Chromatic Encounters

 僕は絵を描くことが得意だった。というより、単純に描くことが楽しかった。最初にクレヨンを持ったのは幼稚園の頃。純粋な創造の瞬間に、時間が止まるような感覚に陥った。他の子が外でおにごっこなどをして遊んでいる中でも僕はクレヨンを手から離さなかった。やがてクレヨンから色鉛筆、色鉛筆から絵具へ――。真っ白な紙に色を落とすことが好きだった。

 僕が絵をいつも描いているからか、嘉一も真似をしてよく絵を描いていたっけ。小学校低学年の頃は、度々描いた絵を見せ合ったこともあったりしていたけれど、そんな僕たちを見て近所のおばさんは言ったんだ。



『男の子なんだから外で遊ばないと』



 一緒にいた百子はムッとした表情でおばさんに言い返した。



『男の子が外で遊ばなきゃいけないのってどうしてですか?』



 おばさんはこう返した。



『だって絵ばっかり描いて女の子みたいじゃない』


『私は女ですけど外遊び大好きですよ。女なら家に籠って絵を描いてろって思いますか?』



 おばさんは、そういう問題じゃなくて……と、もごもご何かを言っていた。僕は、百子が庇ってくれたみたいで嬉しかった。でも……この出来事が直接関係しているかは分からないが、この日を境に嘉一は絵を全く描かなくなってしまった。



 中学に進級し、嘉一は空手部に、僕は美術部に入った。クラスも違うし僕たちは学校にいる間は各々が単独行動だった。

 美術部の部活は週に3回ある。部員はみんな女子で、いわゆるアニメ好きでオタク気質な子ばかり。最初こそ輪に入ろうとしてみたが、部員たちはアニメの話で盛り上がっていていて僕は彼女たちの世界に入ることができなかった。だけどキャンバスの前に座ると、周りの声が遠のき、僕の世界がそこに広がっていた。



 授業が終わり、終礼を済ませると荷物を持って校舎から少し離れたところにある部室棟を目指す。2階、弓道部と茶道部に挟まれた配置に美術部の部室はある。



 部室棟の階段に差し掛かったところで、ふとすれ違った美しい容姿の男。彼は弓を持っていた。

 緑色の目をした茶髪のすらっと背の高い男は明らかに骨格からして日本人の顔をしていなかった。外国人かどこかの国のハーフだと思った。芸能人の放つような溢れ出るオーラと華麗な風貌。一瞬、教員かと疑ったが同じ制服を着ているから生徒だ。彼を見た瞬間、心が止まるような衝撃を受けた。その後も、彼の姿が頭から離れない日々が続いた。まるで彼の持つ弓に打ち抜かれてしまったかのようだった。



 それからというもの、よく部室棟の下で風景画を描いていた僕は様々な部員の行き交いする中にぽつんといたけれど、道行く生徒の中にどこか彼の姿を探していた。今日は来てるかな、なんて。姿が見えた日はラッキーな日、と決めては心を躍らせていた。



 そんなある日、美術部で人物画の模写が課題になった。描きたい人といえば1人しか思い浮かばなかった。モデルを頼むことについて何日も悩んだ。彼に話しかける勇気を出すのに自分を何度も奮い立たせていた中で、幸いなことに、嘉一は彼と同じクラスだったということが分かる。嘉一に、彼に絵のモデルになってくれるよう話を付けてと頼んだが、彼は自分で言えと僕の願いを聞いてはくれなかった。接点もない人に声をかけることは非常に勇気のいることだ。しかも唐突に模写をさせてくれだなんて……変な目で見られてしまったらどうしよう、嫌われたらどうしようかと考えて一時は断念しようとしたが、どこか諦めきれない自分がいた。

 僕は部室棟の下で絵を描きながら彼が来るのを待った。そして弓を持った彼が現れた時にはどれほど心臓が高鳴ったか分からない。冷や汗が出るほどの緊張の中、言葉を発する勇気を振り絞って、足を前に進めた。



