Food Theory
「俺らも年取ったよなぁ」
「そうだね。……もう誕生日がちっとも嬉しくなーい」
居酒屋で西村君と2人。
昔、僕たちはよくファミレスでジュースを飲んでいたけれど、今飲んでいるのはジュースではなくお酒だ。
「まだ22じゃん。若いって」
「若いのは病院にいる人たちと比較したらの話でしょ? 18歳で車の免許取れて結婚できるようになって、19歳で晴れて大学生、20歳でお酒とタバコが解禁……でもそれ以降は何の特権もない。年と共に顔に皺を刻んでいくだけだよ、悲しいなぁ」
「特権のために年を重ねてるわけじゃないだろ。年取ることで人間として味がついていくというかさ、価値がついていくんじゃないのかねぇ」
気難しい顔をして西村君は笑った。価値……か。彼にはプライドを持って働ける場があって未来がある。毎日をなんとなくて生きている僕とはきっと違う。だから彼はこんなポジティブでいられるんだ。
「西村君は看護師として人のために働いてるからそれだけで価値はあるよね」
「そんなんで言ったら俐一だってバーテンダーとして人のために働いてるだろ」
「人のため、か。お酒を作って酔わせることが、人のため?」
元々は知り合いの紹介で始めたバイトではあったけど思ったよりも適職だった、と思う。薄暗い店の中で人に酒を振る舞い、客の話を聞くことは好き。でもこの仕事が社会貢献になってるかと聞かれれば微妙なところだ。酔いつぶれ、酒で記憶を飛ばし、みっともない姿を公共に晒すことを手助けする仕事、なんて。
それに比べて看護師は立派だ。人の人生、生死に関わっているんだから。……もし自分のミスで誰かの命が亡くなったら……? とてもじゃないけど無理。耐えられない。僕にはできない仕事だ。
「俐一に酒作ってもらうのが生きがいな人もいるかもしれないじゃん!」
苦し紛れのフォローにこちらも苦笑いするしかない。
「西村君は何か食べないの?」
「酒飲むと腹減らなくてさ」
「僕もそんな感じだけど、お通しくらいは食べるよ」
ガヤガヤと酔っ払いたちの話声が飛び交う中、小鉢に入った大根を箸でつまんで口に入れた。あまり好みの味じゃなかったので焼酎のロックで流しこんだ。カラッとグラスの氷が崩れた音がした。
「おいバーテンさん。さっきから水みたいに飲んでるけど大丈夫なの?」
「え、水だよこれ」
「は?」
「飲んでみて、水だから」
グラスを差し出すと西村君はコップに鼻を近づけた。
「っ!! いや水じゃないだろこれ!」
「あっはは!」
「おい俐一、お前なぁ……相変わらずだなホント」
「まぁ……でも僕にとっては本当に水みたいなもんなんよ」
居酒屋の光を反射させたグラスと、その中の透明な液体を見る。これを絵にするなら必要な絵具は赤、オレンジ、茶色、白、そして薄い青に――。依然と視界はハッキリとしている。
「こんな濃いの飲んでて酔わないの?」
「酔えないんだよねぇ、車には酔うのに」
「一ミリも酔わないわけ? ……酒に」
「うん。そういう体質? 的な」
これは嘉一も同じ。
僕たちは「酒に酔う」というものが何なのか分からない。正直一度くらい酔ってみたいと思う。
「全く酔わない人なんて初めて聞いたよ……。酔わないならなんで酒なんか飲んでるの?」
「お酒の味が好きだから」
「まじかよ……それ、美味いか?」
西村君は眉間に皺を寄せながら焼酎のグラスを指さした。
「うん、美味しいよ。麦焼酎、飲んでみる?」
「いや、めっちゃ飲ませようとしてくるじゃん。遠慮しとくわ……」
「飲み会自体は好きなんだよね。雰囲気で酔った気になれるから」
「その気持ちは分かるかもしれない。なんか楽しくなる、よな」
「そうそう。西村君は今酔ってる?」
「あぁ、少しだけ……な。少しだけ」
