変化

 

「ん、ぅ……」


 ――意識が浮上する。


 まるでピントを合わせる機能が壊れたかのように、うまくものが見えず、ぼんやりとした視界。

 それでも、なんとなくわかる。眼前に広がるのは、真っ白な知らない天井だ。


 ここは……病院?



「あれ……生きてる?」


 パチパチと、目を瞬かせる。

 胸のあたりになんだかおかしな重みを感じるのをはじめとして、体の各所に違和感があるものの、痛みなどは感じられない。


 ……違和感。


 例えば、全身の筋肉が足りていない感じ。

 体を守るものが減った、とても心許なくて不安になる感覚。

 体を動かそうとした際に、全身に伝わる力があまりに小さい気がするのだ。


 まさか……何ヶ月も寝ていたのだろうかと、ヒヤッとしたものが背中に走る。


「……?」


 それにしては、筋力の衰えは感じない。反応速度が落ちていないのだ。いや……むしろ、全身が軽いように感じる。


 何やら聞こえてくる自分の声がおかしいが、これは落下の衝撃で耳が変になったのだろうか。

 もし頭を打ったのだったら怖いなと、不安を感じ始めた頃。


「あ、目が覚めたのね」


 その時ちょうど様子を見に来てくれたらしい、病室を覗き込む看護師のお姉さん。

 彼女は、身を起こそうと身じろぎする夜凪に手を貸して、起き上がらせてくれた。


 動くと、さらに違和感が激しくなる。

 体の動き方自体が、全く記憶と異なる気がしてならないのだ。まるで、一度全身をバラバラにして繋ぎ合わせたかのように。


「先生が言うには、どこにも異常は無いらしいけれど、目眩がするとか、気持ち悪いとか、そういう事は無い?」


 異常がないと言われても、夜凪にとっては異常だらけだ。それでも、あえて言うならば……


「……すみません、なんだか視界がぼやけて、上手く物が見えない、です」

「そう……見える?」


 そう言って、自分の眼前で何本か指を立てて見せる看護師のお姉さん。

 最初はほとんど見えなかったけれど、やがて徐々に鮮明になってくる。


「あ……少しずつ、ちゃんと見えるようになってきました」

「なら良かった。目覚めたばかりだからかもしれませんが、続くようなら担当の先生に診てもらいましょうか」


 優しく肩を叩くお姉さんに、頷く。

 その反応に満足したらしい彼女は、部屋に備え付けのインターフォンでどこかと連絡を取り始めた。


「……あ、先生、こちら203号室の瀬織さんの病室です。彼女、目を覚ましました」

「…………え?」


 内線でだれかと会話している看護師のお姉さん。

 その言葉に、聞き捨てならない物があった。


 瀬織さん。

 彼女。


 何か、おかしな事が起きているような違和感。

 そんな時……視界の端に、黒いサラサラとしたものが過ぎる。


 これは……髪の毛?

