Wings Of Hope

 受付を済ませ、病室を軽くノックする。

 返事はない。後悔の念に駆られる。……やはり来たこと自体が間違いだっただろうか。引き返そうとしたところで病室のドアが開いた。僕よりも背の高く、やや痩せた希翼が姿を見せた。嬉しいような、どこか胸を締め付けられるような感情になった。



「ごめん急に……。忘れ物しちゃったんだけど……」


「うん。これ? かな」



 希翼は僕のバッグを細い腕で持ち上げて見せた。荷物を見て安堵する。



「あぁ、うん。それ」



 差し出されたので受け取った。

 中を開く。……良かった、全部入ってる。そして即座に大事なHoppets Vingarホーペッツ ビンガーの画集を取り出してぱらぱらとめくった。無事だ。ほっと一息ついて希翼の方を見た。希翼の表情は柔らかかった。口を真一文字に結んだ後、意を決して言葉を発する。



「ありがとう……ごめんね、僕に会いたくなかっただろうに。もう行くから」



 要件は済んだんだ。もうここにいる理由なんて……ない。

 画集をバッグに戻し、なるべく希翼の顔を見ないようにして踵を返すが腕を掴まれた。心臓がドクンと脈打った。思わず振り返って希翼の顔を凝視する。



「……」



 腕はすぐに離されたが、少し充血した緑色の目は真っすぐこちらを見ていた。



「俐一、少し話していかない……?」


「え……うん」



 不可抗力。そのまま病室の中に入る。

 日の落ちた病室。窓から見える外の景色。空の彩度はやや低く、ちらちらと雨が降り始めていた。

 希翼は僕を椅子の方に誘導し、そしてベッドに腰かけて向かい合う。



「記憶喪失だなんて嘘をついて……ごめん」



 希翼の表情はよく見えないが、声が少し震えているのが分かった。



「ううん、大丈夫。……何か事情があったんでしょ」


「……忘れて欲しかったんだよ、もう無いものだと思って欲しかった。でも……」


「でも……?」


「俐一とまた話したいって思って……。嫌な思いをさせてしまったよね、許してくれるかな」



 希翼はテーブルの上の家族写真の横――伏せられている写真立てを指でなぞった。その伏せられている写真立ては、希翼が女性と写っているものだろう。伏せられているということは――。



「ううん、いいよ。僕も……話したかったし」



 希翼は病人だ。気遣うように笑顔を作った。



「俐一は今も絵を描いているの?」


「え……。あ、うん……。一応、ね……」


「画集を開いてたからそうなのかなって思って」


「うん。尊敬してる絵描きの画集なんだ」



 再びHoppets Vingarホーペッツ ビンガーの画集を取り出してページをめくった。

 この画集は高校の頃、偶然本屋で見かけたのが最初だった。作品のタイトルと年号の下に絵が載せられているいたってシンプルな画集だが、どのページにも目が釘付けになった。猛烈にこの人の描く絵に惹かれた。気がついたらレジに持っていっていた。たかが画集なのにここまで惹かれるなんて不思議だと我ながら思う。

 ネットで作者の名前を検索にかけてみた。にわかファンは結構いたようだけど、本人に関する情報は全く出てこなかった。年齢も性別も不明、SNSアカウントもない。ネットの掲示板では、絵の傾向からして結構歳なんじゃないかって言われていたけれど……。



「使い古されてる感じがするね。それ、ずっと持ってるの?」


「うん。もう6年くらいは……」


「すごいね、そんなになるまで……」


「新しいのがあれば欲しいけど、買い替えるにも非売品だから売ってなくて。作者が歳みたいだし、もしかしたらもう亡くなってるかもしれない」


「亡くなってたら?」


「もう新しい作品を見られないのは残念だし、悲しいよ。……でもたとえ亡くなってても、残された作品は僕の中では生き続けているから」


「そっか……」


「これ、見てみてよ」



 窓際まで寄ると、画集のページを何枚かめくって希翼に見せた。



「一応風景画なんだけど写真みたいじゃない? 模写っぽく細かく描かれているけれど、これらの建物や自然は実態が確認されていないから、全部想像上のものらしい。存在しないもののはずなのに、まるで映像みたいにスッと入って来るというか……こんな世界に住めたら幸せだろうなって……」



 希翼は興味深く絵を見ている。彼は弓道部だったし絵は描かないが、僕の描く絵はずっと見てきた。だからこそ、今のこのHoppets Vingarホーペッツ ビンガーの絵に対する僕の気持ちが少しでも伝わってくれたら、と思う。



