星那の決意

 一週間の謹慎処分という猶予期間も四日目となり、すでに半ばが過ぎた日の朝。


 夜凪と星那の二人は、まだ日が昇って間もない時間、二人で境内前の石段の掃除に精を出していた。

 気は使わなくていいと夕一郎に言われていたが……やはり何もしないのは気が引けるため、自主的に手伝いをしているのだった。




「ところで白山く……違った、瀬織さん」


 つい元の呼称で呼びかけて、慌てて周囲を見回しながら言い直す星那。


 家の中ではそこまで神経質にはならないのだが、今の場所は階段の中程……境内の外であり、朝早くとはいえ散歩中の人などがちらほらと見えるためだ。


 そして……そんな道を行き交う人々が、時折驚いたように二人のほう、とりわけ夜凪へと視線を送っている。

 特に男性の中からは、惚けたような視線や熱っぽい視線が飛んでくるのも時折感じていた。


 というのも……


「今朝、外に出てきた時からずっと聞きたかったんだけど……その服は何?」


 星那が、作業中ずっと聞きたかった事を口にする。

 その言葉に、夜凪は困ったように苦笑した。


「あはは……母さんが……んっ、真昼さんが折角だから一度着てみなさいって」


 そう言って、くるっと一回転その場で回ってみせる夜凪。

 目にも鮮やかなが、ふわりと襞を拡げて宙に円を描き舞った。


 純白の白衣しらぎぬと、腰のところに白い上指糸うわさしいとが入っている鮮やかな緋色の行灯袴あんどんばかま

 長い黒髪は、後ろで母が水引きによって束ねてくれていた。

 足元を飾るのは、白の足袋に、赤い鼻緒の白木の下駄。

 ちなみに、さすがに今は着ていないが祭祀用の千早ちはやもすでに用意されていた。


 ……そう、巫女装束である。


 もちろんコスプレではなく、生地はしっかりして結構な重みがある。白山神社の備品である、正真正銘の本物だ。


 夜凪にとっては、お祭りの時などにたまに入るバイトのお姉さん達が着ているので見慣れた服装ではある。

 しかし、まさか自分が着る事になるとは思っていなかった衣装の、最たるものであった。


「どうかな。星那さんはすごい綺麗な黒髪だから、僕……じゃない、私としては似合っていると思うんだけど……」


 そう腰の辺りで手を組み、やや俯き気味に尋ねる夜凪。


 その姿は、服装の印象も相俟って、清楚可憐そのもの。おおよそ巫女という存在に世の中の人が抱く印象を体現していると言っても過言ではない。


 勿論似合っている。似合っているのだが……


 その恥ずかしそうに上目遣いで窺い見てくる視線に撃ち抜かれた星那は、真顔で夜凪の肩を掴むと、言った。


「……とりあえず、それ禁止。今すぐ取って食べたくなっちゃうから」

「う、うん、わかった」


 その半ば本気の目に怖いものを感じ、夜凪はただ、こくこくと頷くのだった。



 休憩を終え、作業に戻る二人。

 夜凪は石段を箒で掃き清め、星那はそのペースに合わせ石段周囲の林などに転がっているゴミを拾い、分別して袋へと入れて行く。


「そういえば、和服は下着着けないとかいう噂は……」

「あはは、それはガセだよー。ちゃんと和風用のを着てるよ」

「ま、まぁそうだよね」


 からからと笑って噂を否定する夜凪に、ホッとしたのが半分、残念半分という調子で溜息を吐く星那。


 そのように雑談しながら石段を下りていく二人だったが……やがて、星那は意外に多いゴミの数にうんざりし始めていた。


「しかし、まぁ……意外とあるものね、捨てられたごみ」


 そう言って、星那が空き缶が何本も入っているポリ袋を振って、ガラガラと音を立ててみせる。その量に、夜凪も頭を抱えるのだった。


「うん……特にこの季節は夜に溜まっている人が結構居るから、毎朝こうしてゴミを集めておかないと、あっという間にゴミ神社になるんだよね……」

「しかも、随分と罰当たりな物まであるし」

「あ、あはは……うちは祀っているのが縁結びの神様だからね……本当、罰当たりだからやめてほしいんだけど……」


 彼女が手にしたゴミ袋の一つ、可燃物を集めた袋の中にいくつか見える物体……なんというか、どこかの誰かが証拠物らしき物とか……から真っ赤になって目を逸らしながら、肩を落とす夜凪だった。


