False Memory Loss
西村君からのメッセージが頭から離れず、足を進めながらもあらゆる可能性が脳内で渦巻いていた。
僕と西村君の共通の知り合いだとしたらやはり中学時代に一緒だった誰かということになるだろう。誰なのか、そしてどのような病状なのか……。先ほどの西村君の曇った顔が過る。今までのやり取りの感じから察するに、入院してるくらいだし嘉一みたいな軽傷ではないと思う。助からない病気ということもあり得る。
溜息をついた。
……そんな病の人の前に立って、僕はどんな顔をすれば良いというんだ。とてもじゃないがポジティブでいられる自信なんてない。負の感情に心を支配されるくらいなら、知らないままの方が良い。319号室に誰がいるのかというのは気になるが、あまり深く考えるのはやめようと自分に言い聞かせながら嘉一のいる507号室に戻る。
思考を振り払うように、もう一度ため息を1つ漏らして扉を開けると、嘉一が訝し気にこちらを睨みつけてきた。
「おい、これどういうことだよ。ふざけてんのか」
左手には「地蔵大百科」が握られている。
この反応、すると思ってた。込み上げる笑いを我慢しようとしたが、耐えきれず吹き出した。
「あはは! えぇ、だめだった? 面白そうな本が欲しいって言ってたから選んだんだけど」
「どこが面白そうなんだよ、ひたすらつまんねーよ。せめて漫画でも買ってきて欲しかったわ」
乱暴にベッドに叩きつけられた地蔵大百科はボサッと音をたてた。
「地蔵みたいに安静にしてれば骨も早くくっつくでしょ。この本は治療にも役立つと思って買ったの」
「は? 治療が必要なのはそのイカれた頭の方だろうが……」
百子は呆れ顔で苦笑いしている。
「2080円」
嘉一に向けて手を差し出して催促する。
「あ?」
「プロテインと本の代金」
「プロテイン分はいくら」
「835円」
「じゃあその分だけ払う」
「ねぇ、ももちゃん。人にもの頼んでおいてこれってどう思う?」
「俺払う必要ないよな?」と、すかさず嘉一が言う。
「まぁ、気持ちも分かるけどこれから入院生活で俐一には頼まないといけないことも出てくるだろうし、迷惑料だと思って払っておいたら?」
「はぁ!? こんなろくでもない本のためにかよ」
嘉一は口をあんぐり開けた。
百子の言うことは絶対だから、今回は僕の勝ちだ。
「リーってこういういらないちょっかいかけてくるところ本当面倒だわ。この前だって朝起きたら顔に違和感あって鏡見たら絵具塗りたくられてたんだぞ……クソすぎ」
「まじか」
「お化粧してあげたんだよ、なかなか似合ってたと思うけどね」と言うと、嘉一からの視線が突き刺さった。
「俺は化粧なんてごめんだ。迷惑料で相殺しろ」
「やだ」
「……。ごめん、姉ちゃん財布取ってくれる?」
「ん」
根負けしたのか、百子から財布を受け取った嘉一はしぶしぶお金を渡してきたのでそれをありがたく受け取った。
「あはは、ありがとう。まぁ大丈夫、この本から得られるものがきっとあるよ」
「少なくとも金は失ったけどな」
「僕より稼いでるんだからいいじゃん」
嘉一は無表情のまま、フっと鼻息を吐いた。
いかにも「まあな」と言いたげな表情に見える。稼いでいない僕を下に見て悦に浸ってるんだ、なんて考えてしまうのは僕の性格が捻くれているからだろうが、嘉一は根がまっすぐで正義感の強い性格だ。ぶっきらぼうではあるが、優しいから多少のいたずらは文句を言いながらも許してくれる。……でもいつからだろう、彼からどこか心を開いてくれていないような、
こうやって嘉一にちょっかいを出してしまうのは……彼の距離を置いたような態度への苛立ちゆえのものかもしれない。
「ちょっとお手洗い行ってくる」
「うん」
百子は席を立ったが、付いて行くにもさすがに女子トイレまでは無理だ。病室に2人になった。嘉一は無言で携帯を左手で操作している。ここは病院だ。決して空気は明るくない。
特に話すこともないので携帯を操作して溜まっていたメッセージなどに目を通していたがトーク一覧の1番上にいるのは「西村卓」。
「そういえば、さっき西村君に会ったよ。ここの看護師やってた」
共通の話題があれば、この微妙な空気も少し和むかもしれない。
