Melancholy Mixology
穏やかなジャズが流れている中、無心でメロディーに合わせて、水滴を帯びたグラスを白いタオルで丁寧に拭いていた。バー内は控えめな照明で照らされ、柔らかい灯りがカウンター上のグラスを幻想的に光らせている。壁にはジャズミュージシャンのモノクロ写真が飾られ、時折ライブ演奏が聞こえるような錯覚に陥るほどの生演奏のレコードが流れていた。
病室で見た――あの綺麗な緑の瞳に、細くしなやかなやや赤みがかった金髪。どこか哀愁の漂う面影は当時のあのままだった。昔と変わらず、美しかった。なのに……敬語を使われたこともそうだし、「死んだと思ってください」だなんて。
彼の髪はいつも風になびき、その瞳は笑うたびに輝いていた。しかし、今の彼は遠く、手の届かない存在になってしまったように思えて……ショックだった。何もできなかった自分にももどかしさが募る。
「ねぇ」
バーカウンターを挟んで座っている女性客が声をかけてきた。彼女は、グレーのカラーコンタクトに金髪の髪の毛をウェーブさせ胸元を必要以上に露出させるドレスを身にまとっている。
「はい」
バーテンダーである僕は、拭いていたグラスを置いて、優しい笑顔で女性に対応する。
「リー君、ソーダ割の飲みやすくて甘くてスッキリしてるやつ作ってくれる?」
「かしこまりました」
飲みやすくて甘くスッキリしてるやつ、というアバウトな注文。
この前、甘いのが飲みたいとリクエストを受けて僕好みにブレンドしたお酒を提供したが、怪訝な顔で「いやいや何これ、甘すぎる」と言われた。前の女性客は美味しそうにゴクゴク飲んでいたカクテルだったが、彼女の舌には合わなかったようだ。
人によって味に好みがあるのは百も承知だが、この人は自分の価値基準が万人にとっても当たり前だと思って生きていて、それが顕著に態度に出ている。僕の苦手なタイプだ。でも、それを顔に出すようなことはしない、なぜなら、これは客商売であり、お客さんの要望にできる限り寄り添うのが僕の仕事だからだ。
「ねぇ、あたしの名前覚えてる?」
女性客は頬杖をつきながらニヤニヤした目でこちらを見ている。必死に思考を凝らすがなかなか名前は思い出せない。客の顔は1度見たら覚えるけど名前がなかなか覚えられないのが僕の短所だ。
ユから始まる名前だったことは覚えているが……。
「ユさん」
「ユカリね」
「あはは、すいません、ユカリさん」と笑いながら謝った。
女性は水商売をしていて年齢は30代半ばといったところだろうか。ユカリというのが本名なのか源氏名なのか、それは分からない。ああ、きっと次に彼女に会ったときも、また名前を忘れてしまってそうだ。こういう状況をどう乗り切るか……名前を覚えるのが苦手な僕にとっては、覚えるべき情報量をなるべく少なくしたい。文字数も情報量の一部。だから、なるべく名前を短く、省略形で覚えておくのがベストだ。
「あの、ユカさんって呼んで良いですか?」
「え、ウケる。友達であたしのことユカって呼ぶ人1人もいないけど……いいよ! 特別感出るし」
そっと胸を撫でおろす。
「ユカさん、アマレットベースでお作りして良いですか?」
「なにアマレットって」
「杏仁豆腐みたいな味のするお酒です。好きですか、杏仁豆腐」
「杏仁豆腐嫌いじゃないけど……この前みたいに甘すぎる感じにしないでね?」
「ええ、努力します。オレンジはお好きですか」
「うん、好き好きー。え、でも杏仁豆腐と合うの? 杏仁豆腐と合わせるならサクランボとかじゃなくて?」
少し怪訝な顔をされたので、自分の頬に手を添えて耳打ちの姿勢を作って言う。
