Veiled Sentiments
希翼との再会以来、彼のことがずっと頭を離れない。病室の一瞬の交流が、古い記憶を呼び覚まし、心の奥底にしまっていた感情を呼び戻した。あの日の空気感、彼の存在が漂わせる特有の匂い、全てがまるで時間を巻き戻したかのように鮮明に思い出される。懐かしさに浸りながらも、彼の現在の状況、そしてこれからの彼の未来を考えると、胸が締め付けられるような不安と恐怖が交錯していた。
「俐一君、美香ちゃんがくれた紅茶すごく美味しいよ、飲んでみる?」
嘉一のいない家。詩音は台所に立ってこちらを向いて笑顔で言った。
美香ちゃんというのは、詩音が高校時代に仲良くしていた親友だそうで、彼女は今もなお、大阪に住んでいる。
「飲ませてくれるのー?」
「作るけど……自分で飲めるでしょ?」
「飲めない~。コップで飲むのは嫌」
「えぇ、じゃあどうすれば……」
「詩音が手で器作ってくれたら犬みたいにして飲むよ」
「さすがに手は火傷しちゃうって」
困ったように笑う詩音に愛おしさがこみ上げ、台所まで行き詩音の背後に立ってぎゅっと腕を回した。
「じゃあ口移しで飲ませて欲しい」
「俐一君……どうしたの、今日。甘えたいの?」
「詩音ってさ、抱きしめたくなる身体してるよね。腕にすっぽり収まるこの感じ、フィットして良いなぁ。女の子って最高」
更に力を込めると詩音はぐぐもった小さな声を漏らした。
そう、この感じ。柔らかくて良い匂いがする。ずっとこうして抱きしめていたいと思う。僕の感情は決して嘘なんかじゃない。いつも僕を気にかけてくれる、とても優しい人、愛おしい人。
……僕は詩音が彼女で良かった。
詩音と思いが通じた時、僕は心の底から自分が男で良かったと思ったんだ。
「好きだよ詩音」
この気持ちに、嘘偽りはない。
僕の今の恋人は詩音だ。
「ねぇ詩音は? 言葉にして、言って?」
詩音が硬直して動かなくなってしまったので耳元で甘えたような声を出して言った。
「なんか……恥ずかしいよ……」
「好きには好きで返すって学校で教わらなかった?」
「そんなこと学校で教えてるの? 私教わらなかったよ……」
「はい、じゃあ今教えた。好きって言われたらなんて返すんだっけ」
「うぅん……う、うん……分かった。好き……です」
詩音は恥ずかしそうにしながら振り返ってこちらを見てきたので、そっと頬に手を添えて口づけた。
「ねぇ、今日はカイいないし、泊まってく?」
その時、インターフォンが鳴った。
良い雰囲気の時に誰だよと思いながら玄関に行き、ドアを開けるとスーツケースを持った少し小柄な女性――秋が笑顔で立っていた。
秋は姉の百子の親友である。子供の頃から仲良くしてもらっていたけれど、偶然結婚した秋と家が近所なこともあって、嘉一とルームシェアを始めてからちょくちょく遊びに来てくれている。
来てくれるのは良いのだが、いつも突拍子に家に来るので事前に連絡を入れて欲しいところだ。やれやれと思いながら玄関の扉を開ける。
「やほー! お、詩音ちゃん来てたんだ、久しぶり」
「秋さん、こんばんは」
幼馴染なだけあって、秋も詩音も顔馴染みである。
「詩音ちゃんはかわいいなー本当に」
秋さんは出迎えた詩音にハグをし、犬をかわいがるかのように頭をなでなでしている。
「あれ、嘉一は?」
「入院中だよ」
「あーそっか! まだ入院中か! 退屈してないかなぁ。漫画、持って行ってあげよっかな……」
「本ならとっておきのやつ渡してあるから大丈夫だよ」
地蔵大百科、読んでくれているだろうか。
「あ、そうなんだ。ねー! これ、出張のお土産で、渡したくて! 嘉一と分けて食べて? あ、詩音ちゃんも良かったらどうぞ」
秋は紙袋を玄関に置くと、茶髪のロングヘア―を整えた。彼女の茶髪はやや波打っており、ゆるく胸元まで流れている。彼女の自由奔放な性格が、その髪型からも感じられる。
