7

 その日はそのまま授業をさぼって、家に帰った。失神した澪月をほかのどこに連れて行けるあてもなく、自宅にもどる。むろん、父親は仕事で不在だ。

 学校への連絡をどうすべきか、いや、それよりも警察に知らせるべきか、逡巡したものの、相手にされるはずがないことはおれにも理解できた。

 もっとも、気を失った女生徒をおぶって1キロメートル以上歩き続けたのに、どこにも通報されることがなかったのは奇跡か――あるいはマナによる遮蔽が続いていたのか。人は、ありえない光景、あってはならない情景は、たとえ網膜に映ったとしても無視できるものなのだ。

 おれの部屋に布団を敷き――結局二日連続してここに澪月を寝かせることになった――濡れタオルで顔をぬぐってやる。

 カルコスとの戦いでつけられた傷の手当ても必要だとは思ったが、服を脱がせるわけにもいかず、出血も止まっていたのでとりあえず放置した。黴菌がそこから入ったらまずい、という認識はあったが、病院に連れて行くという発想もおれには出てこなかったのだ。

 ただ、それにしても――

 あの後のハインリヒの行動には圧倒されっぱなしだった。

 カルコスの胸部を貫いた腕を無造作に引き抜くと、左手に掴みとった心臓を――まだビクビク動くそれを――握りつぶした。ぐしゅっ、といういやな音は、たぶん今後、トマトを見るたびによみがえる嫌な記憶として一生涯刻みつけられるだろう。

 だが、握りつぶしたその掌には、肉片ではない、別のものが載っていた。

 おぼろに光る、高坏のようなもの――そんなふうに見えただけで、ほんとうは実体などないのかもしれないが――

 ハインリヒはその杯を見つめ、それからゆっくりとその中に満たされたものを飲み干した。

 血液なのか――それとも、もっと純度の高い生命力のネクタルなのか――それを身体に入れた瞬間、ハインリヒの身体が巨大化した――ように見えた。マナが、彼の周囲で渦をなして、流れ込んでいくような。

「なるほどな。そういうことか」

 何か悟ったかのようにつぶやいたハインリヒの左手にすでに杯はなかった。

 カルコスの姿が薄れていく。溶けていく。存在そのものが希薄になって――そして――

 いなくなった。ただ、服や腕時計、靴などがオブジェのように残されているだけだった。

 ハインリヒは、路面に倒れたカルコスの遺物にそっと頭をさげた。

 それから、おれに目を向けた。いや、おれの腕の中の澪月にだ。

 カルコスに向けたのよりも、もっと切ない、悲しげな視線だった。

 歩を進めかけ、そしてようやくおれに気づいて足をとめる。

「おまえ、名はなんという」

「うるせえ……人殺しやろう」

 おれはかろうじて声を出した。恐怖で声がかすれたらどうしようと思ったが、自分でも驚くくらいふてぶてしい声だった。といって、姿勢は完全防御100パーセントなのだが。

 ハインリヒはおれの非難を完璧に遮断した。そして問う。

「おまえは、澪月の使い魔だな。澪月が選んだのか」

「ちげえよ。おれはそんなんじゃ、ねえ」

 虚勢の燃料はもうほとんど尽きかけていた。それでも、こいつの前でしっぽを巻きたくはなかった。カルコスの時よりも明確にそう思った。

「保護者、みたいなもんだ。こいつは、遭難者だからな」

 サポーター、という言葉が頭に浮かんだが、それは使わなかった。それを口にしたときの澪月の表情が脳裏に浮かんでしまったからだ。そして、その後の泣き声――

 カエリタイ……

「そうか」

 納得したのか、安心したのか、ハインリッヒのまとう空気がやや柔らかくなった。

「それでも、訊いておこう、おまえの名前を」

 自然な訊きかただった。旅先で知り合った他校の生徒に何気なく質問するような。

「石澤功武だ――って、人に名前を訊くときはっ」

 おれも地の口調に戻って思わず答えていた。

「失礼、イシザワイサム。ぼくはハインリヒ・エアハルト。エリュシオンの卒業代表選抜クラスの学生総代を務めている。澪月雫とは同級生だ」

 だろうな。今までのやりとりでだいたいわかる。

「澪月の聖杯も貰うつもりだったが、気絶している女の子から大切なものを奪うわけにはいかない。出直すよ」

「み、妙な言いかた、するんじゃねえ!」

「そうかな? こちらの世界の言葉には通暁していなくてね」

 少し困惑したようにハインリヒは言った。発音は完璧なのに、かえって違和感がある。見た目が明らかな白人――金髪碧眼なのに、語彙がやや古いせいだろうか。

「澪月に、伝言しておいてほしい。ぼくが貰いうけにくるまで、大切に守っていてほしいと」

「だからっ、それが――」

 食ってかかろうとしたときだ。ハインリヒの周囲に風が起こり――錯覚だ、マナが揺らいだのだ――その姿は消え去った。

 と、同時に周囲を覆っていた無音の壁が薄れていき、校庭からは体育教師の吹き鳴らす笛の音が聞こえてきた。

 ちらほらと通行人の姿が見えるようになり――そのうちの一人がこちらに近づいてきた。二十代前半の、落ち着いた感じの女性だった。OLなのか、地味なスーツを身につけている。

 おれはあわてた。おれは失神した澪月を抱きかかえていて――道路にはカルコスの遺品が散乱している。はでにぶちまけられたはずの血痕はすでに薄れ、激闘の痕跡もないものの、やはり異常な光景だ。警察沙汰になってもおかしくない。

 だが、近づいてきた女性は無言でカルコスの遺品を集めるはじめる。大切なものを見逃さないように、ていねいに拾い上げていく。そして、立ち上がった。小さく頭を下げたような気がした。目尻に涙が光っていた。

 女性は停めてあった車に乗り込んだ。女性が好みそうな軽自動車だ。

 走り去っていく。まるで、ありふれた光景だった。彼女がカルコスをサポートしていたのだろうか。

 カルコスは突然現れ、そして消えていった。だが、彼にもあったのかもしれない。この世界にたどりついてからの「日常」が。そして、その「日常」はあの女性とともにあったのだろう――おそらく。


「日常、か……」

 思わずつぶやいた。

 そんなものが懐かしく感じられるようになるなんて、想像さえしなかった。

 何の価値もないゴミのような世界。その認識を改めるつもりはないが――

 澪月の寝顔を眺める。異世界にまでやってきて、クラスメート同士で殺しあう、なんて状況に比べれば、おれが経験してきた現実など、生ぬるい、日だまりのなかのビニールプールみたいなものだ。

 ほんとうの海は、波がうねり、深く冷たい水しかない世界だ。泳ぎ続けなければ死ぬしかない。

 だが、どうにも頭の中でつながってこないのだ。澪月がこれまで見せてきた表情と、ハインリヒとカルコスが繰りひろげて見せた戦いとが。

 けっきょく、その夜も澪月を部屋に泊めた。

 親父は何も言わず、ただ、ピンチを切り抜けたクローザーみたいな細かいガッツポーズを連続して見せた。

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