星那の秘め事

 


 事件のことがあり学校を休むことになって、迎えにきた両親の車で帰宅してしばらく……日も傾き始めた夕刻。


「ハチ、ご飯だよー」


 納屋を改装し、毛布などを敷き詰めた一角。

 そこに、行儀良く座っていた秋田犬……ハチの名を呼ぶと、彼はすぐに顔をあげ、星那の方へと寄ってくる。


 ――ちなみに、この名前は忠犬として有名なハチ公が、秋田犬だった事からという安直な理由からである。


 器に餌を盛り、ハチの前に置く。

 特に指示を出した訳ではないのだが……彼はその前でピタリと止まり、じっと星那の方を見つめていた。

 その様子にふっと頬を緩めながら、「いいよ、お食べ」と語りかけると、ようやく食事を始めるハチ。


 やはりというか、食事の時も行儀のいい犬である。


「……本当に、お前は良い子だねー」


 食事をしている彼の背中をそっと撫でながら、呟く。


「私は駄目だなぁ。帰ってきた途端に、冷静でいられなくなって……」


 家に帰りホッとした途端に、それまでの緊張の糸が切れ、一気に精神的に不安定になっていた。

 しかし、それは別に、朝の痴漢の事がトラウマになったとか、そういう深刻な話ではない。


 だが……心の平静が全く保てないという意味では、それでも星那にとってはやはり深刻な事態なのだろう。


「ああ、もぅ、何で後から恥ずかしくなってくるかなぁ!」


 頭を掻きむしりながら、喚き声をあげる星那。

 星那を襲っていたのは……昼間の、夜凪との過剰だったスキンシップの反動から来る羞恥だった。


「でも本当に、どんな顔をして話せばいいのか分からないんだよ……」

「あの、星那君」

「ひゃあ!?」


 突然、後ろから夜凪当人から声を掛けられて、文字通り飛び上がる。

 バタバタと暴れている心臓をどうにか宥めすかして、ようやく引き攣った笑みを浮かべ振り返った。


「な、何の用?」

「真昼さんが、夕飯の支度どうするかって……疲れているなら、休んでる?」

「あ、わ、私がやります、大丈夫……」


 今日は学校まで休んでしまい、その上家事まで人に任せきりだと罪悪感が凄そうだ。


「ん、それじゃそう伝えておく」


 そう言って離れていく夜凪に、星那はホッと胸を撫で下ろす。

 両親に迎えに来てもらい、自宅に帰ってきて以降……ずっと、こんな調子の星那なのであった。


 そんな星那の手に、ザラザラとした湿った感触。

 見ると、ハチがその手を舐めていた。


「……慰めてくれるの? お前は本当にいい子だねー」


 その姿に表情を緩めながら、わしわしと頭を撫でてやる。

 お犬様の癒しを受けた星那は、よし、と一つ気合いを入れて、夕飯支度のため立ち上がるのだった。






 ……星那が珍しく料理を焦がすという若干のトラブルもあったが、夕食も済み、皆で交代で入浴していく。

 そうして星那と朝陽が一緒にお風呂を済ませ、残るは食後部屋から出てこない夜凪だけ。


 当然、呼びに行くのは星那の役目なのだが……その足取りは、とても重かった。


 変に意識するから悪いんだ。

 平静に、いつも通りに……


 その言い聞かせながら、夜凪の部屋の扉に手を掛けて、引く。


「夜凪さん、みんなお風呂済んで、あと夜凪さん……だ……け…………」


 扉をあけ、目に飛び込んできたのは……父、夕一郎が一念発起して買ったはいいが、三日で諦め物置の隅を占有していたはずの……トレーニング用シートの上に立つ人物の、肌色多めの光景。


