星那と満員電車
夜凪の家、白山神社から学校へと向かうには、徒歩で十分程度の場所にある駅から電車で向かう必要がある。
普段は特に気にせず通過していた星那だったが……ここに来て、普段と様子が違う事に戸惑っていた。
というのも……
「な、なんだかたくさん人に見られているような気がするんだけど……」
「諦めて、すぐ慣れるから」
通勤中のサラリーマンや通学中の学生がひしめき合う、駅のホームに電車待ちで並んでいる時……周囲を見回すと、やけに他者と目が合う事が多いと気付いてしまったのだった。
以来、一度意識してしまうとひしひしと感じるようになってしまった周囲からの視線に耐えかねた星那は、とうとう横に居る夜凪に声を掛ける。
しかし……帰って来たのは、どこか諦めたようなそんな非情な返答だった。
――ちなみに……女の子は他者の視線が分かる、は半分本当、半分嘘だった。
アニメの超能力者みたいに、あ、見られている、と感じるような事はない。
しかし、周囲を見回した際に、こちらを見ている視線については良く分かってしまう。
そして、その視線が移動したという事や、その向き……どこを見ているのか、という事までが、なぜか男だった時よりも分かるのだ。
そして……厄介なのが、その目線が胸元やスカートの裾に移動するのがよくわかってしまう。
不慣れな星那は努めて無視しようとするのだが、内心では性差に関わる部位を舐めるように見られる羞恥心に耐えていた。
……要するに、男だった時と比べて目線の動きや向きに敏感なのだ。流石に視界外までは分からないのだな、と納得する。
「今更ながら、瀬織さんの苦労がよく分かるね……」
そんな訳で、今ではすっかり鞄を胸に抱えて泣きが入ってしまっている星那が、ぽつりと隣に居る夜凪に弱音を吐く。
「瀬織さんの時は、どうしていたの?」
「僕は……文庫本に集中して、ガン無視してたかな」
「なるほど……そういえば、いつも持ち歩いていたもんね。あれはそういう目的だったんだ……」
どうりで、今は持ち歩いていない訳だ。あれは視線避けだったのかと納得する。今度、何が用意して真似しようかなと思う星那だった。
「あとは……そうやっておどおどしていると、更に増えるよ。」
「そ、そうだね……」
全く反応を示さない子より、いちいち反応を返す子の方が見ていて気になるという事らしい。
事実、今の星那は眉を「ハ」の字にして、周囲の視線に対し怯えているような有様であり、余計な注目を浴びている。
夜凪のアドバイスに、意識して背筋を伸ばし澄まし顔を取り繕う。
しかし……その様子を見た夜凪は、逆に頭を抱えていた。
「まぁ、一朝一夕にはどうにもならないかな……」
「……?」
自分ではきちんと出来ていると思っている星那が、夜凪の言葉に首を傾げる。
今の星那の姿を傍目から見た印象で端的に言うならば、「無理してお澄ましをしようと頑張っている小動物っぽい子」という微笑ましい存在にしかなっていないのであった。
――さて、どうしてこうなったんだろう。
隣に居たはずの夜凪の姿は、今は見当たらない。
代わりに視界を埋め尽くしているのは、満員電車のぎゅうぎゅう詰めな人、人、人。
小柄な星那は周囲の男性の胸あたりにしか視線が届かず、夜凪の姿を探そうにも何も見えない。
――揺れる満員電車の車内。星那は今、電車に乗り込もうとする人の津波に流された結果……一人はぐれて人の海に呑み込まれ、身動きもできず途方に暮れていた。
……女の子となった事に対する認識が、まだまだ甘かった。
元々、家事を終えてから登校するためどうしてもこの時間となり、満員電車は慣れていたはず
しかし、自分が思っていた以上に星那の体は非力だったが故に、人の波に抗う事が出来ずに流されてしまった。
今は夜凪とはすっかり離れており、電車の車内中央まで来てしまっていた。
そして……吊り革にも手が届かず、どこも持つ事ができない星那。
そんな身は今、揺れる電車の中で周囲からの圧力によって押し付けられるままに、眼前の見知らぬサラリーマンの体に密着する羽目となっていた、のだが……
