星那のお風呂事情

 夕食が済むと、瀬織家の皆は星那を残し、帰っていった。

 なんでもこの数日で仕事が溜まっており、明日からは忙しくなるのだそうで……しばらく顔を見せに来ることも出来なくなるとの事だった。


「こちらの仕事が落ち着いたら、またお邪魔するよ。夜凪君の料理を楽しみにしている」


 そう言って、やや厳しめだった顔の目元を緩ませて去っていく才蔵。


「お父さん、嬉しそうだった。夜凪君、ありがとう」

「そうかな……そうだと良いね」


 すっかり気に入られたようねという星那の言葉に、夜凪は嬉しいやら照れるやら、もどかしい気分に苛まれるのだった。





 さて、夕食も済み、あとは寝るだけ……の前に、夜凪には立ち塞がる試練があった。


 母に、たぶん皆の中で夜凪が一番時間が掛かるはずだから先に済ませてしまいなさい、と放り込まれたそこは……そう、お風呂である。


「うーん……うぅ……」


 落ちつかず、そわそわと脱衣所を右往左往する。

 ちらっと姿見に目を向けて……すぐに、パッと目線を下げた。


 たったの一瞬。

 それだけで、夜凪の心臓はバクバクと脈打ち、顔に血が集まって来ていた。


 なぜならば……姿見に写っているのは、申し訳程度に大事な場所を下着に包まれた、均整のとれた半裸の女の子の肢体なのだから。


 ここまでは、頑張って脱いだ。

 しかし、これ以上はどうしても踏み出す勇気が湧かない。


「好きにしていい、って言われても……」


 再び視線を鏡に移す。

 実用一辺倒な男物とは全く違う、柔らかなパステルカラーの生地。その上に繊細なレースやリボンなどの装飾を重ねた、見た目からして可愛らしい下着。


 しかも、鏡に映るのは恋していた少女の下着姿なのだ。はいそうですかと慣れることなどできるはずがない。


 いや、でも脱がないとお風呂入れないし……そう自分に言い訳しながら、ブラジャーにしっかりと守られている十分な重量感を感じさせる胸へ、そろそろと手を伸ばし……


「……何、まだ入ってなかったの?」

「きゃあ!?」


 そこで、ガチャリと脱衣所の扉が開き、比喩抜きで夜凪の身体が跳ねた。


 ……なんだかすごく女の子みたいな声が出た気がする。


 そんな事に夜凪が呆然としているうちに、星那はスルリと脱衣所の中に滑り込んできていた。


「い、一緒に入るの……?」

「ええ、白山君は女の子になって初めてのお風呂だからね。もともと私の身体なんだから、べつにいいでしょ?」

「それは、まぁ……」


 言われてみれば、夜凪もいまさら十六年も付き合って来た自分の身体を恥ずかしがるわけも無い……多分。


「大丈夫、さすがに清い交際をと釘を刺されたその日のうちに、取って喰ったりしないわよ」

「なら、いいんだけど……」

「だからほら、早く脱いで中に入りましょ」

「う、うん、でも……」


 煮え切らない様子の夜凪に、はぁ、とため息を吐いた星那が、すっと夜凪の背後に回る。


 そして……プチンと、手早くブラのホックを外してしまった。


「ひゃあ!?」

「目を開けて、よく見て」

「え、でも……」

「いいから見て、私がいいって言ってるのだから、隅々までよく見て」


 そう言われて、瞑っていた目をおそるおそる開ける。


 当然ながら……そこには顔を真っ赤に染めて、胸や股間を必死に隠そうとしている少女が映っていた。


 星那に促され、そろそろと両腕を下ろす。

  そして、今の自分の身体を見つめ、思わず、ほぅ……とため息をつく。


「それで、夜凪君はこうして私の体を見て、どう思った?」

「その……とても綺麗です。隅々まで手入れが行き届いてて……」


 見惚れる、とはこの事だろうか。

 一度視界に入れてしまうと、目が離せない。


 そんな夜凪の様子に、星那は満足げに頷く。


「夜凪君は、私が綺麗なのは生まれつきの資質のおかげだけだと思う?」

「そ、そんな事ない! きっと、いつも綺麗であろうと努力して……っ!?」


 夜凪が、自分のその言葉にハッと、顔を上げる。

 その様子を見た星那は、再び満足そうに頷いた。


「そういう事よ」

「……うん、ごめん。瀬織さんが、この体が自分の手から離れて惜しくない訳が無かったよね」


 十六年間、星那が綺麗であるための努力を大事に大事に続けてきた結晶である、この珠の身体。

 ならばそれを継いだ夜凪にできる事は、可能な限り彼女の努力の成果であるこの身を保全し、彼女が満足できる状態を維持することだ……そう思えた。


「だからその身体が私の手から離れてしまった以上は、夜凪君にそれらを引き継いで貰わないといけないの。決して、見ないようにして適当な管理はして欲しく無い……かな?」


 ごめんね、夜凪君は何も悪くないのに面倒なことを押し付けてしまって、と謝る彼女に、夜凪の方こそ慌てて頭を下げる。


「……うん、僕の方こそごめん、僕にやれる事なら何でも協力するから」

「おっけー、言ったわね! それじゃ、早速有言実行してもらうから!」


 一転し楽しげな星那の声に、あれ、と疑問符を浮かべながら頭を上げる。


 そこには……実に楽しそうな笑顔を浮かべている星那の姿があった。




 ……


 …………


 ……………………



「うぅ……もうお嫁にいけない……」

「何言ってるの、夜凪君は私のお嫁さんになるのよ」

「そうでしたねぇ……っ」


 半ばやけくそ気味に返した夜凪に、星那はむしろ満足げに頷くのだった。


 スキンケアの手順の指導を受けた後、髪をブラシで梳き、お湯で下洗いした後にシャンプー、そしてトリートメントまできっちり解説付きで説明を受ける。


 ……正直言って、面倒臭いと思ってしまうほどの行程の細かさだった。それだけの努力があってこそのサラサラの黒髪だと思うと、頭が下がる思いがした。


「今教えた事、ちゃんと覚えない限りは、これからずっと夜凪君の体は私が洗うからね」


 そう、どこか熱っぽい視線と共に言われたら、必死に覚えざるを得なかった。肉食獣から逃げる草食獣の気持ちで。


 最後に濡れた髪を束ねてタオルを巻いてもらい、ようやく洗い場を交代する。

 よく女の子のお風呂は長いと聞くが、それも納得だと、すっかり疲れきった夜凪はぐったりと湯船に手足を投げ出すのだった。


「それで……こっちの身体はどう洗えばいいの?」


 そう言って、次はそっちがレクチャーしてよと促す星那。しかし……そう言われ、夜凪は考え込む。


 ――洗い方?


 正直、そこまで深く考えていた記憶が無い。

 清潔には気をつけていたつもりの夜凪だったが、この辺り、男って雑なんだなぁとしみじみ思わされるのだった。


「……その、適当で」

「……楽でいいわね。了解」


 変に指示するより、星那に任せた方が絶対にいいと丸投げする。半ば呆れ混じりの目で自分の身体を洗い始めた星那。


 それを確認し……夜凪はドッと気疲れし、湯船に顔半ばまで身を沈めるのだった。




 ――女の子って、大変だ。




 そんな事を、しみじみと考えながら。








【後書き】

ミッドナイトに投稿していた修正前の旧版のバックアップデータも手元にあるのですが、一応修正バージョンでお送りしています。

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