「西村って……西村卓?」
嘉一は眉間のあたりをピクっとさせた。
「そうだよ、懐かしいよね」
「へぇ……何話したの」
「かるく、近況をね。タバコやめた方が良いって言われちゃった」
「そりゃな……。詩音もあんま良い顔してなかったぞ。不健康だし、寿命縮めるし」
「僕がタバコで死ぬのと、嘉一が試合で殴られて死ぬの、どっちが先だろうね」
「言っておくけど、相手は元プロだったんだぞ。もし俺の代わりにリーが今日の試合してたら死んでただろうな。お前貧弱だし」
「僕が出た方が良かった?」
「なんでそうなるんだよ」
「……西村君、嘉一元気かって気にしてたよ」
「これが元気に見えるかよ」
嘉一は包帯に釣り上げられた腕を僅かに動かした。
「ほら、動かしたらだめ。地蔵! 地蔵!」
「めんどくせぇ」
「あー、西村君に部屋番号教えておいたから。看護師様の慈悲を受けて元気になれると良いね」
「……は、なに勝手に!」
「ん? 何か不都合でもあった?」
「はぁ……」
それは大きなため息だった。嘉一はふてくされたような表情をしている。
「もしかしてボコボコの顔を西村君に見られるの、恥ずかしいの?」
「骨折して最悪な気分なんだ。できるなら誰とも関わりたくないんだよ今は。あぁ、クソ」
低めの、僕には出せないようないかにも不機嫌そうな声に少し違和感を感じる。
仲の良かった2人の様子がフラッシュバックした。
「気持ちは分からなくもないけど……あんなに西村君と仲良かったのにね、なんか寂しいよ」
「昔の話だろ」
嘉一は下を向いて爪をこすり合わせてカチカチと音をたてている。
西村君には病気の妹がいた。嘉一はその妹をよく可愛がっていたっけ。思い出を塗り重ねていくうちに過去の出来事は色あせていくが、嘉一の態度は何と無しにあっけない。
「なぁに、も・し・か・し・て、西村君に好きな子でも取られちゃったとか?」
「は? んなわけあるかよ」
「……じゃああたしそろそろ帰るね」
いつの間にか戻ってきていた百子は、鞄を肩にかけて言った。
「あー僕も帰るよ、今日バイトあるし」
まだバイトまでは時間があるけれど百子が帰るなら僕も帰る。嘉一は不機嫌そうだし。
「なんか……今日は悪かったな」
嘉一は舌打ちをかました後、こちらに背を向けた。
「嘉一イライラしすぎじゃない? やっぱ牛乳買っておいた方が良かったかもね」と百子はひそっと耳打ちしてきた。
「ね、カルシウム不足はイライラの元だからね」
「おい! 聞こえてんぞ!」
あぁ、怖い怖い。
逃げるようにして病室の扉をシャッと閉める。そしてまっすぐ歩いて20秒、エレベーターに乗る。
ボタン付近に立った百子は「1階」のボタンを押し、その後「閉める」ボタンに触れた。エレベーター中央にある階数を示すランプが点滅していく。5、4、3……――3階。
『319号室』。……西村君からのメッセージが脳裏に過る。が、ランプは一定速度で点滅しながら2、1と移動していった。僕は黙ってただ目でランプを追っていた。
「今日の夜ご飯何にしようかなぁ……」
病院を出た百子は大きく上に伸びた。
日は落ちてきている。晩御飯の香りがどこからともなく漂ってくる。
「ミートボールが食べたいな」
嘉一が一応、ご飯を作って冷蔵庫に入れておいてくれているが、ほとんどが鶏肉だ。たんぱく質が豊富で、脂肪が少ないとかなんとかで。最初のころは僕も食べていたが次第に飽きて、受け付けなくなってしまった。
「ミートボールか、今度ね。……最近ちゃんとしたもの食べてる?」
「もちろん。栄養満点のジャンクフード食べてる」
「心の栄養にはなるかもだけど体には毒だろ……。ちょっとなら時間あるから何か作っていこうか?」
ちらっと病院の方を見る。
「大丈夫だよ、もうカイの件で今日はお腹いっぱいだから」
「……あんま無理しちゃだめだからな」
ぶっきらぼうな言い方だけれどどこか暖かい百子の言葉が心に染みる。
「大丈夫。百ちゃんも今日は大変だっただろうし早く家に帰ってゆっくりしてよ」
「嘉一の奴、まじやってくれたよねぇ……。でも骨が折れただけで良かったよ……血だらけだったし死んじゃうかと思ったから」
百子は口を一の字にぎゅっと結んだ。
「まさに骨の折れる弟だね、嘉一は。……あのさ、百ちゃん」
