、お疲れ様です!」


 夜凪の職場……瀬織家が経営する呉服問屋、その奥にある本社ビルへと近付いていく。

 すると、表で困ったような顔をしていた男性数名……星那も面識のある、夜凪の部下達だ……が、パッと表情を明るくして駆け寄ってくる。


「えっと……その様子だと、今日も?」

「ええ、そうなんですよ……」

「特に最近は気が気でないみたいで、電池切れが早いんですよね……」

「まぁ、こんな可愛い奥さんが居たら無理も無……あだっ!?」


 苦笑しながら首を傾げ尋ねる星那に、男性社員達が縋るような目線を送ってくる。


「はぁ、全く……しょうがないなぁ。あの人は会議室?」

「はい、お願いします!」

「それと……これ、皆さんの分のお弁当です、お昼の足しにしてください」


 にこっと笑いかけ、手にしていたバスケット……中には、夜凪達に作って来たお弁当の残りのおかずが詰まっている……を社員の一人に手渡して、店の入り口へと向かう。


 一斉にお辞儀する、すっかり顔馴染みとなった社員の方々に見送られ、苦笑しながら奥へ向かう星那だった。



 ――ちなみに、締めた扉の向こうで、社員の男性達の喜びの歓声が上がっていた事に……愛する人の元へと急ぐ星那は、気付いていないのだった。




「はぁ……この子、すごくナチュラルに夜凪と社員の皆さんの潤滑剤やってるのよね」

「……ん? お義母さん、どうかなさいました?」


 杏奈が頬に手を当てて、先を歩く星那を眺めながら呆れたようにポツリと呟く。その言葉に、よくわかっていないように首を傾げる星那。


「いいえ、何でもないわ。あなたは本当によく出来たお嫁さんだなって思っただけよ」

「そ……そうですか? それにしても……夜凪さんも、困ったものですね」

「……なんて言っておきながら、嬉しそうね、星那ちゃん?」

「あ、その……えへへ」


 ぶつぶつと愚痴っていた星那だが、その顔は、にへら、と緩んでいた。それを指摘する杏那の発言に、図星を指された星那が笑ってごまかす。


「だって……それだけ求められているって思うと、嬉しくありません?」

「まあ、良く分かるわ。妻冥利に尽きるわよね」

「ですよね!」


 杏那の同意を得られ、星那がグッと握り拳を握って主張する。その顔は、まるで童女のように喜色に輝いているのだった。




 そんな話をしながら、すっかりと勝手知ったる社内を歩き回り……たどり着いたのは、会議室。


 そのドアをそっと開けると、目的の人物……夜凪の姿はすぐに見つかった。


 書類や資料の山の中で、呆れたように、頬杖をついて缶コーヒーを啜っているのは……この数年ですっかり白髪も増えた、社長である才蔵。


 その向かいで……同じく資料の山に埋もれながら、夜凪はなんだか萎れて突っ伏していた。


「お疲れ様です、夜凪さん、お義父さん」

「お疲れ様、あなた」

「おお、星那君、それに杏那もよく来たね」


 そっと扉を開いて中に入り、呼びかけると、嬉しそうに破顔する才蔵。

 すると、そんな会話を耳にして、萎れていた夜凪がまるで水を与えられた花のようにバッと起き上がり……


「星那!」


 まるで生き別れでもしていたような勢いで、しかし星那のお腹に気を遣ったように優しく抱きしめられた。


「もし君やお腹の子に何かあったらどうするの、家で安静にしていないと!」

「はいはい、言葉と行動を一致させましょうね、あなた?」


 苦言を漏らしながらも全身いっぱいで喜びを表現し、星那に頬ずりまでしている夜凪に苦笑し、ポンポンとその背中を叩いてやる。


 ……星那が妊娠して以降、このように夜凪の溺愛具合は加速していた。


 ようやく解放されたかと思うと、夜凪は軽く屈み、今度は星那の唇をついばむ。

 昔みたいな強引さはそこには無く、気遣うように優しいその口付けを星那がごく自然に受け入れて数秒。


 ようやく口を離した時、夜凪は先程の萎れようは何処へやら、すっかり精力に満ちていた。



「それにしても……夜凪さんは、背伸びたよね」

「……ん、どうしたの?」

「いえ……ふと、昔を思い出して」


 入れ替わり当初高校一年の時は、男子としてはやや小柄だった夜凪。

 だが今は、当時から少なくとも十センチメートルは身長が伸びており、百八十にも迫ろうかという程にまでなった。今ではキスするのも星那が少し背伸びした上で、夜凪にも少し屈んでもらわなければならない程だ。