「ふふ、面白いね。でも少し派手すぎない? ……俐一は架空の世界で暮らしたいの?」


「そうだよ。バカみたいな話かもしれないけど、ここにいる自分を想像して救われた気分になるんだよ……この人の作品に出会えて本当に良かった」



 それを聞いて、希翼は目頭のあたりを押さえて苦笑いしている。

 まぁ普通の人にはあまり理解できない感覚なのも無理はない。



「おかしいかな」


「いや。……それより、俐一は今どんな絵を描いてるか見てみたい」



 僕はため息をついて携帯に保存されている写真を何枚か希翼に見せた。



「こんな感じ。変わってない……中学の時から全然成長してない」



 人に絵を見せるのは嫌いだ。でももう希翼は僕の描く絵を知っている今更隠すことなんてない。



「すごい。なんかあの頃よりクオリティ高いというか、変わってないなんてことないと思うけど……さっきの画集の人よりも上手なんじゃない?」


「絵が上手い下手というより僕は……Hoppets Vingarみたいな絵を描きたいんだ。でも、描けない。出来の悪い絵描きだよ」



 携帯の充電が切れて画面が真っ暗になった。充電が切れたことすら分からない程に僕の絵は暗いものばかりだ。



「天気予報士は雨のことを『悪い天気』とは言わないんだ。『くずついた天気』という表現をする。ボクはこの表現が結構好きなんだ」



 希翼はしとしとと降る雨を窓越しに見ながら言った。



「雨が万人にとって『悪い』ものではないから、こんな表現の仕方をしてるみたいだけど。それは絵にも同じことが言えるんじゃないかな。俐一にとっては悪い絵でも、それが知らずのうちに誰かの心を照らしてるかもしれない」


「そんなことあるわけ……。どうせ僕は……」


「俐一は出来が悪い絵描きじゃなくて、ぐずついた絵描きさん、だね」


「確かに……ぐずついてるかも。ははは」



 甲斐無い自分に苦笑の息が漏れる。やはりそう。希翼と話していると不思議な空間にいるような錯覚を受ける。さっきの緊張感が嘘のようだ。



 中学時代、人物画の件をきっかけに僕と希翼は部活帰りによく弓道部の部室で談笑した。美術部の女子とは結局最後まで仲良くなれなかったので、室内で絵を描く時は美術部の部室ではなくて弓道部の部室を使っていたりした。相変わらず埃っぽい部室だったけど、部活の終わった希翼を待つ時間が好きだった。そして、希翼と過ごす時間はなにより特別な時間に感じられた。そして彼と過ごす時間が絵を描くことよりも楽しみになった頃――。中学3年生。



『最近、思ったように絵が描けなくてさ……』


『なんで、十分上手じゃない?』


『明るい感じの絵が描きたいのに、最近無理になっちゃった』


『単純に明るい色を使えば良いだけの気がするけど……』


『それは分かってるんだけど……』



 希翼は座っている僕の手元を覗き込むようにして近づいてきた。至近距離に顔が来て、思わず息を止めた。



『分かった』


『……何が?』


『ちょっとパレット、貸してくれる?』


『え? うん……』



 希翼は筆に絵具をいくつか取ってパレットの空いたスペースで混ぜ合わせた。



『何しているの?』


『絵具ってさ、不思議だよね。赤・緑・青を混ぜると黒になるでしょ。色を混ぜれば混ぜるほど暗い色になるのってどうしてだろうね』



 突き返されたパレットには黒い絵の具の島が出来ていた。



『……はは、どうしたのいきなり』


『俐一はすごく繊細なんだろうね。パレットにこんなたくさんの種類の色を並べられるんだから』


『繊細……?』


『絵が暗くなっちゃうのはたくさん混ぜ合わせて色を作ってるからじゃないかな。色んな色を混ぜ合わせるのは俐一の感受性がきっと豊かだから。ボクは洗う量増やしたくないから美術の授業とかでも、出す絵具は最小限にしてるし原色そのまま使っちゃったりする。だから俐一はすごいよ』



 希翼はにっこりと笑った。



 全くも考えもしなかった視点だった。

 繊細、感受性が豊かだなんて。



「俐一」


「ん?」



 病室の中。希翼の声で我に返る。



「ボクは俐一の絵、美しいと思うよ。前にも言ったかもしれないけど」


 

 以前の彼も、僕の絵を美しいと言った。そして今改めてその言葉を聞いて、じわじわと心が暖められているような感覚になる。まるで絵ではなく自分自身を肯定されているような気分になる。僕が今でも絵を描き続けられているのは……この言葉があったからだ。

 でも……モノクロの暗い絵のどこが美しいと言えるだろうかと僕は冷めた目で見てしまう。自分自身の存在も、美しいとは正反対の方向にいるというのに。容姿がいくら優れていたって魂の汚れをひたすら隠す日々だ。



 それでも彼の言葉を思い出して、それが日々の支えになった。彼の言葉には不思議な力があった。……それは……彼が僕にとって――。



 ふと詩音の笑顔が頭を過った。



 僕は深呼吸して顔を前に向ける。薄暗い病室がただ広がっていた。病室の電気をつけて尋ねる。



「……入院は、いつまでなの?」



 少しの間の後に返事が来た。



「…………ずっとじゃないよ」



 これは安堵して良い方の「ずっとじゃない」なのだろうか。

 嫌な予感がじりじりと肺のあたりをなぐっている。

 


「……言い方を変えるね。いつ退院するの?」



 病室の扉が開いた。



「エバンスさん、検温しますねー」



 希翼は何かを言いかけたが、看護師さんが部屋に入って来たところで口をつぐんだ。



「……また来るよ」



 一歩下がってそう告げる。



「いや……」


「え?」


「……なんでもない。またね、俐一」



 希翼は弱々しくそう言った。

 僕はゆっくりと頷いた。

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