「出張帰りだったの?」
「そう。新幹線で大阪まで行ってきた。もう疲れたよぉ、観光の時間全然なくてさぁ」
「おかえりなさい」
「はは、ただいま」
「お疲れ様、いつもありがとね」
「ううん、全然。百子からもあんたら兄弟観察頼まれてるしついでよ。あとこれ……漫画借りたやつ、紙袋の中に入ってるから嘉一に返しておいて」
秋は紙袋を指さして笑った。
「うん、分かった」
「んじゃ私はこれで失礼するね」
「もう帰っちゃうんですか? あの、今紅茶淹れてて一緒にどうかなって」
詩音は微笑みながら秋に尋ねた。
「まじか、それは寄りたい気持ちは山々だけど……いや、ごめん、今日は帰るよ」
「そんな……」
とたんに寂しそうな表情をする詩音。秋は詩音に好かれているようだ。少し嫉妬する。
「えーでも嘉一いないんでしょ?」と秋はおどけたように言った。
「はい、そうですけど……」
「はは、せっかく嘉一いないから今夜は2人の時間楽しんでよ。あたしがいると邪魔っしょ?」
そんなことないと詩音がフォローを入れたので、すかさず僕は返した。
「季節的に今って、春と夏の中間くらいだし秋ちゃんには帰ってもらおうかな」
「ぶっ! なんだよその名前差別! じゃあ秋になったら毎日来てやるからな!」
秋は大笑いしながら玄関のドアに手をかけた。
「あ、待って秋ちゃん、唇に何か赤いのついてる」
服を掴むと秋は遠慮がちに振り返って口元を指で押さえた。
「あぁ……これ? おととい切れちゃったんだよね、唇乾燥しちゃってさぁ。皮捲れるとむいちゃう癖あってさぁ、あー」
「リップ塗って」
「あ、うん……帰って塗っとく」
ずぼら系の典型的タイプの秋。こりゃこのままにしそう。
戸棚に入っているリップクリームを1個取り出して秋に渡した。
「これ、開けてないやつあるからあげる。今塗って」
「俐一はまーじお母さんみたいだなぁ……分かった。あんがと」
秋は苦笑いしながら唇にリップクリームを塗った。
僕は女性の唇が好きだ。話していると女性の唇によく目がいってしまう。カサカサしてたり、皮が剥けてたりするともう最悪。気になってしょうがなくなるのだ。結婚してからというもの秋は何かと、がむしゃらにふるまっているような印象を受ける。春から新しい部署になるとか言ってたし、仕事が忙しいのかもしれない。やや、あったかくなってきた季節だが彼女は長袖のシャツを着ているし、洋服を買いに行く時間もないのだろう。
秋を見送った後、詩音に甘えて、結局彼女に泊まってもらうことにした。夜、部屋の電気を消して布団に入ると、詩音に向かって話し始める。
「あのね、カイの入院先で西村君に会ったんだ。今度、西村君と詩音と僕とカイの4人で遊ぼうって話が出てるんだけどどう?」
「西村君……懐かしいね」
「立派な看護師になってたよ」
「そっか……すごい」
「遊ぶ件、OKで返事しちゃって大丈夫?」
「あぁ、うん。俐一君もいるんだもんね」
電気を消したばかりであまり詩音の表情は見えないが、やや遠慮がちな声のトーンだった。詩音は人見知りな側面がある。久しい友人を前に、少し緊張しているのだろうか。
「もちろん。あんま乗り気じゃない?」
「……ううん、なんか……、乗り気じゃないってことないけど……」
「緊張しちゃう?」
「あぁ、うん、そう……」
「詩音は人見知りだもんね。でも大丈夫だよ、きっと前みたいにすぐ打ち解けるって」
「西村君、昔のままだった?」
「うん、変わってなかったよ」
「……」
返事をしない代わりに詩音は少しこちらに身体を寄せてきたのでそっと抱擁した。詩音の瞳が閉じられているのを確認して、僕も眠りにつくのだった。
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