危機

 朝の、混雑する駅のホーム。

 息を切らせ、慌ただしく駆け込んできた星那と夜凪は、まだ電車待ちの乗客が多数存在している光景に、はぁぁあ……と安堵息を吐いたのだった。


「はぁ、はぁ……間に合った……」

「ごめんなさい……まさか寝坊するなんて……」


 星那が今朝、珍しく寝坊した。


 原因は、目覚まし時計の掛け忘れ。昨夜、設定する前にふっと意識が遠のいて……夜凪が起こしに来た時には、すでにいつも登校している時間だったのだ。


「おかしいなぁ……普段は目覚ましが無くてもだいたい同じ時間に目覚めるのに……」


 日頃の習慣から、星那は昔から決まった時間に目覚める体質をしていたのだが……今回は、それが全くなく、ただ襲い来る眠気に、全く抵抗できなかったのだ。


「……まぁ、そんな事もあるよね。他に体調におかしな所は?」


 夜凪が、星那のスマホを何やら弄って返してくる。

 これは何故か毎日の事で、星那も首をひねりつつも日課となってしまっていた。

 そんな彼の口にした疑問に、しばらく考えた後。


「特に無いけど、どうしたの?」

「いや、それならいいんだ……けど、そろそろかな」


 何か考え込む夜凪に、首を傾げる星那だったが……その時、列車が到着する旨の放送が、ホームに鳴り響く。


 やがて目的の電車が止まり、乗り込もうとした時――


「きゃ!?」

「星那君!?」


 どん、と強く背中を押されて、たたらを踏む。

 焦ったような夜凪の声。衝撃で夜凪と繋いでいた手が離されてしまった。


「あの、連れが居るんです、通して……きゃっ!?」


 戻ろうとした時、さらにドンと何者かに押されてバランスを崩し、たたらを踏む星那。

 もはや縋る手が無くなった星那の小さな体は、そのまま人の波に飲まれ、流されてしまうのだった。




 そのまま人の波に押され……


「そんな……なんで、こんな場所まで……」


 気がつけば、車両連結部付近の隅にまで追いやられていた。

 しかし、いくらなんでも流され方が不自然だ、まるで、無理矢理に夜凪と引き離され、意図的にここまで押されて来たような……そう思ったときだった。


「……ひっ」


 思わず、引き攣った声が漏れた。

 後ろから壁へと押し付けられるような体勢で身動きできないところに、脚の間をこじ開けられるように膝を突っ込まれた感触。よりによって、スカートを捲り上げながらだ。

 まるでお尻に押し付けるように力を込められている、男性の脚。やけに執拗なそれは、感触を確かめているようだった。


 だれか気付いてくれれば止めてくれるかも……そう思っても、小柄な身体は男性の影に入ってしまい、混雑の中では周囲から見えないらしく止めてくれる人も居ない。


 こんな事が事故な訳がないことくらいは、いくらなんでも星那にもわかる。


 ――そんな、痴漢……!?


 驚きに、ビクッと体が跳ねた。

 それを恐怖によるものと思ったらしき痴漢の男の手が、お尻の丸みを堪能するように撫で回してきた。


 ――気持ち悪い……っ!


 自分で触れた時も、夜凪に触れられた時とも全く違う。

 全身総毛立つ気持ち悪さ。生理的に無理というか言葉を、この時身をもって知る事となってしまった。


「あの、やめてください……」


 抗議しようとして……愕然とする。

 声が……出ない。出るのは、蚊が鳴くようなか細い音ばかり。


 悔しい。

 今の体になってから、色々と教わって、自分の身を綺麗に保つ努力を継続する大変さを思い知った。

 それは……決してこんな奴を愉しませるためじゃないのに。


 悔しさに、涙がにじむ。

 そんな星那を嘲笑うように、前の方へと回ってくる手。




 ――ピピピピピピピッ!!




 電車内に響き渡る、先程手放してしまったはずの防犯ブザーの警告音。


 ――何だ、何の音だ!

 ――うそ、やだ、痴漢!?


 ざわつく周囲。流石に驚いたらしく、星那の体をまさぐっていた男達の手が止まった。


 冷静に聞けば防犯ブザーに比べだいぶ音量も低い、その音。

 その音は……星那のポケットの中、スマートフォンから聴こえてきた。


 ――着信音……?


