5

 突如、音がなくなった。

 いや、そうではない。自分の息の音、謎の人物のたてる足音は聞こえてくる。周囲からの音が途絶えたのだ。

 エレベータのなかにいる時、突然動きが止まり空調も切れたとしたら、こんな感じかもしれない。

 密室。

 おれは周囲を見渡してみる。なにも変わらない――校庭では体育の授業がおこなわれている――ただし、音が聞こえてこない。そして、走る生徒の動きが妙にゆっくりとしている。まるで、違う時間の流れにのってしまっているかのような――

 おれは確信した。校庭の生徒たち、教師たちから、いま、おれたちの姿はきっと見えていない。

 気づかないのだ。

 そこにあるものを、脳が拒絶している。

 だから、校門前でおれと澪月が棒立ちになり謎の人物が近づいてくるのをただ見つめている――その状況も関知していない。

 そいつは、黒髪だったが、明らかに外国人の顔だちで、背がやたらと高かった。二メートルとはいわないが、一九〇以上あるんじゃないだろうか。彫りが深いというより、存在感のある鼻とあごをしていた。

 着ているのは黒の詰め襟。黒森学園は男女ともブレザーだから、うちの生徒ではない。だが、同年代ではあるのだろう。

 澪月がおれの袖をつかんでいた。おびえている。こんな表情を見たことは――つきあいが短いせいもあるのだろうが――もちろん初めてだ。

「……カルコス、あなたなの?」

 つぶやくように言う。

 知り合いなのか。試験といったな。いったい何が起こっている? なぜそうおびえている?

「おれは関係ないだろ」

 問いたいことはいくつもあったが、口をついたはその言葉だった。

 澪月がおれの袖を離した。

「そ……そうだよね……ごめんね。結界に入っちゃったけど、終わったら出られると思うから――離れてて」

 そして、ためらいながらも、はっきりとした意志のこもった一歩を踏み出す。おれを背中にかばうように。

「お、おい、澪月」

 まるでケンカでもするみたいじゃないか。試験なんだろ、魔法使いになるための。空を飛ぶ魔法を使ったり、火の玉を出したり――そういうことをためすんじゃないのか?

 言葉は出てこない。かわりに一歩さがる。事態を把握できていないおれがどうこうできる局面じゃないんだろう――そう自分のなかで結論を下す。

 澪月と、外国人の男が対峙していた。その間はおよそ十メートルほど。

 ただ――澪月は相手との距離を詰めようとしているのに対し、男はそれをあざ笑うかのように宣言する。

「おっと――澪月、それ以上近づいたら、仕掛けた、とみなすぜ。まだ、始まりの時間じゃないが、反撃は正当だ」

 意外に流暢な日本語だ。だが、瞳の色はグリーンに近い。肌は銅の色にやや近い。

「カルコス、そういうつもりはないわ。ただ、信じられないだけ。試験って……その……ほんとうに?」

 澪月が困惑を隠さない口調と表情で呼びかける。

「おまえも連絡は受けているんだろう? 監督官からの。時間のほうは急だったが、場所はここと定められていた。わざわざ出向いてきたんだ。礼のひとつでも言ってほしいもんだぜ」

 男は制服のホックを外しながら口元をゆがめる。なんとはなしに、いけ好かないやつだ。澪月への口調もなれなれしいというより、粗暴だ。

「言っておくが、おれはおまえに恨みなんかない。決めたのはエリュシオンだ。おれも驚いたが――そういうルールなら仕方ない。おまえも納得しているだろ? もとより、この試験に参加できるような成績じゃなかったんだからな」

「納得なんか、してないよ。どうして、あたしたちが――そんな――試験だからって――おかしいよ」

「そういうことはおれじゃなく、監視者に言えよ。あるいは優等生のハインリヒかマリアにな――でも、あいつらも、おれと同じことをするだろうさ。なにしろ、やつらは上に行くためならなんだってするやつらだからな――おっと、そろそろ時間だ」

 言いつつ、制服の上着を脱ぎ捨てる。上半身は裸で、細かい文様の入れ墨がびっしりと刻まれている。あれは茨か?

「いくぞ、澪月! 降参するんなら、とっとと聖杯を差し出すんだな!」

「待って、カルコス! 話し合いましょう! みんなと落ち合って、一番いい方法を――」

 澪月が声を高める。男は聞かず、薄笑いを浮かべながら澪月との間合いを詰める。

 女を殴る気か? 知り合いみたいなのに、突然にか?

 わけがわからぬまま、それでも澪月に向かっておれは歩を向けていた。

 男が自分の胸元を両手で押さえた――いや――つかんだ。何をだ?

「危ないっ!」

 振り返った澪月の顔がおれに向かって接近した。軽い衝撃があり、おれの身体は後方にはねていた。澪月に突きとばされたのだと悟った瞬間、鋭い悲鳴とともに、澪月がおれの上空を舞っていた。

