Carelessness
翌々日のバイトは休まずに出勤した。
ただでさえ白黒テレビの世界で過ごしているように思われた日常が、あの事件の後はさらに砂嵐が液晶を覆ったかのように感じられた。
身体はまだ痛んでおり、心も晴れやかではなかったが、カクテルを振る作業は可能だ。家賃分はしっかりと稼がなければならない。実際、バイトで接客に集中することで、余計な考えを振り払えるのは救いだった。
その日のバーは、いつもより賑わっていた。高級なウィスキーやブランデーの瓶が照明の下で輝き、柔らかいジャズのメロディが室内に流れていた。天井から垂れ下がるオレンジ色のライトが、客たちの顔を優しく照らしている。
常連客である黒いハットをかぶった男性は、いつものようにカウンターの端に座り、深い瞳でグラスの中身を凝視していた。
そこに、来店の合図である鈴の音が響く。エレガントな赤いドレスを着たユカさんと、彼女の息子と思わしき制服を着た少年が店に入ってきた。黒いハットの男性の隣の席にユカさんと少年は腰掛けた。
僕はおしぼりをユカさんの少年の席に置くと、黒いハットの男性は「おととい来てなかったね」と声をかけてきた。
「あぁ、ちょっと体調悪くて」
「もう大丈夫なの?」
「はい、なんとか。ありがとうございます」
愛想笑いで返事をする。
……話したことはなかったけど、シフト、覚えられていたんだ。まぁ、こんなに通っていたら覚えるか。
ユカさんは男と僕の話を聞いたのか、僕の体調を心配してきたので、これも愛想笑いでごまかした。聞くところによると、制服を着た少年はやはりユカさんの息子さんで高校2年生だそう。しばらく世間話などをしていたが、じきにユカさんの知人らしきグループが来店すると、彼女はそちらの席へと移動した。すると、残された息子は明らかに場違いな気持ちからか、カウンターで少し不機嫌にうつむいていた。
高校生をバーに連れてくるなんて……と内心思いながら、少しの同情から彼の前にオレンジジュースを置いた。彼は目を上げ、「ありがとうございます」と小さな声で言うと、ストローに口を寄せた。
それにしてもこの少年、かなり顔が整っていると思う。ユカさんにはあまり似ていない。こんなにかっこよければ絶対モテるだろうな、と思いながらグラスを拭いていると少年は口を開いた。
「あの……こういうところって恋愛相談にも乗ってくれたりするんですか」
予想外の問いかけにグラスを拭く手が止まる。
少年の手は硬くグーで握られており、少し緊張しているのが分かった。僕はそんな彼の緊張を拭うようにして笑顔で返答する。
「話を聞いてあげることはできるよ。どうしたの、何か悩んでるの?」
「最近振られてしまいまして……」
彼は目を伏せながら言った。
「あらまぁ」
かなりの美男子なのに、失恋することなんてあるんだ。……まぁ、あるか。
「なんで振られちゃったの?」
彼はちらっと自分の母親の方を見てから言った。
「……俺が意気地なしだからです」
「意気地なし?」
「彼女と……手を繋げなかったから」
それはウブだから……? なんて軽く返答しようとしたが彼の表情は重かったので、返事につまってしまった。
「……嫌だと思って。それで、繋いできた手を咄嗟に離してしまって」
「あはは、緊張しちゃった、とかじゃなくて?」
重い空気に飲み込まれまい、と少し明るく返すが、彼は首を振り、「いいえ、本当に……嫌だったんです」と声を落として言った。これは訳ありかもしれない。
僕も笑顔を作るのはやめて返答した。
「好き、だったの?」
「好き、なんです」
「好きだけど、手は繋ぎたくない、ということかな……」
聞いた情報をただまとめたものだが、少年は腑に落ちたように頷いた。
「はい、そうなんです……この矛盾が、結果的に彼女を傷つけてしまいました。母さんにも、男なのに意気地なしだから振られるんだとか言われて……もうどうしたら良いのか分からなくて」
ユカさんは、男がなんだ、女がなんだと決めつける人だということは僕は分かっている。ユカさんの思う「枠」に当てはまらないから意気地なしだと決めつけるなんて、そんなのは違う。僕なりに彼女に対する反論を息子にぶつけてみようと思った。
「それって意気地なしとかそういうことじゃないと思うけどね」
少年は顔を上げ、濡れた瞳で僕を見つめた。
「でも、男ならリードとかしてそういうことを率先してやるものだって母さんが」