 音と同時に太ももへ感じる振動に、これがスマートフォンの着信による音だと理解する。

 だけど、何故。外ではいつもマナーモードにしていたし、そもそもこんな音に設定した覚えは……


 ……いや、ある。


 毎日、電車に乗る前と後に、何故か星那のスマートフォンを夜凪がチェックしていた。

 どうやら、その際にマナーモードと着信音設定を弄っていたらしい。それは、このためだったのか……そう、理解した瞬間だった。


「星那君から……離れろ……!」


 背後から、今もっとも聞きたかった声に続いて、鈍い打撃音。

 背後にいた二人の男がふらつき、片方が背中へと覆いかぶさってくる。


「〜〜〜〜ッ!?」

「大丈夫。もう大丈夫だから、落ち着いて」


 見えない場所からかかる重さと人の肉の感触に、思わず悲鳴を上げかけるが……背後からの声と、背中の重さがずり落ち、消えた感触にようやく少し冷静さを取り戻す。


「ごめん……ちょっと遅くなった」

「……夜凪、さっ……あぁぁ……っ!」


 恐怖というより、その恐怖から解放された安堵で限界を迎えた星那は……この時ばかりは人目を気にする余裕もなく、夜凪の胸へ顔を埋めて泣きじゃくるのだった。






「ごめん……本当に、ごめんなさい」


 腕の中で、普段とは全く違う様子でわんわんと声を上げて泣き続けている星那に、ちくりと夜凪の胸も痛む。

 こればかりは、彼女が『彼』のままであれば経験しなくて済んだ事だと思うと、やりきれないものがある。

 そのまま、背中を軽く叩いて宥めていたが……まだやる事があると、すぐに顔を上げた。


「さて、あちらを何とかしないとね」


 夜凪が、気を取り直したように背後に首を巡らす。

 星那も涙に濡れた目で恐る恐るそちらを見ると、そこには髭を伸ばし、髪を染めてジャラジャラとピアスなどのアクセサリーを付けた、柄の悪そうな大学生くらいの若者二人。

 片方は朦朧としたようにしゃがみこんで呻き声を上げており、もう一人もこちらは脇腹を抑え青い顔をしていて、身動き取れなくなっているようだった。


「皆、その二人が逃げないよう捕まえて、痴漢だ!」


 夜凪の声に、警報の音に驚き、推移についてこれず戸惑っていた乗客たちが、明確な指示を得た事で動き出した。

 周囲の乗客たちからの手が、数の利によって、暴れる痴漢の男たち二人をたちまち拘束する。


 これで、連中を逃す事はないだろう。そう判断した夜凪は、改めて、制服を乱されている星那を周囲の目から隠すように抱きしめた。




「こいつは……隣の車両が騒がしかったから来てみたら、随分と騒ぎになってるな」


 ドア越しに、心配そうに車内の様子を伺っていた人の中から、ひとりのスーツ姿の人が抜け出してドアを開け、夜凪たちの方へ寄ってくる。


「おい、兄ちゃん、これ使いな」

「ありがとうございます、助かります」


 寄ってきた人……若干柄の悪そうな見た目のスーツ姿の男性が、見かけによらぬ紳士的な態度で着ていたスーツを夜凪の方へと放って来る。

 それをありがたく拝借し、腕の中で未だ泣き続けている星那に頭から被せ、周囲からの視線をシャットアウトした。


「よし、お前らその二人を端っこに寄せて隔離しとけ、絶対に女の子の方を見させるなよ! 盗撮画像があったらネットに流されても面倒だ、スマホにも触らせるな!」


 スーツを貸してくれた男性は、そのまま周囲へとテキパキ指示を出して騒ぎを沈静化させている。

 その慣れた様子に首を傾げていると、あらかた指示を出し終えたらしい男性が、二人の側に向き直る。


「とりあえず、お前らも次の駅で降りて警備員の詰所へ行こうな。そいつらもしょっ引いて貰わにゃならんし、学校へも連絡が必要だろ?」

「重ね重ね、ありがとうございます……助かります」

「何、気にすんな。こういった連中がいるから、これだから男は……とか言われるんだよ。許せねーだろ?」


 そう言って、苦笑する男性。

 しかし、すぐに真面目な顔になって、諭すように口を開く。


「紛らわしい着信音を大音量で流したのと、暴力による実力行使。あまり褒められたものではないな」

「で、ですよね……だけど、彼女は僕の大切な人だったもので、頭に血が上ってしまって……」

「……ま、そうだろうよ」


 ポンポンと、夜凪の頭を軽く叩く男性。

 その顔はけっして夜凪を責めるものではなく、むしろ褒めるように、ニッと笑っていた。


「その件はさておき、彼女を守ってやったことに関しては……よくやった、少年」

「あ、ありがとうございます……そういえば、あなたは?」

「あ、俺か? 俺は……こういうもんだ。非番だったんだけどな」


 そう言って、夜凪と、被っているジャケットから目線だけ覗かせている星那の方にだけ見えるように、胸ポケットから手帳らしきものを出して見せる男。


 それは……


「……あぁ、なるほど。刑事さんでしたか……」


 階級と、名前の入った手帳。

 それを見た夜凪と星那が、安堵に体から力を抜いた。


「ああ、だから後のことは任せて休んでいていいからな……まぁ、彼女の事を頼むわ」

「ええ、その役目は譲りませんから」


 夜凪の腕の中で、いつのまにか泣き止んでいた星那の体がびくっと跳ねた。夜凪の発言に、きっとまた照れて真っ赤になっているのだろう。


 ――けど、それで恐怖と悲しみが薄まってくれるならば、その方がいいな。


 そう思って、さらにぎゅぅっと星那を抱く腕に力を込める夜凪なのだった。

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