「モデル……?」



 丸く光る緑の目がこちらに向けられた。緊張でどうにかなりそうだったが、もう引き返せる状況ではない。僕は目を泳がせながら言葉を続けた。



「部活で人物画が課題になって……」


「どうしてボクを……?」



 綺麗な声、そして流暢な日本語。

 それらが自分に向けられているということに動揺しつつも、必死に頭を働かせようとしていた。



「えっと……鮮やかだと、思って……」



 口をついて出た言葉だったが、この時、自分が描きたい絵は「鮮やか」な絵なんだと認識したことを今でも覚えている。



「……ボクって鮮やか?」



 彼は耳に優しいなめらかなトーンで言った。



「うん。目の色とか、髪とか……かな」


「あはは、そういうことか。君はいつも色とりどりな絵を描いているもんね」



 いつも……。



「僕の絵、見たことあるの?」


「よくそこに座って描いてるでしょ? 自然と目についちゃうよ」



 彼は木陰のある方を指さして言った。

 自分だけが目で追っていた存在だと思っていたのに、彼もしっかりと僕のことを認識していた。その事実にどうしようもなく嬉しさと恥ずかしさともどかしさと……色んな感情が込み上げた。



「……」


「今ここで、描くの?」


「あ、うん。少しだけ時間ください、すぐに終わらせるから!」



 貴重な時間をもらったんだ。無駄にしてはいけない。

 しっかりと彼の姿を目に染みこませる思いで下書き用の鉛筆を手に取ると、彼は近づいてきて言った。



「……ここだと人の目につくね。ちょっと恥ずかしいから、2人になれるところに場所を変えても良い?」


「あっ」



 手首を優しく掴まれ、誘導されるまま向かった先は弓道部の部室だった。

 中は埃っぽく、お世辞にも綺麗とは言えない部室だった。道具を置くためだけの倉庫と化した部室。彼曰く部員も所属はしているが活動していない、いわゆる幽霊部員ばかりで真面目に活動しているのは彼と、一部の女子生徒、そして代理コーチの大学生だけだそう。



「僕は弓道部員じゃないのに……入っちゃって良いの……?」


「いいよ、どうせ誰も来ないと思うし。来たとしても気にしないよ」


「……」



 いきなり憧れだった人と2人きりの状況に緊張していた僕は気が付かれないようにその場で大きく息を吸って自分を落ち着かせた。



「ここだと嫌?」


「そんなことない。……描くね」



 僕はスケッチブックを取り出した。

 とてもやりづらい状況ではあるけれど、これは彼の善意だ。下書きだけでもさっさと書いておかなくては。

 特にポーズは指定せず、自然体でその場で立ってもらった。部室に差し込む夕暮れの光がより彼を煌びやかにさせている。美男子はどの部分を切り取ったって美しい。魅了されながらも鉛筆を動かした。