 しかし、夜凪の髪は色素が薄く、癖っ毛な筈だ。このような癖の無い、きめ細かな髪質はしていない。


 むしろ、この綺麗な黒髪は、あの時一緒に落ちた瀬織さんの……ようで……


 疑念を抱いた途端、一気に不鮮明だった視界が開けた。

 正体不明の黒髪を掬っている自分の腕は……あまりにも白く、細い。


「あ、あの!」


 自分の口から出ると聴こえ方が違うため、気付くのが遅れたが……そういえば、この声も聞き覚えがある。

 いや、そんなバカなと思いながらも、震える声で、どうしたの、と首を傾げる看護師のお姉さんに告げる。


「か、鏡を……」

「あ、そうね、気になるわよね。女の子だもの。はい、これでいい?」


 そう言って、卓上から鏡を取って渡してくれる看護師のお姉さん。

 ありがとうございます、と会釈して受け取ったそれを覗き込むと、そこには。


「そんな……嘘だ……」


 呆然と呟く。

 信じたくない思いから、こてん、と首をかしげる。

 鏡の中で同じ動きをした女の子。わずかに寝癖のついた髪が、それでもさらりと流れた。


 こちらを覗き込んでいるのは……想いを告げ、恋破れたばかりの初恋相手である少女の顔がそこにあった。


 看護師のお姉さんが「可愛い子は良いわねぇ……」と生暖かい目で見て退室したのも気付かずに、呆然とする。

 しばらくして、あまりのことにフリーズした頭が再起動した。


「……いや、無い無い」


 鏡を一度下ろす。

 深呼吸をする。

 そして、もう一度鏡を覗き込んだ。




 うわ、顔小さい……

 睫毛、長いなぁ……


 今まではどうしても照れが入ってしまって直視出来なかった事もあり、こうしてまじまじと顔を細部まで見る事は無かった。


 分かっているつもりだったけれど、こうして見るとやはり美少女という言葉がよく似合う。

 そんな場違いな事を、ペタペタと鏡中の女の子の頰に触れながら思う。


 そんな事を、真っ白な頭でしばらく現実逃避気味に考えた後……健全な男子の思考が行き着く先として、当然のように次に視線が向かうのは――存在を主張する、胸の二つの膨らみ。


「い、いやいや……ダメでしょ、それは……」


 そう自分に言い聞かせて必死に目を逸らすも、一度湧いてしまった興味は抗いがたい。


「……ちょっとだけ。うん、ほんのちょっとだけだから」


 結局……この欲求には抗えず、おそるおそる、自分の胸へと手を移動させるのだった。




 ――うわー……うわー……




 夜凪の語彙力が死滅する。それくらいの感動が、そこにあった。


 この小さな手には収まりきらない程にある、柔らかなその膨らみ。それを、そっと手で包み込み、軽く押してみる。


 その瞬間の夜凪は、魅了されてしまったと言っても過言ではなかった。


 誰かが着替えさせたらしい、薄桃色をした薄手のパジャマ。その下には透けるような薄さのキャミソールしかなく、ブラジャーは着けていなかった。


 そのため、合わせて薄衣二枚くらいしか隔ての無い、ダイレクトな感触。

 ふにん、と手に伝わる、弱々しい抵抗がある柔らかな感触。掌にころころと感じる小さくやや固めの突起の感触が、アクセントになって心地いい。

 試しに両手の五指に力を込めてみると、手の動きに合わせ自在に形を変え、パッと離すとほよんと震えて元どおりになる。

 弾力は思っていた程ではなく、適度に指を押し返しながらもフニフニと沈んでいく感触が、驚く程に心地いい。

 何より……暖かく手が包まれるようなその感触は、抗いがたい誘惑となって夜凪の手を捕らえ離さなかった。


 しばらく堪能してしまった後……自分の口から漏れた「んっ……」という艶っぽい声に、ハッと我に返る。


「な、なんだこれ……僕、瀬織さんになってる……?」


 罪悪感と共に力無く呟くと、許容範囲を越えた異常事態に考えるのも嫌になって、ずるずるとベッドへ倒れこむのだった。






 ――その後、色々とあった。


 困ったのは、先の違和感によって体が上手く動かせない事だ。

 申し訳なく思いながらナースコールして来てもらった看護師さんに手伝ってもらって、どうにか立ち上がれはしたものの、上手く立っていられずふらついてしまう。


 突然の変化に頭が付いてきていない。ただ女性の体になっただけ……とはとても言えなかった。


 骨盤の広さ。

 股関節の位置。


 そういった男女の骨格の元々の違いから来る、経験と違う変な場所から体が動くぎこちなさ。


 それに、全体的に骨も筋肉も細く頼りない。一歩踏み出すごとに、折れてしまうのではという不安が付き纏う。


 だというのに、厄介な事にこの体の少女は、非常にスタイルが良い……脚が長いのだ。

(決して夜凪が短足という訳ではなく、比較対象が悪すぎるだけである)