頬を赤らめた西村君はビールグラスを空にして、目線を逸らしながら笑った。
お酒に酔った久しい同級生を見るというのもなかなか愉快なものだ。
「ふっ」
「なんだよ、嬉しそうだななんか」
焼酎のグラスを空にして、店員さんを呼び止めた。
「ウイスキーロック、ダブルで」
「また濃いやつを……。やっべーなまじで」
「西村君は何か頼む?」
「いや、大丈夫。これ以上飲んだらやばい」
「そう、残念」
「残念がるなよ……。てか俐一も酔わないって言ってるわりにはさぁ……」
「ん?」
前かがみになって覗き込まれたので若干身体を後ろに倒した。
「……頬のあたり、なんとなく赤くない?」
「え……そうかな」
グラスを傾けて僅かに残っている水滴を無理やり口の中に滑らせる。
「あれ、もともとそんな感じだったっけ? あー何か……ごめん。何でもない」
西村君はおでこのあたりを指先で押さえて目を細くした。
「酔っ払いが何か言ってますねぇ~。……ちょっとお手洗い行ってくるね」
「ん」
――男子トイレ。
鏡の前、大きくため息をついて身を屈めた。水栓から出て来る水を両手に受け止めて思い切り顔に浴びせる。ぽたぽたと水滴が鼻の先から落ちた。
顔を上げると鏡に映る血色の悪い男の顔と対峙した。
「寝不足を隠すつもりが、皮肉なものね」
ハンカチで顔と手を拭う。突出した喉ぼとけに血管の浮き出た手。それが僕だ。だから何だって話だけど。
鏡の前で身なりを整え、トイレから戻ると、西村君はおもむろに立ち上がった。
「あのさ、俐一は今身長何cmなの」
「最近測ってないないけど……180ちょっとだと思う」
「……もしかして嘉一も今そんくらい?」
「うん、カイとは身長一緒。西村君は?」
「172。……女の子みたいに小さかったくせに今じゃ高身長の男前になりやがってよぉ、さぞモテるだろうなぁ、あーーーー」
赤い顔をした西村君は投げやりになった様子で勢いよくその場に腰掛けた。
中学時代は僕が西村君を見上げる立場だったこともあって、悔しそうな表情をしている。別に身長で人の価値が変わるなんてことはないだろうに。
「西村君もモテるでしょ? 今誰かと付き合ったりしてるの?」
「いや、今はいない」
「あらー、別れちゃったの?」
「ずっと忘れらない人がいて……忘れるために他の人と付き合ってみたりしたけどやっぱりうまくいかなかった」
ここまで思い入れる人がいたなんてちょっと意外だった。妹思いの優しい人だし、顔も整っている方だと思う。あまりこういうのには苦労しなさそうなのに。
「忘れられない人か。それって、どんな人?」
「ふふぃっ……誰だろうな」
西村君は意味深に笑ってこちらを見た。
「僕の知ってる人……じゃないよね?」
「それじゃあかなり限定的になるだろ。桜中の誰かってことになるし」
「そうだねぇ」
「……桜中の奴らとかとは今も遊んだりしてるの?」
「うーん、あんまりだね。みんな何してるんだろう」
今の交友関係は大学が7割、残りの3割は高校時代の友達といったところで、中学時代の人とはほとんど会っていない。
「成人式、俺行けなかったからなぁ。……なんかさ、桜中の同窓会でもしたくない?」
西村君はみんなでワイワイするの好きな性格だったっけ、あまり記憶にない。
「そうだね、企画は西村君?」
「はは、メンバー集めるの大変そうだな。名簿と連絡先一覧が分かれば良いんだけど」
「クラスの全員に声かけるのは大変そうだよね」
「仲良い人だけでもやりたさあるけど」
西村君は何かを思い出したようにこちらを見た。
「あのさ、話戻るけど俐一は今付き合ってる人いんの?」
付き合ってる人、か。ユカさんとは違う聞き方。これは嫌いじゃない。
「あー……うん、一応彼女がいるよ」