「男だから、とかそういう問題じゃなくて。……自分の感情に素直なことのどこが意気地なしなの?」
「でも、結果的に相手を傷つけてしまったわけだし……」
自分が振られたどうこうよりも、彼女を傷つけてしまったことへの罪悪感が勝っている様子だ。この子は優しい子なんだな、と思った。
「それは君が彼女の感情を大事に考えているから、そう思うんだよね? 僕から見たら、君は優しくてとても素敵な男の子に見えるよ」
「でも……」
「『でも』は無し。大事なのは君がどう感じるか、だよ。もし彼女がそんな君を受け入れてくれなかったなら、それは彼女の問題。だから自分を責めないこと」
「…………」
少年は黙って俯いた。
僕はこの少年の言う感覚、は正直分からない。自分なら好きなら触れたいと思うから。手を繋ぐことさえ拒否されてしまったらそれは悲しいことだし、少年の彼女の気持ちも分かる。
でもこの少年は好きなのにそれをしたいと思わない人。他者との違いで悩んでいる。その心の傷は――僕にも分かる。痛いほど。
「自分は大事にするものだよ。誰も君の代わりにはなれないんだから」
それは、この少年の傷が少しでも癒えてほしいという思いから出た言葉だった。しかし、どの口が言うのか、と内なるもう一人の自分が問いかけている。
この少年と同じように、僕も他者との違いを自分のせいにし、それに苦しんでいる。その違いを明るみに出されることの恐怖から、自分を隠しつつも、どこかで認められたいという切ない渇望が心の中で渦巻いている。この渇望が、さらに自分を苦しめている。自分自身も慰めることができないのに、他人を慰めるなど、滑稽でしかない。
夜の8時を回る頃、ユカさんが息子さんを連れて店から出て行った。彼は小さく僕に「ありがとうございます」と言い、名を名乗った。彼の名前は「カエデ」というらしい。
見送った後のこと。なにやら、ポケットの中で携帯が震えている。バックヤードに向かい、画面をチェックすると詩音からの着信だった。
あの事件があってから、僕は忙しさを理由にして電話には出ず、メッセージも返していなかった。だが、このまま逃げ続けるわけにはいかない。通話ボタンを押そうとしたその瞬間、画面が真っ暗になった。充電切れのようだ。この携帯のバッテリーがもう寿命なことは知っていたが、最近は電源が急に落ちることが増えてきた。
明日、改めてかけ直そうと考え、携帯をポケットに戻した。そして、夜が明けるまで僕はバーテンダーとしての仕事を続けた。
チュンチュンと鳥の鳴き声が聞こえる中、いつも通りの朝帰りだったが、その日は家に鍵がかかっていた。鍵を開けて入ると中には誰もいなかった。キッチンのまな板には鶏肉がそのまま置かれていた。嘉一、どこかに出かけているのだろうか……。まぁいいか、そんな時もあるだろう。
自室に入る。部屋の中央に立てられたイーゼル、そこに置かれた描き途中の絵が目に入った。わずかに差し込む朝の光が絵を照らしている。それに導かれるように僕はゆっくりと絵の方へ歩み寄り、筆を手に取った。
気が付いたら昼だった。今日はバイトがないから僕が夕飯を作らなければならない。一眠りしたいところを堪えて、買い出しのために家の近くのスーパーに足を運んだ。嘉一、何か食べたいものはあるだろうか。今日会社のはずだけど……結局帰って来なかった。大丈夫だろうか。連絡をしようと携帯を取り出すが画面は真っ黒だ。はぁ、とため息が漏れる。充電するの、忘れてた。
スーパーの中、よそ見をしていたからか、僕は男性の肩にぶつかり、舌打ちをされてしまった。あの時、階段から突き落とされたの恐怖が蘇ってきた。……正直なところ、一人になるのが怖い。また、ふとした瞬間に誰かに背中を押されるんじゃないかと良からぬ妄想が広がる。連絡手段はない中で、誰かと一緒に過ごす方法――病院……。あそこで携帯を充電させてもらおう。僕はそう思った。
買い物を済ませた後、充電ケーブルを手にして病室の扉を開けると、中から弱い光とともに希翼の姿が見えた。
「俐一」
声には驚きと喜びが混ざっていた。
「希翼、ごめん、電源貸してくれないかな」
「いいよ、そこの余ってるから使って」
希翼は微笑みながら、包帯を巻かれている手でベッドサイドのコンセントを指さした。
点滴の刺された細い手……。胸が締め付けられそうになるが、希翼の笑顔は僕を和ませてくれた。
