An Unexpected Turn

「じゃあ僕はここで」



 1週間後の月曜日、先週と同じ場所で僕は嘉一に別れを告げると、嘉一は呆れ顔でこちらを見て言った。



「またかよ……」


「タバコを吸いに行くんじゃないよ、もうやめたし」


「え……?」


「もうやめた」


「まじかよ……」



 嘉一は口元に手を当てて、何かを思い返しているかのように斜め下を向いている。



「確かに思い返してみれば吸ってないなここ数日。なんで急にやめたんだよ」


「タバコ代って高いなーって思ってさ。それに希翼も、肺が良くないみたいだし」



 嘉一はため息をついた。



「……やっぱりエバに会ってたんだな、嘘までついて」



 何となく棘のある言い方にムッとする。



「同級生の見舞いに行って何が悪いの?」


「……これからまたエバに会いに行くのか」


「そうだけど。何?」


「開き直ってんじゃねーよ。あぁ、お前見てるとまじでいらいらする」



 嘉一は僕の返事を聞かずに駅の方に歩いて行ってしまった。

 何イライラしてんの、意味わかんない。反感の気持ちを抱きながら僕も病院の方に歩きだす。もうあんな奴放っておこう。



 ポケットに手を滑らせる。本来、そこにはタバコのケースが入っていたところだが、今は何もない。不思議なものだ。禁煙を決意してからこんなにもあっさりとタバコをやめられるなんて。

 確かに初めの3日は辛かった。どこか落ち着かない気持ち、頭の中をぐるぐると駆け巡るタバコの誘惑。しかし、そのたびに希翼の顔が浮かび、彼のためならという思いが意外なほど強く、我慢する力に変わっていった。その後、1週間が経過し、身体の欲求も徐々に和らいできたように思う。

 1週間タバコを吸わないだけで、朝の目覚めが以前よりクリアで、空気がより新鮮に感じられるようになった。食事の味も少しずつ変わり始め、これまで気づかなかった料理の微妙な風味が口の中で踊るようになっていた。そして、この変化を僕自身が楽しんでいた。



 喫煙所を華麗に通過して病院の中に入った。先週と同様、朝の病院は静かだった。319号室まで来て、深呼吸をしてドアをノックして開ける。希翼はベッドに横になって目を閉じていたが、ドアを開いた音で目を覚ましたようだっだ。



「あ、ごめん。……寝てた?」


「俐一の夢を見てた」



 希翼はおだやかな表情をしている。



「え、どんな夢?」


「気になる?」


「うん」


「俐一と一緒に昼寝する夢」


「なにそれ」



 くすくすとした笑いが漏れる。昼寝、かぁ。その言葉に誘発されるように意識がぼんやりとしてきた。大学院生をしながら深夜のバイトをしているんだ。体の疲れや、禁煙の影響もあるかもしれない。反射的に体を伸ばすと同時に大きなあくびがこみ上げてきた。



「眠そうだね、俐一。寝ていって良いよ。正夢にしてくれる?」



 正直、悪くない提案だった。

 病室には背もたれのある椅子が置かれている。ここでなら、少しの間、目を閉じて休憩しても良いかもしれない、なんて思ってしまうが、本来家を出た目的を僕は思い出した。



「これから講義が……いや、でも今日のは出なくても良いやつだしな……ちょっとだけなら……」


「ここ」



 希翼の手は、ゆっくりとベッドの片隅を示し、柔らかな毛布がかかっているその部分を撫でるようになぞった。その動きに思わずドキッとする。



「一緒に寝る……?」


「ぁ、え……」



 上擦った声が漏れる。



「冗談だよ。……枕くらいなら貸してあげる」


「あ、ありがとう」



 安堵しながら枕を受け取った。



「スペース空いてるなら、少し使わせてくれるかな」



 僕は椅子をベッドの隣まで運び、ベッドの空いているスペースに枕を置いてそこに頭を乗せるような体勢で椅子に腰掛けた。



「髪、綺麗」



 細めの手が僕の髪に触れた。頭皮に微かなくすぐったさと、温かさを感じる。そしてわずかに感じる希翼の香りが鼻をくすぐった。その安らぎの中、自然と心が落ち着き、ゆっくりと瞳を閉じた。



 病院から出たのは昼だった。

 体勢はあまり良くなかったのにぐっすりと眠ることができた。授業をサボって昼寝だなんて……まぁ、そんな日があっても良いか。少なくとも授業よりは何倍も心と身体が満たされたことは間違いないのだから。



 近くの河川敷に続く階段のところまで来ると、僕は一息ついた。空は曇り。川の色は地味。素朴な景色が瞳に入ってくる。それはまるで僕が描く風景画のようにみえる。

 河川敷へと続く階段を下り始めたが、目に映る景色になんだか嫌気がさし、もう帰ろうと踵を返そうとしたその時のことだった。不意に背中に力が入る感触があった。強い力で僕は前に押し出された。視界がグラつく。次の瞬間には僕の体は階段の角に叩きつけられていた。息もできず、無音の声が口から出た。