「私が君だった時は、どれだけ望んでもさっぱり伸びなかったのになぁ、なんかズルい」

「そ、そう言われても……」


 ちょっと拗ねてみせるように口を尖らせる星那。

 その様子に困ったように苦笑しながら、いつの間にか才蔵が杏那と共に立ち去って人が居なくなった部屋の椅子の一つに星那を優しく導くと、そこに座らせる。


「よい……しょっと」


 夜凪に支えられて、少し重くなったお腹に気をつけながら、会議室内でも柔らかな幹部用の椅子に腰を下ろす。

 すると……夜凪の視線は、そわそわとその膨らんだお腹へ向けられていた。


「……ね、お腹触ってもいい?」

「もちろん」


 にっこり笑って許可を出すと、夜凪は嬉しそうに、膨らんだ星那のお腹へと手を伸ばす。


「……あ」


 ふとお腹の中に感じた感触に、思わず星那が小さく呟く。これを言ったら夜凪が少し可哀想かなと思ったのだが。


「……ねえ、僕が触っても、動いたの分からないんだけど本当に動いてるの?」

「あはは……実は、夜凪さんが触った時に、赤ちゃんは逃げるように奥の方に来ました」

「えぇ……」


 その星那の言葉にしょげてしまう夜凪。

 見かねた星那はしょうがないなぁと苦笑して、椅子から立ち上がる。

 そのまま夜凪を座らせて、背中を預けるように彼の脚の間へと自分も座りなおし、その手を取ってお腹へと導く。


「こうしてれば、わかるかな?」


 そう、二人でしばらくぴったりとくっついていると。


「……あ、今なんか、ポコンって揺れた」

「ふふ、ちゃんと動いたでしょ?」

「うん……なんか、すごい。本当にすごい……はー、こればかりは常に感じられる星那が嬉しいよ」

「あはは……そうそう、前回の検診で性別も分かったよ。女の子だって」

「へぇ……!」


 そう、星那に負担をかけないようにしつつも喜びに興奮している夜凪に……ふと胸の奥に感じる暖かいものを堪え切れず、星那が呟く。


「愛してるよ……夜凪さん。こうして一緒になれて、本当に良かった。幸せ過ぎて怖いくらい」

「うん……僕もだよ、星那。愛してる」


 そう二人で愛の言葉を囁き合って、背中を預けた星那をギュッと抱きしめる夜凪。


「ところで……二人目は、男の子がいいな」

「あはは、いつかはね。でも今はちょっと気が早いかな?」


 夜凪が耳元で囁いた言葉に、思わず笑ってしまう星那なのだった。








 ◇


 数年にわたり見守り続けた少女が、幸せそうな様子で歩いていく。


 そんな背中を……狛犬の背に寝そべり、満足そうに頷く一人の女性が存在した。





 ――うむ、うむ、幸せそうで何よりじゃ。やはり我の見立てに間違いはなかったのぅ。実に心地よい感謝の感情が流れ込んでくるわ。


 ――はぁ……これっきりにして下さいね、やらかすのは。大抵周りが迷惑するんですから。


 胸を張って、自分の功績を自慢する女性。

 狛犬は頭に肘を置かれている事に迷惑そうな顔をしながら、そんな彼女の様子を見て呆れたように深々と溜息を吐いた。


 ――そうは言うが……お主、向こうでの生活が恋しくなっているのではないか?


 ――黙秘します。


 ――なんじゃ、つれないのぅ……お、何やらまた面白そうな連れ合いがおるではないか。


 そう言って、参拝客の男女二人連れを追って消えてしまう女性。

 狛犬は、そんな主人の様子に再度溜息を吐くと……今まさに石段を降りていく少女の背中を振り返り、呟いた。




 ――初めはあの方の気まぐれだったとしても、幸せを掴んだのは、あなた方の想いです……どうか、お幸せに。


 そう最後に言葉を残し、困った主人を追いかけていくのだった。

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