「ありがとう」
「どうしたの……? 何か急いでる?」
「いや、ちょっと携帯を充電したいだけ……」
「……」
希翼が無言の視線を向けてきていることに気がつく。
「ん?」
「ボクより携帯が大事? これ抜いちゃって良い?」
冗談めかして、希翼は充電ケーブルを持ち上げた。
「ちょっ、希翼に会いたかったのもあるって!」
「本当?」
「本当」
「こっちとこっち、どっちを抜いて良い?」
充電ケーブルと点滴の管を指さした希翼。
「意外と希翼ってねちねちしてるところあるよね……。どっちも抜かれちゃ嫌だけど、どっちか選ぶなら充電ケーブルだよ。決まってるじゃん……」
「はは、そっか」
あぁ、この感覚。
こうやって言葉を交わせること、笑顔を見れること、それだけでここに来て良かったと思わせてくれる、この感覚。
病室の中は静かで、外の光がやさしくカーテンを通して室内に差し込んでいた。希翼のベッドの横には、各種の器具が静かに点滅している。
「今日は学校は?」
「ないよ」
そう、学校もバイトもない。
居心地の良いこの空間で携帯が充電されるのを待って、時間になったら家に帰ればそれで良い。……そう思うと、急に眠気が襲ってきた。
「あのさ、また、少し寝ていっても良い? 携帯が充電されるまで」
「いいよ、好きなだけいてくれて」
「また空いてる場所借りちゃおう」
椅子をベッドの横に持ってきて、今度は希翼に覆い被さるようにして上半身を預けた。
「ちょっと、重いって」
「おやすみ〜〜」
次の瞬間、意識を手放したが、また次の瞬間、「起きろ」、という声で目を覚ました。
ぼんやりと目を開けると、頭上には嘉一の顔があった。
「カイ……?」
希翼もたった今目を覚ましたような顔をしている。唖然と嘉一のことを見ていた。
「よぉ、エバ」
「嘉一……」
「久しぶりだな」
「久しぶりだね」
「今度また来るから、その時にちゃんと見舞いさせてくれ。……ちょっと急用でな。リー借りるぞ」
「あぁ、うん」
一通り希翼とのやりとりの後、嘉一は僕のTシャツの背面部分を乱暴に引っ張って僕を起こした。
「おい、ちょっと来い」
嘉一の表情は、僕がこれまで見たことがないほど険しいものだった。布が皮膚に食い込む感覚。引っ張られるまま、病室の外に出た。
「何、どうしたの」
嘉一は振り返って僕を睨みつけた。
「お前詩音ほったらかして何やってんだよ」
「え?」
そしてそのまま胸ぐらをつかまれた。彼の手の中には驚くほどの力が籠もっていた。
「何回連絡しても連絡付かないし、家にはいないし、どこにいるのかと思えば案の定ここだ」
「いや、携帯の電源切れてて、それで充電したくて」
「言い訳なんざ聞きたくねーよ! ……彼女より男を優先するなんて、な……」
嘉一は思い詰めた顔で手を緩めたので、僕はその場に立ち尽くした。
「待って、どういうこと……? 詩音に何かあったの?」
一抹の恐怖が胸をよぎった。
「お前が知らないで俺が知ってることが答えだろうが。お前は詩音のことを大事になんてしちゃいない。それが証明されたな」
僕が電話に出なかったから?
混乱の中、疑念を嘉一にぶつける。
「ちょっと、何があったか教えて……!」
「あいつ、ストーカーされてた。それもかなり陰湿なやつ」
知っている。でも、それは解決したはずじゃなかったの……? 僕が俊介から恨みを買って解決したはずじゃ……?
それより――。
「ねぇ、詩音は無事なの?」
「あぁ」
その言葉に安堵する。
「そっか……。俊介とかいう奴でしょ、ストーカーしてたの」
「は? 違うよ」
嘉一はポケットに手を突っ込んで目を細め、眉間に皺を寄せてこちらを見た。
「嘘……じゃあ誰……」
「詩音と別れるなら教えてやっても良い」
嘉一は真顔で言った。
「はぁ? なんでそうなるの」
「詩音がかわいそうだからだ」
嘉一は、やっぱり詩音のこと……
「ねぇ、前から思ってたけど……カイは詩音のこと、好きなの?」
「そんなことはどうだって良いだろ。もうさ……認めろよ」
「認めるって何を?」
「自分は女装癖のある男好きだってな」
「……」
その言葉に、僕の心と視界は一瞬で真っ黒になった。心臓がバクバクと脈打っている。
どうして……そんなこと……。
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