「確かにサクランボもいいですが、それだとユカさんの思う『甘すぎるお酒』になってしまうかもしれないです。実は、オレンジジュースは杏仁豆腐リキュールの隠れたベストパートナーなんです。一度試してみる価値ありですよ」
「試します……」
ユカさんはそう言うと照れたように目をそらして下を向いてしまった。
アマレットとオレンジジュースを丁寧に計量し、冷やされたミキシンググラスに注ぐ。グラスに氷を加え、長いバースプーンで静かに、しかし確実に混ぜ合わせる。このステアリングは、カクテルの深みを引き出し、香りを均一にするための重要な工程だ。
次に、ソーダを氷に当たらないようにグラスのふちの方からゆっくりと注ぎ、カクテルに軽やかな泡立ちと爽快感を加える。そして、ソーダの炭酸が抜けないように優しくステアする。
「こちらをどうぞ」
ウォッカ増し増しのカクテルをカウンターに置いた。ユカさんは手に取ると香りをかいでから口をつけて飲んだ。
「ん……。なにこれ、美味しい……!」
ひとまず口に合ったようで一安心である。
「ボッチボールというカクテルです」
「ドッチボール?」
「ボッチ、です」
いつも一人でくる君にはぴったりの名前のカクテルだね、と心の中で皮肉を呟いた。
「ねぇ、リー君?」
しばらくして、カクテルに少し酔っぱらったのが甘え口調でユカさんは声をかけてきた。
「はい」
「いい加減教えてくれても良いじゃん、彼女いないの?」
彼女、ね……。また、この手の質問か。
「ユカさんはいないんですか?」
「あーあたし? ホストの彼がいたけどね、店に来ないなら無理とか言われて面倒くさくなって先週別れちゃった。なんなの、まじムカつくよね、恋人にも金をせびるとかあり得なくない!? あたしは、自分の店で会おうなんて一度も言ったことないのに! 結局金だったんだよ、あたしは所詮多くいる中の1人でしかないってことでしょ?!」
彼女の爆弾トークに、僕は内心でため息をついた。このバーに来る理由は、単に話を聞いて欲しいだけなんだろう。でも、そこには深いユカさんの孤独が透けて見える。
「あらら。そんなホスト、別れて正解じゃないですか?」
「だよね、だよね!! てかそもそも付き合うなら男は女に奢るもんじゃん普通は! でもあいつ、あたしより稼いでるくせに出そうとしないの! しかもあたしの息子がさ――」
彼女のグチに耳を傾ける一方で、僕の心はどこかで退屈していた。性別で人を区別し、それに基づく期待や責任を押し付けるこの種の話は面白くない。そうやってなんでも「こういうものだ」という枠に当てはめるて考えるから、そうやってイライラするんだよ。
適当に相槌を打ちながら、店内を見渡すとカウンターの端に座っている客の男と目があった。黒いハットを被った彼は常連だ。でも話したことはないし、名前も知らない。彼とは今みたいに時折目が合うことがあるが、30代くらいだろうか。端正な顔立ちのその男はゆっくりタバコに火をつけ、手元のウイスキー――アードベックのロックに手を伸ばしながら煙を吐き出した。その姿は、まるで古いノワール映画のワンシーンのようで、なかなかに渋い。
「ねぇ、リー君聞いてる?」
「あ、はい、聞いてますよ」
「それでさ、元彼が――」
――数時間後。
ユカさんがたどたどしい足取りでタクシーに乗ったのを確認したところで僕の勤務時間は終了した。
バックヤードで、充電が3%になった携帯を手に取り、画面を見る。その光が、一瞬だけ病室の彼の姿を思い起こさせた。僕は深く息を吸い込み、その記憶を心の奥にしまう。
『お疲れ。急だけど明日空いてる? 俺休みだしもし暇だったら飲みに行こうぜ』
西村くんからのメッセージが未読の1番上に来ていた。
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