「ねぇ」


「え?」


「写真じゃだめなの?」


「だめだよ」


「なんで?」


「写真じゃ2次元だから。でも目で見たものは4次元。情報量が違うの」


「なるほどね。さすが月城俐一先生だ」


「……」



 鉛筆が止まる。今、自分の名前が呼ばれた。



「名前、知ってたの?」


「うん、そりゃあ。嘉一のお兄さんでしょ?」


「うん、そうだけど……」



 双子は珍しいから注目されるものだ。嘉一と同じクラスなら僕のことも知ってる……か。でも、姿だけじゃない、名前も込みでしっかり認識されてたんだ。なんだか、嬉しい。



「ボクの名前は知ってる?」


「エバ……って皆から呼ばれてることは知ってる……」



 スウェーデン人と日本人のハーフ。

 名字がエバンスだから皆からエバと呼ばれている、と嘉一から以前教えてもらった。



「フルネームは知ってる?」


「えっと……教えてくれるかな」


「エバンス希翼」


「きよ……く?」


「そう。希望の希につばさって書いて希翼きよく


「すごく良い名前なのに下の名前で呼ばれてないなんて、もったいないね」


「はは、下の名前で呼ぶのは家族くらいかもね。……君は呼んでくれる?」



 彼の表情は柔らかく、僕をじっと見つめている。それは部室内の埃っぽさすらも忘れさせる何かがあった。



 ――――――――――――――



 薬品の匂いの混じる病院の中、病室の前に貼られているプレートを見る。



『エバンス 希翼』



 この名前を見ると、僕たちが初めて話したあの時のことを思い出す。

 いつもは軽口を叩くのが僕のスタイルだけど、希翼の前では何故か緊張して、冗談を言う余裕すら持てなかった。彼と過ごす時間はいつもそうだ。記憶をたどると、夏の訪れを予感させるような、どこか暖かく、まだ春の名残を感じさせる花の香りが思い浮かぶ。それはまるで、季節の変わり目に漂う、懐かしさと新鮮さが混ざり合ったような感覚。不思議な空間にいるような、そんな感じだった。



 記憶を想起させていると病室の扉が開いた。



「っ……」



 その一瞬呼吸が止まった。



 出てきたのは希翼――ではなく、日本人離れした堀が深く高い鼻、緑色の瞳の綺麗な顔立ちの女性だった。家族写真に写っていた……おそらく希翼のお姉さんだろう。

 マグカップを持ったお姉さんは僕を見るなり微笑んだ。



「お、希翼の友達……です?」



 希翼で慣れているつもりだったが、外国人の顔をして普通に日本語を話すので何だか不思議な気分になる。



「あ……えっと、はい、友達です」と一瞬考えてから言った。


「ちょうど良かった。コーヒー淹れようかと思ってて。あなたも一緒にどう? フィーカ」


「あぁ、いいや僕は……」


「遠慮しないでー! せっかく来てくれたんだし、ね?」



 距離感のおかしいその人は僕の腕を掴んで踵を返し、再び病室のドアを開けた。



「希翼、友達来たよ。どうぞどうぞ座って!」


「あ、や……」



 お姉さんは部屋の隅から椅子を引っ張り出して来て、希翼のベッドの横に僕を座らせた。



「お友達の分のコーヒーも淹れて来るね」



 お姉さんはニコっとこちらに微笑むと病室から出て行った。



「……」



 思いがけない状況。希翼は口を半開きにしていた。あぁ、どうしよう。

 声をかけるにも言葉が見つからず沈黙する。どうにかしてここから去る方法はないかと思考を巡らす。



「……俐一、久しぶりだね」



 この状況下の中、観念したのか希翼は僕の名前を呼んだ。



「……久しぶり、希翼」



 記憶喪失だと嘘をつかれたことへのショックや憤りよりも、単純に名前を呼ばれたことが凄く嬉しく、思わず涙が溢れそうになってしまう。感情がぐちゃぐちゃだ。



「……」


「……」



 お互いに挨拶を交わしたものの、会話が弾むわけでもなく、この状況で席を立つにも立たず、やりづらさのようなものを感じる。



「あれ、お姉さん……かな?」


「あぁ」


「似てるね」


「よく言われる」



 耳に心地よい声。花の香りが漂うような錯覚を覚えた。昔の――あの時のままの空間が再び訪れたように思えた。だけど、あの頃とは何かが違う。違うのは、今ここが病院であり、彼が病人であるという事実だ。そして僕は……彼に歓迎されていない。彼は記憶喪失のふりをして、僕を遠ざけようとしたのだから。



「……邪魔したね、もう行くよ」



 希翼の顔を見ずに席を立つ。お姉さんが帰ってこないうちにここを去ろう。そしてもうここには来ない。

 ドアに手をかけると、最悪なことにマグカップを持ったお姉さんにバッティングしてしまった。



「あ、え、帰っちゃうの? コーヒー淹れたのにっ」


「ちょっと用事を思い出して……でもせっかく淹れてくれたならいただきます」



 湯気の立つコーヒーを受け取りその場で飲み干す。

 熱い液体に喉が焼けるような感覚になった。むせそうになるのを我慢して無理やり笑顔を作る。



「えぇ、一気!? 熱くない??」


「冷え切った心に染みる一杯でした。では」



 ふりきり、コーヒーの苦みを口に残しながら病院を出た。

 駅に向かう途中、胸ポケットの携帯が震えた。画面には嘉一の名前が。立ち止まり、片手で携帯を取り出した。あぁ、そういえば……。本来の目的を思い出し、顔をしかめた。病院には嘉一から頼まれた物を届けるために来たはずだった。マイバッグにそれを入れて持ってきたにも関わらず、希翼の部屋を訪れたことで全てが狂ってしまった。最悪だ、嘉一の部屋に行くことを忘れ、希翼の部屋にその荷物を置いてきてしまった。