 もうだいぶ馴染んだ星那の腕と違い、筋肉がくっきり見える腕と脚。


 こう見ると、意外に引き締まった体。腹筋などは、うっすらとではあるが割れている。


 その体は今まで高い負荷をかけて虐められていたのを示すように上気し、滝のような汗を滴らせていた。


 体力おばけである陸たちとは比べ物にならないとはいえ……それはやはり、鍛えられた少年の身体だった。


「あっ……と、ごめん。今すぐ上着るから外で待っていて」

「ごっ……ごめんなさい……っ!?」


 突然、上半身タンクトップだけという姿を見られた夜凪が、少し顔を赤らめて告げる。

 そんな肌色多い姿を見た星那が、バッと部屋から逃げ出して、入り口脇に張り付く。


 半裸姿をはっきりと目にしてしまい、頭に血が上ってくる。

 頭の片隅では、「元は自分の体だというのに何を恥ずかしがる必要がある」と正論を語っているのだが、どうにも昼以降、頭で考えた事と体が合致せず、四苦八苦しているのだ。


 中からゴソゴソと、服を着込む音。

 そんな中で気まずい思いをしている星那が、しどろもどろになりつつ話しかける。


「も、もしかして、ご飯の後からずっとやっていたんですか……?」

「いや、流石にずっとではないかな。インターバルはきちんと入れたし」

「なんでまた、突然筋トレなんですか?」

「それは……まぁ、すぐにどうにかなる事ではないと分かっているんだけどね。何もしないではいられなくて」

「わひゃう!?」


 後ろから、小柄な星那の体をすっぽり覆うように腕を回し、軽く抱きついてきた夜凪の体の感触。


 ――困っているのが、これなのだ。


 昼間、抱き締めたいと言う夜凪に、いいよ、と言ってしまって以来、彼が何かとスキンシップを取ろうとするのだ。


 帰りの車内では肩を抱いて離そうとしなかったし、夕飯支度の最中など鍋で野菜を炒めている時に抱きついてくるものだから、フリーズしている間に野菜を焦がしてしまい、ちょっと焦げ臭い肉じゃがになってしまった。

 おかげで、父、夕一郎に「星那が失敗するなんて珍しいねぇ、十分に美味しいけど」と笑われてしまい、恥ずかしい思いをしてしまったのだった。


 嫌というわけではないのだが……星那の小さな心臓は、もはや破裂寸前なのだ。


 恥ずかしさにプルプルと体を震わせる星那の肩に額を載せるようにして、耳元で囁く声。


「次に星那君に何かあった時に、後悔したくないからね……今度は、ちゃんと守れるように頑張るから」


 それだけ告げて、離れていく夜凪の体。

 しかし星那の方は、囁かれた言葉のせいで今にも爆破しそうな心臓に、それどころではなかった。


 慌てて自室に飛び込むと、ベッドに飛び込んで枕元のぬいぐるみに頭を埋める。


「そういう所なんですよ、夜凪さん……っ!」


 ぬいぐるみに頭を埋めたままで、たまりかねて叫ぶ。だめだ、このままでは本当に恥ずか死してしまう……そんな危機感が、現実になりそうだ。


「はぁ……もう、どうしちゃったんだろ」


 思えば今日はずっと、夜凪の腕の中に抱き締められてばかりだ。


 それ自体は、嫌いではないのだ。


 守られている感じがしてホッとするし、大切にされている実感があって胸の奥がほわほわする。

 だが、それと同時に……直に体全体で感じる他者の体温と、自分とは違う匂いに、変な感じが止まらないのだ。


 ――この辺りから。


 そう、きゅう……っと切ない感じがする場所に、指を這わせる。






 ……


 …………


 ……………………あぁ、そうだ。




 明日、目覚めたら洗濯をしないと。


 ベッドシーツと、ショーツと……あ、あとパジャマも必要だろうか。


 涎でドロドロになってしまったぬいぐるみも、このままでは可哀想だ。


 だとしたら、見られるのは恥ずかしいから、出来るだけ家族の目につかないようにしたい。


 父や母より早く……は難しいから、二人が朝仕事に出て行ってすぐ、夜凪が目覚めてくる前がいいかな。


 ……いっそ、朝風呂にも入るべきだろうか。




 ほぼ真っ白に染まった頭で、そんな明日の朝の予定ばかりが脳裏を過る。


 ――ああ……でも、なんだか無性に眠いな……ちゃんと起きられるかな……


 なんだか、酷く疲れた。

 熱を持った頭と体とは裏腹に、すっかり体力が空になるほどの疲労。

 もう腕一本上げられず、ただ取り留めのない思考を垂れ流しながら……そんな意識も、抗いようがないまま深い闇の中へと沈んでいくのだった――……


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