白山家の朝
ピピピ、ピピピ……という、聴き慣れたアラーム音。
「……あ、れ……無い……?」
毎日の記憶を頼りに伸ばした筈の手に、いつもの目覚まし時計が触れない。
やむなく、半分眠ったままベッドの上を這って少し進み……ようやく手が目覚まし時計に届き、ボタンを押す。
再び、静寂が降りた室内。
何やら布団から花の蜜のような甘い蠱惑的な香りが漂ってきており、抗い切れずに柔らかく布団に絡め取られ、崩れ落ちる。
しばらくそのまま、自身からの移り香が漂うベッドでの惰睡を楽しんだあと……もぞもぞと、諦めて布団から這い出す。
「ん……?」
なんか窮屈だな、と自分の体を見下ろす。
目に入ってくるのは、ボタンが半分くらい外れた事で、肩どころか左側に至っては肘より下まですっかりはだけ、己の役目を放棄しているピンク色のパジャマ。
そしてその下から覗く、深い谷間を形成している胸を覆う下着。
それは窮屈なはずだなぁと寝ぼけた頭で思いながら、もぞもぞと脱ぎ去る。
……その時の感触を擬音にするのであれば、「ぷるん」というのが適切だろうか。
衣服を脱ぎ去る際にひっかかり、僅かに引っ張りあげられた胸の膨らみが、重量に従い落ちたのち自らの弾力で元の場所へと帰る、そんな感触。
「……おー」
白くて、魅惑的な曲線で構成されていて、柔らかく揺れている眼下の物体。それは、見るからに触り心地が良さそうで。
「うん……ふむ……ほわぁ……」
ぐに。
ぐにぐに。
手に力を入れるたびに従順に姿を変えるその膨らみを、寝ぼけ眼のまま無心に揺すっている夜凪。
パジャマ越しに触れた時も好ましい感触だったけれど、遮る物がなく直に触れたそこは本当にふわふわと柔らかく、しかも滑らかで、極上の心地よさだった。
しばらく寝惚けながら、触り続けていた夜凪だったが……
「あれぇ……おねーちゃん何してるの……?」
「――ッ!?」
不意に横合いから掛かった声に、ビクゥッ! と肩が跳ねた。眠気など、一瞬で消し飛んでいった。
「あ、朝陽……ど、どうしたの、今朝はやけに早いね……?」
慌ててパジャマの前を留め、ギギギ、という錆びついた音を上げそうな動きで振り返りながら、返事をする。
そこに居たのは、いつもならば朝早いこの時間はまだ夢の中にいるはずの妹。
自分の恥ずかしい行動をよりによって朝陽に見られたとダラダラ冷や汗を流す夜凪だったが……
「んー……おトイレぇ……」
朝陽は気にした様子もなく、目をこすりながら立ち去っていってしまった。
ホッと安堵の息をつく夜凪。あの様子では、今見たことなど忘れて用を足したら二度寝するに違いない。
「……気をつけよ」
今回は寝ぼけていたとはいえ、この体を欲望のままに扱ってしまった事を猛省して、起き出していくのだった。
一階に降りると、すでに両親の姿は無かった。
どうやら夜凪はすっかり寝坊してしまったようで、両親はもう境内のお清めに行ってしまったらしい。
そんな二人のため、キッチンの一角に備え付けてある電気式サイフォンでコーヒーを淹れ、そのまま保温にしておく。
ついでに父にはミルクポーション一つ、母にはさらにシュガースティックを一本添えて、テーブルの彼らの席に置いておく。
そんな毎日のルーチンをこなしつつ、少し多めに淹れておいたコーヒーを自分のカップに注ぎ、口をつける。
「……ぅ、苦」
顔をしかめる。豆の量の間違いなどは無いはずなのだけれど。
夜凪は中学二年の頃に「なんとなく大人っぽいから」という理由でコーヒーを何も入れず飲むようになったが、最初は辛かったそれだって二年も続けば味覚も慣れる。
そうしてすっかりブラック派となった筈なのに、今はやたらと苦く感じる。初めて飲んだ中学の時並み……いや、それ以上だ。
始めはそれでも頑張って主義を貫こうとしたが、すぐに諦めて冷蔵庫から紙パックの牛乳を取り出し、少し注ぐ。
口当たりがマイルドになったそのコーヒーを飲み干すと、よし、と気合いを入れて自分の席に掛けてあったエプロンを手に取った。
作業の邪魔になる長い髪を、髪留めで留めてポニーテールにする。これは紐より楽だからと、昨夜寝る前に母に貰ったものだ。