 身体には茨のツタがまきついている。

 鋭いトゲが生えたツタだ。そのトゲが澪月の腕、胴、脚に食い込んでいる。

 ぱぱぱ。

 頬に水滴を感じ、ぬぐうと手の甲に赤いものがついていた。

「澪月!」

 叫んでいた。

 視線をめぐらす。ツタが蠢く、その根源を見る。男が笑っている。ツタは、男の上半身から――その入れ墨部分から生えだしていた。

「紋章魔法だ――どうだ? こういう使い方もできるんだぜぇ!?」

 男は澪月に向けて声をぶつけていた。おれのことは眼中にないのか。

 肌に刻まれた入れ墨から、茨のツルが生えだしている。それはどんどん長く伸びて、澪月の身体を高々と差し上げていく。

「おまえのような劣等生は、最初っから数合わせだったんだよっ!」

 澪月の悲鳴は続いている。ツタがのどに巻きつき、圧迫されると声質が変わった。空気がただ漏れるだけのひしゃげたものなる。

 それでも、何か言おうとしている。

 なんなのか。

 おれにはそれが聞こえた。ほとんど耳元で囁かれたように感じた。

 ――やめ、ようよ……ともだ……ちどうし、で……こんな……

「聖杯をよこしな! おまえの魔力の源泉――マナの杯をおれに捧げろ! そうしたら命だけは助けてやる!」

 身体からなおも生え出すツタを蠢かせながら、男があざ笑う。

 交わされる言葉はほとんど意味不明だ。だが、ひとつだけはっきりしていること――それは、澪月には戦意がないということだ。ただ一方的に責め立てられ、追いつめられている。

 おれはケンカが苦手だ。というより争いそのものが……濃密な人間関係をはらんでいるようで嫌いなのだ。

 ましてやこんな非常識な戦い、無視してしかるべきだ。そんなことはわかってる。だが――

 空中に差し上げられた澪月の身体から力が抜け、両脚がだらしなく開いた。

「ひゃははあ! パンツ丸見えだぜ、澪月……小便もらしてんじゃねえか!?」

 ひくん、澪月の腰がはね、両脚を閉じようとする意志が垣間見える。

「だめだってぇ。降参しろよぉ?」

 ツタが澪月の両足首に巻き付き、むしろ開脚を強制する。

「くかかっ! すげえもんだなあ、コッチは。マナがいくらでも流れ込んでくるぜぇ! おれの紋章魔法を外法と呼んだやつら――ハインリヒやマリアに見せてやりてえぜ」 

 ――いって……な……マリアも……ハインリヒも……そんな……

 苦しげな澪月の思考――おそらくは一種のテレパシーなのだろうが――おれにも伝わってくる。マナという触媒を通じての伝達、なのだろうか。

「正統派の魔法使いどもは腹んなかじゃおれたち獣人の末裔を蔑んでやがるのさ! おまえだってそうなんだろうが! 劣等生のくせしてよぉ!」

 男の彫りの深すぎる顔に悽愴な表情がよぎった。心なしか牙が伸びたようなーー

「おらああ! 負けを認めろっ! おまえの杯をよこせ! おまえの力なんて、呑みこんでもたいしたこたあねえだろうが――霊的識域(ゲイン)は上がるだろうからなぁ」

 茨のツタが澪月の首を締め上げる。

 ――い、や……ぜった……い……や

 白目をむいた澪月の目尻から涙がこぼれ、よだれが唇の端から伝い落ちる。

 完全に弛緩した太股が残酷なまでに広げられる。

 たぶん、澪月が「まいった」と言えば、攻撃はやむのだろう。その、何かはわからないが「杯」なるものを渡せば――

 なぜ抵抗するのか。勝てっこないのに。

 いったい何を守ろうとしているのか。あんなみっともない姿をさらして――

 ――まほ……つか……なくなる……かえれ……なく……

 澪月の下着の色が変化する。しみが広がって――

 ――おうち……に……かえ……た……

「おああああああっ!」

 おれは男に向かって飛びかかっていた。

 男はおれという存在を完全に無視しきっていたのだろう。そもそも、はなから視界に入っていなかったかもしれない。

 それでも、おれの接近を察知してからの対処は早かった。

「ん? 異界のゴミか」

 左手を伸ばす。その上腕部からツタが伸び出す。顔面にたたきつけられる。瞬間、意識が飛びかけた。

「澪月ぃ、あっさりとこっちのやつに正体ばれちまったのかぁ――しょせんは劣等生だな」

 おれの視界が空を向いていた。要するに、仰向けに倒れていた。後頭部を打ちつけたせいか、すぐには立てない。

 その視界のなかで澪月が逆さになっていた。頭を下に、長い髪を下にたらして、苦悶の表情を浮かべて――おれを見ていた。

 言葉をマナに乗せる余力もないのか、声は聞こえてこない。それでも、澪月は目でおれにわびていた。

「さあて、澪月の使い魔くん、どう料理してあげようかねえ?」

 使い魔だと――なんのことだ。

「契約したんだろうが、澪月と。まったく、乗る馬を間違えたな。こんな緒戦でしょんべんもらして敗退するような劣等生と組むなんてよ。ったく、こんなのと同じ教室で1年も学んでたなんて認めたくもないぜ、ああ?」

 男は――カルコス・サープラス――エリュシオンでの澪月のクラスメートは、そういって歪んだ笑みを浮かべた。

「澪月。十秒後、このガキを殺す。いやなら、負けを認めて聖杯をさしだせ」

 おれの目の前にツタが静止した。先端がとがっている。まるで金属のような光沢を見せている。

「なんだかんだいって、同級生どうしで殺し合うのはさすがに抵抗がある――が、たがいの使い魔を壊すってんなら話は別だ。そういうルールだろ。おれぁ、やるぜ? どうせ、異世界のでくのぼうだ」

 カルコスの声に殺意がこもった。おれはぞっとした。カルコスの目には、おれは人の形をした何かとしてしか映っていない。人間だとおもっちゃいないのだ。その口調と、何より、マナを通じて伝わる小刻みな吐息でわかる。

 ひっ、ひひ、ひっ……

 笑っていやがる。

 ――ひゃめ……

 逆さづりの澪月が声なき声をあげる。

「降参だな?」

 勝ち誇ったカルコスの声。おれは、目前の「切っ先」を凝視したまま、身動きもできない。

 澪月が目を閉じた――

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