 硬い地面に打ち付けられた衝撃で意識が遠のいていく中で、眼球を動かし、僕を突き落とした人物を見ようとするが黒い影は住宅街の方に消えていった。

 そのまま動けずにいると、じんじんとした痛みが打ち付けられた箇所から広がってきた。特に腕に顕著にその痛みが現れた。苦痛に顔を歪ませながら何とか立ち上がり、腕の方を見ると皮膚が剥け、血がにじんでいた。幸い、折れては――いないと思う。



 一体誰がこんなこと……。

 無差別ではなく、僕を故意に狙ってきたのだとしたら――思い当たるフシが一つあった。俊介だ。

 誰かに恨まれている。それを身をもって体験した僕の心境は決して穏やかやものではない。痛みと同時に恐怖や不安が襲ってきた。

 


 家に帰り、とてもじゃないが働く心境になんてなれない僕はバイトに休みの連絡を入れた。家にあった薬箱で傷を消毒し、腕に包帯を巻いてリビングに横になる。何もやる気が起きずにじっとしていると、やがて夜になり嘉一が帰ってきた。



「鍵開いてたから泥棒に入られたかと思ってビビったんだけど」



 嘉一は帰るなり不機嫌そうに言うと、着ていたシャツを脱いでこちらを見た。



「今日バイトじゃなかったの?」


「休みにした」


「なんで?」


「具合悪くて」



 嘉一は、熱でもあるのかとこちらに歩みやってきたので腕の包帯を隠すように手で覆うが時すでに遅しだった。



「腕、どうした」


「包帯してる嘉一がなんかキマッてたからお揃いにしてみた」


「オシャレで包帯してんなら中2からやり直せ」


「あ、あはは……」


「で、何でこんなことになってんの」


「階段からこけてさ」


「どこの階段だよ」


「……河川敷の」


「ちょっと見せてみ」


「いいから!」



 嘉一が腕に手を伸ばしたので咄嗟に振り払った。惨めだと思われたくない。



「なんで拒むんだよ」


「……」



 嘉一はしばらく無言で僕を見つめ、その後ゆっくりと言った。



「誰かにやられたのか?」


「……」


「誰」


「……」


「おい」


「しつこい男は嫌われるよ」


「隠されると気になるだろ」



 嘉一は仁王立ちになっていて、引いてくれる気配はない。仕方なく起こった出来事を正直に話すことにした。



「……河川敷で転んだのは本当。でも、誰かに背中を押された」


「なんだそれ、警察問題だろそんなん。大丈夫なのかよ、知らない人に押されたの?」


「顔は分からなかった。でも……心当たりはある」


「誰」



 口から出かかったところで思考が駆け巡った。もしここで俊介の話をしたら……?

 正義感の強い嘉一のことだ。きっと1人でも殴り込みに行くだろうと予測する。嘉一が対人戦で負けることなんてまずないんだ、俊介しかり、俊介の後ろ盾になっている人たちにも掴みかかっていってボコボコにするかもしれない。しかし、個々には力で勝ててもお金の力に押されることはある。いくら強い嘉一でも危険な目にあうことは大いにあるだろう……。でも彼はその正義感できっと戦いつづける。

 僕はそんな勇気はない。彼は僕にないものを持っている。このままだと嘉一だけが正義のヒーローになって、僕はただのかませ犬じゃないか。そして、そのまま詩音を取られてしまうかもしれない。そんなの嫌だ。あぁ、自分の無力さへの苛立ちが込み上げる。



「もう! 言ったところでなんになるわけ? 放っておいてよ」



 乱暴に言うと、嘉一に背を向けた。



「心当たりあるとか言われたら普通聞くだろ……」


「詮索されたくない」



 僕は立ち上がって自室に入ると、傷のついていない方の手でドアノブを握ると派手な音を立ててドアを閉めた。

 その場で、溢れ出る色々な感情をぐっと飲み込んで息を整えていると、ドア越しに嘉一の声がした。



「なぁ、飯食ったのか?」


「食べてない」


「ついでにリーの分も作るけど」



 どうせ鶏肉だろ、筋肉バカめ。



「いらない」



 嘉一なりに僕のことを気遣っているのが分かる。感情の整理ができず、ぶっきらぼうな言い方になってしまう自分自身に嫌気がさす。なんて情けないんだろう。

 自室のベッドに充電の切れかけた携帯を乱暴に放り投げると、ちょうど着信音が鳴った。画面に映るのは詩音の名前だった。詩音のことを思うと、俊介の顔がよぎる。僕は心も痛んでいた電話に出る気にはなれず、ただただ着信音が鳴り止むのを待った。

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