 余分な脂肪が無いのも相まって、星那の体は元の夜凪の体との身長比に対し重心が高い。感覚的には下駄を履いているようなものだ。


 そこに追い打ちをかけるように立ちはだかる、全身がダウンサイジングしている事による違和感。


 踏み出そうとしていた位置に足が届かず、ふらついたところで慌てて手すりを掴もうとして、今度は届くと思っていた手が空を切る。


 幸いその時は背中から壁にもたれかかる事で転倒は避けられたが、その様子をハラハラと見ていた老婦人が見かねて杖を貸してくれようとするのを、慌ててお断りした。




 加えて困ったのは、トイレだ。

 女性用トイレに入るのはなんだか憚られ、かといって今の星那の姿で男性用トイレなどもってのほか。


 葛藤の末、妥協案として多目的トイレに入ったはいいが、次に待ち構えていたのは女の子の下着。これを下ろさなければ用を足す事が出来ない。

 だが決壊の時は刻一刻と迫っているし、今はこの尿意にほとんど抗えないという予感が、ろくに力む事も出来ず、下着のさらに下、下腹の奥で僅かな決壊が発生した嫌な感触から察してしまう。


 粗相をするよりはと、片想いの女の子の、一番大事な場所であるを勝手に見るという罪悪感を押し殺しながら用を済ませるも、男の時と全く異なる感覚に戸惑う羽目となった。




 それに……最悪だったのが、本来取材禁止を言い渡されているはずの報道関係者が、何故か夜凪が……星那という少女が目を覚ましたのを聞きつけて押し掛けてきた事だ。


 トイレから戻ると、病室の前で待ち構えていた彼らは戻ってきた少女の姿を見るなり、まるで禿鷹のように群がって来た。


 慌てて病室に逃げ込み、扉を閉めようとしたにもかかわらず……隙間に足を突っ込み強引に中へ追いかけて来る記者たち。

 さすがに恐怖心を感じ、ベッドに飛び込んで布団を被り、一心不乱にナースコールを連打したのも致し方ないだろう。


「なんで男の子と一緒に立ち入り禁止の屋上に居たの?」

「一緒にいた男子生徒や、加害者である上級生との関係は?」

「これまで、男性との交際経験は何人程度ありますか?」


 彼らの中では果たしてどのような淫猥なストーリーが組み上げられているのか。

 あまりにもしつこい彼らが薄ら笑いを浮かべながら夜凪に投げかける、未成年の少女に向けるものとしては不適切な、その奥に下卑た悪意を感じる質問の数々。


 異常を察し駆けつけた医師たちが彼らをつまみ出すまで、ひたすら悔しさを噛み締めながら、布団を被って無視し続けていた。






 そうして四苦八苦し疲弊している間に、連絡を受け駆けつけたらしい両親……もちろん、夜凪が見知らぬ星那の両親と、担当医の人が来て、事実を説明してくれた。


 とりあえずわかった事は、夜凪と星那は、やはり学校の屋上から転落したのだという事。


 あの後、学校は騒然となり、放課後部活に勤しんでいた生徒たちもみんな帰宅するように言われたらしい事。


 そして……三階建ての校舎の屋上から落下した筈の夜凪たちが、奇跡的に無傷であったという事。


 にもかかわらず、丸一日目覚めなかった事で、周囲に多大な心配を掛けたという事だ。


「この度は、うちの息子が大変申し訳ない事をしまして……危うくご息女に取り返しのつかない怪我を負わせてしまうところだったという事で、本当に申し訳ありませんでした」

「い、いえ……うちの娘も立ち入り禁止場所に入り込んでいたという事ですし……」


 頭を下げ丁寧な謝罪をしている仕立ての良いスーツ姿の男性は、教育委員会のお偉いさんという噂だった、あの星那に言い寄っていた先輩の父親。


 すでに示談も済んでいるらしく、なんでも、今回の事故についての責任を感じ、検査や入院の費用を負担してくれる事になったという事らしい。

 予想に反してまともな人であることに夜凪が驚いている中で、親同士が謝罪しあっているのをボーっと見つめていた。


 もう一人の仕立ての良いスーツを纏う、ロマンスグレーというのが相応しい容貌の初老の男性が、父親……瀬織才蔵。

 そのすぐ横にピッタリと寄り添っている、男性よりはひと回りかふた回り下の年齢に見える綺麗な女の人が、母親……瀬織杏那。


 当然ながら、今病室にいる両親というのは、夜凪の両親ではない。星那の両親だ。

 自分からしてみると赤の他人同士の会話は、頭の中を滑っていく。


 色々と、あり過ぎたせいだろうか。

 知らない大人達の会話は退屈で、目蓋が重くなってくる。


 やがて……限界を超え、ふっと眠りに落ちるのだった。



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