 鳴り止まぬ携帯。観念して通話ボタンを押した。



「なぁに?」


『今どこ?』


「……地球」


『そんなことは分かってんだよ、いつ病院着くの? 早くヘアアイロン持ってきて』


「ごめん……二日酔いなんだ。これから講義もあるし病院には行けない」


『は? おい! 酔わねぇだろ――』



 電話を切って再びポケットに入れた。

 マイバッグには頼まれていたヘアアイロンと、講義に使う教科書、そして尊敬する絵描きであるHoppets Vingarホーペッツ ビンガーの画集を入れていた。教科書がないまま大学に向かう。画集は授業で使うものではないけれど、僕が常に持ち歩いているもの。お守り代わりじゃないけれど自分のそばに置いておきたいものだった。また買えば良いか……と思ったが画集に関しては今や非売品だった。唇を噛み締める。



 嘉一からその後何回か着信があったが、気が乗らないので無視。

 しかし、あいつはしつこく電話をかけて来た。このままじゃ埒が明かないと思い、一通り講義に出席した後にかかってきた電話には出てやることにした。



「しつこい男は嫌われるよ? 何回電話かけてくるの、メンヘラ」


『メンヘラじゃねーよ。こっちは暇なんだよ。嫌がらせも込みでかけてた』


「さいてー」


『二日酔いは治ったかよ』


「まだ」


『ふざけんな、夕方だろうが今。この後、持ってこいよ絶対』


「ヘアアイロンなんだけど……ごめん、無くした」


『は?』


「……」



 沈黙。

 相手の声は聞こえないが、どんな表情をしているかは容易に想像ができた。



『あれ高かったんだぞ。さすがにそれは弁償しろよ』


「……いくら?」


『7万』


「え、そんなにするの!?」


『そうだよ。貧乏人には特別サービスで分割でも良いけど』


「半額にしてくれない? 双子割で」


『意味分からない。無理』



 たかが、という言い方は良くないかもしれないが、そんな高価なものを使っているなんて思っていなかった。嘉一はツーブロックで髪の長さはそれほどないのに、なぜそんなにヘアアイロンにお金をかけるのか。

 所詮僕はバイトの分際。家賃を2人で割っているとはいえ、バイトの稼ぎだけでは贅沢をするには厳しい給料だ。すぐ充電の切れる携帯を買い替えてない、我慢している。講義に使う教科書も買い直さなければならないし……。

 その上7万が上乗せされるとなるとかなり厳しい。何より画集……あれは買い直すことはもうできないんだ。代償が大きすぎる……もう取りにいくしか、ないか。もう二度と行かない、と決めた場所に……。



「無くした……というか忘れた、というか……。心当たりはある……問い合わせてみるから」


『ふーん……。んじゃ確認よろしく』


「うん……」


『てかさ、西村が今日来た。誰かさんがヘアアイロン持ってこないから寝癖が最悪な時に。……リーのせいだぞまじで』


「そっか、ごめんね。どうだった?」


『別に、どうも……。なんか筋肉触ってきた』



 嘉一は露骨に不機嫌そうな声で言った。



「触ってもらえて良かったじゃん、鍛えたかいがあったね」


『うるせぇ……。今度また4人で遊びたいって言ってたよ西村』


「うん」


『俺が退院する頃にどうかって。予定合いそうか詩音に聞いておいて欲しいってよ』



 嘉一、西村君と遊ぶ気はあるんだ。なんだかんだ西村君とうまく話せたようで安心した。



「……分かった。じゃあこの件は詩音に聞いておくからヘアアイロンの件はチャラで良い?」


『そんな安い男じゃねーよ』


「あー! 電波遠いから切るねー」


『おい、逃げん――』



 電話を切る。

 再度ため息を漏らした。足取りは重かった。

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