「一応、か。付き合ってどんくらい?」
「2年くらいかなぁ」
「へー、結構続いてるね。同じ大学の子とか?」
「そうだよ、同じ中学だったし同じ大学だった。彼女は今社会人だけどね。
「…………へ? 詩音……?」
西村君は持ち上げていたグラスを一度テーブルに置いた。
「うん、詩音と付き合ってる」
「え…………まじかよ、俺の知ってる詩音?」
口ごもった様子の西村君。
「そうだよ、大場詩音」
口を「あ」の字に開けている西村君。驚くのも無理もない。当時、中学生の僕には他に好きな人がいたし、まさか詩音と付き合うことになるなんて自分を含め誰も想像していなかったことだと思う。
中学時代、僕と嘉一、詩音と西村君は家が近所だったこともあって仲が良かった。放課後によくファミレスに行ったりして遊んだ。……僕たちは友達以上の関係に進展することはなく、仲良しのまま時は過ぎ、親の転勤の関係で詩音は関西の高校へ、そして西村君は看護の道へ……。中学卒業してからはパッタリ遊ばなくなって、それ以来だ。
「……詩音こっち帰って来てたの?」
「大学からこっちで一人暮らししてるよ」
「まじか……知らなかった。てっきり今でも関西の方にいるのかと……」
「大学で会った時は僕も驚いたよ、まさかーって」
「……いつから好きだったの? 中学の頃は全然そんな感じしなかったよな?」
「いつからだろ。……大学生になってから、ちょいちょいお昼一緒に食べるようになったりして、その頃から、かな」
かの有名な大場財閥の一人娘、大場詩音。あざとさのようなものは無く、飾りっけのない美しさがある。今思えば中学の頃からそこそこ男子から人気があったと思う。謙虚で笑顔、声が可愛らしい人だ。
面影は中学の頃のままなのに、大学で見た詩音はとても綺麗で、声をかけることを忘れて自然と目で追っていた。僕は連絡先を交換し、すぐに食事に誘った。
「そっか……。詩音は……元気?」
西村君は少し遠慮がちに尋ねてきた。
「うん、元気だよ。社会人1年目でそれなりに苦労してそうだけどね」
「そうか……はは、こんなことってあるんだな。で、関係はうまくいってんの?」
「悪くはないと思うけどねぇ」
自分の手の甲、そして裸の薬指に目をやる。
もう2年付き合った。彼女は社会人になった。これから先もできれば詩音と一緒にいたいと思っている。けれど、責任という壁を前に、今の僕には一歩進む覚悟がない。怖い。本当の自分を知られたら……。一歩進んだ先にあるのが地獄だったら……。
詩音のためにもこのまま関係を続けるべきなのだろうか、と悩まないわけではないのが正直なところだ。
「ほら、灰皿。吸いたかったら吸ってどーぞ」
西村君は銀色の灰皿を指で押し出してきた。
「タバコが嫌いな人の前じゃ吸わないよ」
「我慢してんだろ、こっちが落ち着かないから吸えよ」
「そっか……悪いね、じゃあ遠慮なく」
タバコに火をつけてゆっくりと煙を吸い込んだ。満たされる感覚に体の力が抜けていく。深く息を吐いた。
詩音とのことは、まだ深く考えなくて良い、か。
西村君は追加でビールを注文して大口を開けてグビっと飲んだ。
「飲まないとやってらんないよなぁ。ね、嘉一も誰かと付き合ってるの?」
西村君と目が合う。どこか切迫した空気感だ。
「カイは自分のことあんまり話さないからなぁ」
嘉一は会社の給料のこと、恋愛のこと、僕に一切話さない。
こちらから切り出しても機嫌を悪くするだけなのは目に見えているから聞かない。自分から言ってきてくれるのを待ってるのに……本当、面白くない。
「んじゃ会ったら聞いてみよっかな」
「まだカイには会いに行ってない?」
「ちょっと仕事忙しくてさ。でも明日あたり会いに行ってみようと思ってるよ」