すっかり大きくなってしまった愛用のエプロンを、襟ぐりの広いスウェットとホットパンツという部屋着の上から着用し、鼻歌交じりに朝食の準備を始める。
まずは昨夜タイマーを合わせていたご飯がきちんと炊けているのを確認し、炊きたてのご飯を十字に切って底からひっくり返すように混ぜ合わせる。
人数分の塩鮭の切り身には酒を数滴振っておき、グリルの中へと投入。
二つの鍋の片方にはほうれん草を茹でるための水を、片方には昨夜から用意していた味噌汁用のだし汁を張ったところで……階段から、誰かが降りてくる音。
父と母は、すでに境内に出ている。朝陽ならばもっと足音は軽い筈だ。とすれば……
「おはよう、瀬織さん」
「あ……」
振り返って微笑みながら挨拶すると、彼女……今は夜凪の体なので彼か……は、呆けたようにダイニングの入り口で固まっていた。
そんな星那の様子に、どうしたんだろう、と首を傾げる。寝癖らしい寝癖もつかなかった長い黒髪が顔の輪郭をなぞるように流れ、さらさらと頬を撫でた。
「すぐ朝ご飯ができるから、座って待っていて。コーヒーか牛乳で良ければ飲み物要る?」
「あ、うん、それじゃ牛乳で……な、なんだかこれ、新婚みたいで恥ずかしいわね……」
「あー……確かに」
グラスに注いだ牛乳を星那の前に置く夜凪に、少し照れ臭そうに呟いた星那。二人、気恥ずかしさに照れながら苦笑し合う。
そんな甘酸っぱい空気の中で、鼻歌を歌いながら朝食の支度に戻る夜凪。
今は女の子の体なため、女性ボーカルの曲、キーが高いパートの声も余裕で出せる。その事が少し、夜凪を上機嫌にさせていた。
お湯と出汁が温まるまで、パタパタと歩き回って卓上に納豆や梅干しを出したり食器を用意したりと朝食の支度を進る。
それも済み、沸騰しない程度に温まった出汁に味噌汁の具である豆腐とワカメをを切り分け、投入しようとした時。
「煮干しのお出汁なのね、珍しい」
背後で鼻をひくつかせた星那が、そう呟く。
確かに、このあたりは味噌汁というと昆布出汁が主流なのだが……
「うん、僕が好きでたまに使うんだ」
夜凪は、煮干しの濃くて力強い風味が好みだった。それに栄養価も高いし。
「……苦手だったりする? もしそうなら、今からでも違う出汁に変えるけど」
実際、妹の朝陽は煮干しの出汁が苦手だ。
味が、というわけではなく、たまに煮干しそのものが入っていたり、皮の銀色が残る破片が浮いていたりというのが苦手らしい。
悪いものではないので、心を鬼にしてちゃんと食べさせるけれど。
ちなみに、煮干しで出汁をとる場合は頭とワタを取って一晩水に浸けておくのだが、これは昨夜の夕食の支度の合間、暇な時に仕込んでおいた。
昆布出汁は、少し切れ目を入れて水に浸け、冷蔵庫に入れていつでも使える状態で用意してあるので今からでも変更できる。
鰹節は……水に投入してから火にかけ、沸騰直前あたりで火から下ろしてだからちょっと手間がかかるかな……そう頭の中でどんなリクエストにも答えられるようにシミュレートしておく。
が、そんな心配は杞憂だったらしい。
「いえ、大丈夫。特に嫌いなものはないわ」
「うん、了解」
その星那の返答に夜凪は満足げに頷くと、汁の中に茶漉しを使って味噌を溶き入れる。
そうして味噌を溶き終えると、沸騰させないように火加減を落とす。
そして、一口分の汁をおたまで掬って小皿に取り、星那に渡す。その意味をすぐに察してくれた星那が、目を輝かせて口をつけた。
「……すごい、美味しい」
「そっか、よかった」
目を見開き驚きの表情を浮かべ賞賛する星那に、照れながらも嬉しそうに夜凪が笑う。
「これはいよいよ白山君を手放すわけにはいかない。絶対、私のお嫁さんになってもらうわ」
「そ、そんな大袈裟だよ……」
真剣極まりない表情でそう告げる星那に苦笑しながら、夜凪はグリルを覗き込み鮭の焼け具合を確かめる。
うん、大丈夫そう。
あとは……もう一品欲しいところだけど、たしか作り置きのひじきと大豆の煮物が冷蔵庫にあったはず。
そう判断し、茹でた後水に晒していたほうれん草のおひたしの水気を絞り、食べやすい大きさに切り分け、皿へと盛っていく。