「だから、うちは門限が結構早いよ。朝陽は日が落ちたらもう外には出さないし、僕……おっと、私も八時以降は外出禁止だったかな」


 これからは僕も朝陽と同じ基準になりそうだけどね、と苦笑する夜凪だった。


「っと、これで終わりかな」


 いつのまにか、一番下のあたりまで降りてきていた。話が弾んでいるうちに、随分と進んでいたらしい。

 始めた時はまだ薄暗かったというのに、すっかり日も高くなって、まだまだ冷たい空気漂う初夏の朝、という風情になっていた。


「ん……っ、流石に一番下までだと、結構かかるわね」

「そうだね、お疲れ様。それじゃ、戻って朝ごはんに……」


 するね、と言いかけて、石段の最後の一段を降りようとした――その時。


「……あっ」


 まだ僅かに残る元の身体との感覚の違いのせいで、石段の高さの目測を見誤り、ガッと夜凪の下駄の踵が踏み外した石階段の側面を削った。


 宙に取り残される体。

 ヒヤリとする浮遊感と、ひっくり返り空しか見えなくなる視点。

 次の瞬間襲い来るであろう衝撃を予想してしまった夜凪の頭の中が、真っ白になる。


「っと、危ない!」


 重力に引っ張られる体が、その向きを変えた。

 とす、と軽い衝撃。


 気が付けば、星那の……元は夜凪の、こうしてみると意外に引き締まっている胸の中へと、横抱きに抱きとめられていた。


「下駄なんだから、足下に気をつけて……どうかした?」

「……ぇ、あ……ごめん、大丈夫」


 なんとか心配させまいと星那を見上げ微笑んでみせるが、大丈夫……ではなかった。

 転ばずに済んだ安堵と共に、手足がカタカタと小刻みに揺れて、自分の意思ではどうしても抑えられない。きっと、顔は真っ青に違いないだろう。


 それはきっと、先程感じた浮遊感が、に似ていたから。


「……どうかした?」


 今度は、強い調子の星那の質問……というよりは、確認。

 誤魔化しは効かないだろうその様子に、夜凪は諦めてから自分に起こっている事を白状する。


「……ごめん、どうしてもあの日以来、落下感とか浮遊感とか、そういうのが本当に駄目で」


 ほんの少しの段差を飛び降りるだけで、体が硬直する程の恐怖心が湧き上がるのだと、真っ青な顔で答える。


 ……無理もないだろう、とは思う。


 特に夜凪は、三階建ての屋上から、頭から落下しているのだ。こうして二人とも何も障害無く暮らしていけるのが、奇跡のようなものなのだから。


 そう白状した夜凪を、星那が少しの間沈痛な面持ちで眺めた後、目を閉じて何か考え込む。


「……どうしたの?」


 夜凪を横抱きにしたまま固まっている星那の様子に、ようやく立ち直りかけてきた夜凪が声を掛ける。


「そういえば……まだ、お礼って言ってなかったわよね」

「……え?」

「あの時、白山君は私の事、庇おうとしていてくれた事。まだお礼してなかったなって」


 入れ替わりという普通ありえないような異常事態によるゴタゴタで、二人ともすっかり忘れていた。


 そこまで言って、星那がゆっくりと目を開く。

 真っ直ぐに夜凪の目を見つめているそこには……確かな決意らしき色が灯っていた。


「だから……決めた。今度は私が君を守る」

「……え?」

「君は、私が……守る」


 今度はすぐ耳元で囁かれた、どこか決意の篭った囁き声。

 いつもの夜凪なら、真っ赤になって慌てて逃げているであろう筈のその言葉に……今回は何故か力が抜け、逆に身を委ねてしまう。


 ――なんだろう、この感覚。


 恥ずかしいし、情け無いし、逃げ出したい。

 なのに……何故か安心するという、真逆の心の動きに翻弄される。


 さっきまであれだけ怖かったのに、まるで溶けて消えるように、恐怖心が遠ざかっていく。

 しかしそんな安心感を引き金として、今の心境とは裏腹に、胸の奥から湧き上がって来る衝動もまた存在した。


「……もう少しだけ、ここ、借りていい?」


 気がつくと、そんな言葉を口走っていた。

 今まで無自覚だった事でも、いざ気付いてしまうと、もはや決壊を止める事は出来そうに無かったから。


「……勿論よ。私が、君のものでもあるんだからね」

「そ……そうだったね。それじゃ、少しだけだから」


 そう言って、さらに強く星那の胸へと強く顔を押し付ける夜凪。今は、誰にも顔を見られたくなかった。


 その後……落ち着くまで約十分程度の間、星那はずっと、夜凪の背中を優しくさすってくれていた。




 二人の関係が大きく変化したあの事件から、すでに一週間が経過しようとしているこの朝。


 夜凪は……ようやく、ずっと溜め込んでいたあの時の恐怖を吐き出す事ができたのだった――……

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