「その……ご、ごめんなさい」
「い、いえ」
明らかに上擦っている、そのまだ若い男性の声。
彼は必死に両手で吊り革を掴み、真っ青な顔にダラダラと冷や汗を流していた。
――あー……なんか、本当にごめんなさい。
彼の心中を察してしまう。
自分の胸が押しつぶされている感触。
今、星那は不可抗力によって、彼に胸を押し付ける形となってしまっている。
今は皆、全周囲からの圧力によってそのような事を気にしている余裕は無いが……星那が今ここで悲鳴の一つも上げれば、目の前の彼にとっては人生が終わるかもしれないという一大事だ。
星那も、男だった時に覚えがあるからよく分かる。周囲にぎゅうぎゅう押されて女子と密着した時の、あの不審者を見るような目(だとその時は思えていた)は、胃壁をガリガリと削るのだ。
それはちょっと可哀想だな……と思った星那は、可能な限り優しい笑顔を心掛けて、目の前の人に笑いかけた。
「その……大丈夫です、分かっていますから。私の方こそごめんなさい」
「は、はい……」
見ず知らずの人に体の一部を押し付けている、という恥ずかしさに、真っ赤になりつつもなんとか笑ってみせて呟く。
この状況に理解のありそうな女子高生だった事に、ホッとした様子で肩の力を抜くサラリーマンの彼。
少しばかり余裕ができた事で、掴まるものがなく不安定な星那の事を気遣って支えてくれるようになった。
そんな彼に「ありがとうございます」と軽く会釈しながら、男の人は大変だなぁ……と、しみじみ思うのだった。
そんな、やや気まずい時間が流れたまま、十数分ほどの時間が経ち。
『次の停車駅はー……』
車内放送で流れて来た駅名に、マズいと背筋に冷たいものが走った。
「あの、降ります、降りますー!」
慌てて必死に下車する事をアピールするのだが、背の低い自分にはなかなか気付いてもらえない。
それでも気付いて道を開けてくれようとしている、すぐ近くの人々。その間を抜けようとしているのだが……力が足りずに身動きできない。
――やばい、降り損ねる。
すわ停学明けにいきなり遅刻か……そう焦りはじめた時だった。
「やっと見つけた、こっち!」
聞き慣れた、しかしこの状況下では最も聞きたかった声。
ガッと人混みの間から伸びてきた手に腕を掴まれ、まるで大根を引っこ抜くように人混みの中から解放され、駅のホームへと降り立った。
「はぁ……良かった、本当に焦ったよ……」
「ご、ごめんなさい……助かりました……」
圧迫感から解放され、肩で息をしながら礼を述べる。
助けてくれた手……夜凪は、汗だくになったワイシャツの胸襟を緩めてバタバタと首元に汗を送り込んでいた。
その様子を見ると、おそらく逸れてからずっと、満員電車の中で星那を探していてくれたに違いない。
「ごめん、僕も悪かった。この時間になると満員電車になるの、すっかり忘れてた」
「ごめんなさい、私もすっかり元のままのつもりで居て……でも、瀬織さんだった頃に朝がすごい早かったのって……」
「そうだよ、満員電車を避けるため。なのに、ずっと休んでいた間にすっかり気が緩んで忘れてた、ごめん」
「……やめましょうか、これ」
「……そうだね、急ごうか」
二人揃って謝罪合戦になっていた事に気付いて、お互い苦笑し合って歩き出した。
「だけど、星那君も星那君だからね。まったく、あっさり攫われていくんだからもう……」
「……うん、本当にごめんなさい」
怒られ、恐縮する星那。
しかし、前を歩く夜凪は呆れ顔をしつつも、今度はしっかりと手を繋いで、絶対に離すまいとしてくれている。
その姿に安堵した事で、女の子となってすっかり緩くなってしまった涙腺が、ほんの少しだけ涙が滲ませてしまっていたのは……前を行く彼には内緒なのであった。
【後書き】
呼称の補足。
白山君……入れ替わり前の夜凪
瀬織さん……入れ替わり前の星那
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