今日は嘉一の手術の日だった。無事成功して、今頃麻酔が切れている頃だろうか。
先程から西村君はちょいちょい嘉一のことを気にかけているようだが、嘉一は西村君のことをあまりよく思っていないように見えた。明日の再会でどうなることやら。
「そういえば…………319号室に行ってみたよ」
今日の飲みで僕が西村君に本当に話したかったのはこれについて。
でも話題が話題なだけに彼には少し飲んでもらってから、と思っていたところだった。酔ってるみたいだし、切り出すなら今で問題ないだろう。
「あぁ……どうだった?」
「記憶喪失だって言ってた。僕のことも覚えてないって」
「そうか……」
「でもそれは嘘なんじゃないかって思ってる」
「……なんで?」
「家族の写真と、女の人と一緒に写ってる写真が病室に飾ってあったから」
「あぁ。……それでなんで嘘だと思ったの?」
「普通、記憶喪失の人がフレームに入れた写真を飾るものかな。こんなこと、写真に写ってる人たちに思い入れがないとしないと思うんだよね。知らない人と自分が写っている写真を故意に飾るなんて僕は気持ち悪いって思っちゃうし」
「……」
西村君はその場で固まっている。
看護師である彼は真相を知っているはず。しかし表情から僕の仮説が真なのか読むことができない。
「ねぇ、彼はどうして入院しているの?」
「悪いけど、立場的に俺はこういうのは言っちゃいけないんだよ。守秘義務ってのがあって」
「へぇ、病室の情報は漏らしたのにね?」
「あれはしょうがなかったというか……。あ、俺が病室番号のこと教えたって、あいつに言った?」
「言ってない。偶然喫煙所から見えたからってことにしといたよ」
「はぁ……そうか」
安心したように息を吐いて、ビールを飲む西村君。
「病室番号を僕に教えたのはどういう意図があったの? まさか、記憶喪失の人に僕を会わせるのが目的じゃないよね?」
「……」
「何か飲む?」
店員さんを呼ぶために上げた手を西村君は制した。
「おい、こら、もういい。頼むなって」
「彼の病名を教えてくれる?」
畳みかけるように身を乗り出した。
西村君っは大きくため息をついた。
「それは言えない。けど……俐一はまだ絵描いてるのかな、って……あの日偶然にもあいつ俺に聞いてきたからさ……」
「……」
「それ聞いたらなんか……気が付いたらお前に病室番号送ってた……。咄嗟に知らせなきゃって思ったんだ……あぁ、何やってんだろうな」
後悔を帯びたような顔をして西村君は続けた。
「まぁ、あいつにとっては余計なお世話だったんだろうな。出来損ないの看護師の気まぐれに巻き込まれて気の毒、だよ」
「……どうして記憶喪失を装ったりしたんだろう」
やはり記憶喪失は嘘だった。ではなぜ彼は入院しているのか。
病名を教えてくれないなら、記憶喪失を装った理由が知りたい……が、この理由はだいたい察しがつく。でも……僕が思っているものと違う可能性だってある。だから、西村君の口からちゃんと聞いておきたい、と思う。
「さぁ、知らない」
「知らないって他人事だね。看護師は患者の気持ちは分からない?」
「分かんないよ」
「慈悲深い看護師さんなのにね。そういうもん……?」
「もともと妹のために看護師になろうって思った。病気で寝たきりの妹に少しでも寄り添えたらって……。実際なってみたけど、いちいち同情して患者に寄り添ってたらメンタル持たないって分かった。こう言っちゃあれだけどさ、病人の気持ちを分かろうとしたら終いだよ。看護師は本当に心の優しい人には向いてないって思う」
テーブルの一点を見つめる西村君の瞳はどこか冷たかった。
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