そのまな板を叩くリズミカルな音に、星那が思わずといった様子で呟く。
「……白山君、お母さんって呼んでいい?」
「もう、何言ってるのさ。こんな大きな子供がいた覚えは無いよ?」
苦笑いしながら、テーブルに朝食を並べていく夜凪は、気付かなかった。
星那の目が、割と本気だったという事に。
あらかた朝食の準備を終えた頃、二階から降りてくる小さな足音。どうやら今度こそ、朝陽が降りて来たらしい。
「おねーちゃん、おはよぉ……」
「あ、朝陽、ちょうど良かった。朝ご飯できたから、外に居る父さん達を呼んできてくれる?」
「はぁい……」
目をこすりながら、玄関の方へと歩いていく朝陽。
その姿を見送って、星那がポツリと呟く。
「……私も、何か手伝いをするべきよね」
「どうしたの、急に」
「いえ、私は居候だし……」
申し訳なさそうに、そう呟く星那。
朝陽ですらも手伝いをしている中で、一人座っているだけというのが、居心地悪いらしい。
「ん……瀬織さんのお父さんから結構な額の生活費を貰ったから、あまり気にしなくて大丈夫だけど……」
しばらくの生活を整えるための費用に加え、食費として毎月払うと言った額はむしろ白山家が恐縮するほどで、比較的裕福な筈の白山家の月々の生活費を倍以上にしていた。
自分たちもたまに帰った時にご馳走になるつもりだからとの事だったので、それも込みの額なのだろうけど……それでも、今の夜凪という
とりあえず、必要な分以外は何かあった時や将来のため、瀬織さん名義の口座を作って貯金しとこ……そう思う庶民派の夜凪なのであった。
が、それはそれとして、居心地が悪いというのはよく分かる。周りが働いている中となれば尚更だ。
「そうだね……それじゃ、今後少しずつ、境内の掃除とか教えていく? 僕も今だとあまり力仕事はできないだろうし……」
「……! ええ、是非!」
嬉しそうに、パッと顔を上げる星那。
その様子を微笑ましく眺めながら、さて何から教えようかと考え始めるのだった。
「ご馳走さま。今日も美味しかったよ、ありがとう」
手を合わせ、ニコニコと微笑みながら言う作務衣姿の夕一郎。
この後すぐに社務所に詰める夕一郎は、見た目の穏やかさに反してかなり食べるのが速く、他の皆はまだ朝食の中頃であった。
「それで……食べながら聞いて欲しい。二人とも、これから入れ替わって暮らす中で、大事な事なんだが……」
そう真面目な表情で前置きする夕一郎に、夜凪と星那の二人が彼の方へと向き直る。
「君達二人が色々大変なのは承知しているのだけれど……復学までの一週間のうちに、口調と呼称を二人で改めるべきだと思うんだが、どうかな?」
「それは……確かに、その通りだと思います」
「お互い、今の姿に見合った言動に切り替えて行かないとねぇ……」
夜凪の口調は穏やかだが、それでやはり少年のものだ。
女の子らしい口調の染み付いている星那はもっと大変で、こちらは完全に矯正する必要があるだろう。
戸籍上の性別と口調の一致しないという人は、確かに居る。
だが生憎とこの世の中は、そうしたセクシャルマイノリティーに優しくはない。
「それに、私が『夜凪』、夜凪君が『星那』って呼ばれるのにも慣れていかないと、ですね」
星那が補足した言葉に、確かに、と夜凪が頷く。
お互いの呼び方も、今はお互い元の名前で呼び合っているが、人前でやってしまったら間違いなく変な目で見られるだろう。
「では、幸いお互いにとって最良の教師は隣にいるのだからね。あまりこちらの手伝いを頑張らなくていいから、焦らず復学までの間、自分たちの事を頑張りなさい」
「……わかった。ありがとう、父さん」
「お気遣い感謝します、おじさま」
「ふふ、二人とも、そういうところで地が出てますよ?」
優しく二人に語りかける父に、並んで二人頭を下げる。
そんな夜凪と星那のまさに先程の指摘通りな言動に、苦笑した母、真昼が苦笑した。
「……頑張ります」
結構大変そうだなぁ……そう、先が思いやられる夜凪だった。
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