「ん?」
「もし嘉一が今日の試合で本当に死んじゃってたらどうする?」
先ほどの嘉一との会話を思い出しながら尋ねる。
百子は僕と嘉一を対等に見ている。だから嘉一が死んじゃった時の反応は、僕が死んだ時と同じ反応になる、と思う。
「たらればの話が好きだよね、あんたたちは。……立ち直れないくらいには凹むと思うよ。俐一もそうでしょ?」
「そう、だね」
足元を見た。道路の黒と動く白い僕の靴だけが視界にいる。
……百子のことは悲しませたくない、と思う。
でも僕の中のこのモノクロームな世界が広がり続ける限りは……ふと消えてしまいたいと思ってしまうことがある。生きる意味って何だろう? このどうしようもない感情を切り離すことができない。
「……危ないよ、前見て歩かないと」
「あぁ、ごめんごめん」
はっと前を見ると百子と目が合った。風になびく髪と憂わしげな瞳からは生命の強さを感じる。僕と違って百子が前を見て歩けるのはきっと……。
手を伸ばして、前の少し膨らんだお腹に触れた。
「な、なに」
立ち止まり硬直した百子は少し驚いたような声を出した。
「ふっ……何でもない」
自分も誰かを育てる立場になれば……。少しは自分に価値を見出せるだろうか。未来を見れるだろうか。今の百子のように……なんて。
そっとお腹から手を離して横にある喫煙所に目をやった。
「僕妊娠してないからタバコ吸ってから帰るね」
「なんだそれ。……じゃああたし妊娠してるからそのまま帰るね」
「健斗さんによろしく」
「ん。……嘉一のこと頼んだよ」
嘉一は社会人だけど、学生の僕を百子は下に見たりはしない。嘉一の「兄」として見ている。うん、とその場で返事をして、僕たちは解散した。
喫煙所でタバコに火を付ける。まだ完全に日が落ちているわけではない。ぼうっと空を見上げていると、病院の窓から暇そうに外を見ている老人が目に入った。そしてその隣の窓には……。一瞬窓にかすめたその横顔に息を飲む。ウ……ソ……。
驚きの反動で地面に落ちたタバコを拾い、そのまま灰皿に放り入れた。意思とは関係なく自然と動く身体。僕は病院の中へと足を運んでいた。
319号室の前のネームプレートを見て確信に変わる。ぐっと唾を飲み込んだ。
呼吸を落ち着けてノックを2回したが応答はなかった。恐る恐るゆっくり扉を5cm
ほど開いて中を覗いてみるが人影はなかった。
「……」
部屋はもぬけの空だった。
先ほどまで、確かにここの部屋にいたはず。その証拠にテーブルの上には飲みかけのコーヒー、そして写真が2枚飾られていた。1つは家族写真であろうもの、そしてもう1つは、肩まである髪の女性と一緒の写真だ。
部屋に奥に入り、写真に近づく。この女性、誰だろう。そっと手を伸ばすと、病室の入り口のドアが開いた。
「っ……!」
点滴の棒がカシャンと細い音を出す。
「……」
「……」
目が合って2秒後、言い訳を考えて脳内がグルグルしていたが、先に口を開いたのは相手からだった。
「なに……してるんですか」
「え、あ、ごめん勝手に入って!」
緑色の瞳が確実に僕を捉えている。
心臓の鼓動が大きく全身に響いている。
「弟が入院してて……さ。偶然、喫煙所から窓に映ってるのが見えて……その……」
「そうですか。……あなたはボクの知り合いの方、ですか?」
彼はぽかんとした顔で言った。
「え……?」
「実は記憶喪失でして……」
「そうなの……?」
「はい。だから、申し訳ないのですがあなたのことが分かりません。あなたの知っているボクはいません。だからもう彼は死んだ……と思ってください」
彼はそう言うと、ゆっくり目を伏せた。
「ここにいるのはどうして? 何かの事故?」
「すみませんがお引き取りいただけますか」
「……」
「もう……ここは来ないでください。昔の知り合いであろう人を前にすると……息が詰まって苦しいんです。一人にさせてもらえませんか」
悲痛な表情だった。言葉に詰まる。
「そうか。ごめん、お邪魔したね……」
彼との会話はそれで終わった。
病室を出る足取りは重く、心は混乱と失望でいっぱいだった。
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