俐一視点
The Secret Room No.319
薬品の匂いが仄かに香る大きな白い建物――病院に入り、エレベーターに乗る。個室に入ると、ショルダーベルトを装着して右腕を包帯でガチガチに固定している
姉の百子は僕を見ると横に一歩ずれて、スペースを作ってくれた。
「カイ……大丈夫?」
「なんとか」
嘉一はばつの悪い表情で短いため息をついた。
「荷物、ここに置いておくね。下着とかいろいろ入ってるから」
嘉一の横たわるベッドの横に持ってきた荷物を置く。
「俺のクローゼット勝手に漁ったわけ?」
「だめだった? 着替えないよりマシじゃない?」
「……」
「僕の下着で良かったらいくらでも貸すけど」
「それなら着替えない方がマシ」
嘉一は顔をしかめながらふっと息を短く吐き、自由が利く方の手で腕に巻かれている包帯をなぞった。
「折れたの鎖骨なのにさ、なんで腕まで包帯してるの? 包帯してる自分かっこ良いとか思ってるタイプ?」
「動かすと、痛てーから腕も固定してんだよ……」
半目の嘉一。今日の試合で殴られたのだろうか、目の上はぱっくり切れ、周りは青く腫れ上がっていて見るからに痛々しい。
嘉一と顔は瓜二つの僕。自分も殴られたらこんな顔になるんだろうか、なんてありもしないことを呑気に考えてしまう。この状態だと1人で着替えるのも大変だろうに。殴り合い、蹴り合いのキックボクシングなんてよくやるもんだ。
「明日手術だってさ」
百子は浮かない表情で携帯の画面を見ながら前髪をかきあげた。真っ赤な口紅がトレードマークの百子だが、今日は少し口紅が剥げているように見える。弟の試合を応援に行った矢先に、1ラウンド目にKOを決められて大怪我を負う始末じゃ心穏やかにはいられないだろうし、化粧も崩れてしまうのも無理もない。嘉一も気の毒だがそれは百子にも言えたことだ。病室にはどんよりとした空気が漂っていた。
「入院はいつまでだっけ?」
「今日から1週間だって」と、嘉一の代わりに百子が答えた。
脳内でカレンダーを表示させた。現在、嘉一とは2LDKのマンションでルームシェアをしていて2人暮らし。嘉一が入院するならその間は一人暮らしになる。もともと生活リズムが合わないから、居ても居なくてもあまり変わらない気がするが、家事は分担していたのでゴミ出しや料理などは1人で何とかしなければならない。
「ふーん、1週間ね。鎖骨の骨折ってそんなかかるんだね」
「折れ方が良くなかったみたい。リハビリ期間含めて完治まで3ヶ月くらいかかるってさ」
「えぇ、そうなんだ。……仕事大丈夫なの?」
嘉一に問いかける。
「仕事は片手でもできるから長く休むつもりはないし、有給もあるし、第一貯金もあるから大丈夫。今回の治療費も俺が払うし何も心配はいらない」
嘉一はそれを、質問者の僕ではなく百子に向かって言った。
百子は幼い頃に母親を亡くした僕たちの母親代わりとなって面倒を見てくれた存在だ。もうこれ以上迷惑はかけられないといった意志の強さが語気を強めた言葉にのせられている。嘉一は今年、社会人になって金銭面では自立した。仕事、有給、貯金……か。それに比べて僕は――。
「こういう時のために保険に入っとけば良いって言ったのに。貯金が減らずに済んだんじゃない?」
こんな皮肉しか言えない。
「うるせえ」
「会社には連絡入れた?」と百子。
「まだ。今日休みだし電話しても誰も出ないと思うから後でメール入れとく」
「文字打てる?」
「左手なら自由利くからなんとかする」
嘉一の利き手は右だから、しばらくは生活に支障が出るだろう。色々手伝わなきゃいけなくなりそうだ。でも、誰かの世話を焼くのは嫌いじゃなかったりする、こんな自分でも少しは誰かの役に立ててるのかな、と思えるから。
「右手使えないうちは僕がご飯食べさせてあげれば良いのかな。ほら、カイ君。あーんしてってさ」
「やめろや」
嘉一は露骨に嫌な顔をして言った。
「ヒドくない? こんなに心配してるのに。牛乳にストローでもさしてちゅーちゅー吸っときな」
「なんで牛乳がそこ出てくるんだよ」
「え? だってカルシウム不足だから骨折ったんでしょ」
ふっと笑って窓の外を見る。日曜の夕方、雲一つない空はオレンジ色をしている。車のクラクションの音が遠くで聞こえる。弟が大けがをしたけれど、こうして見ると世の中の日常はいつも通り。
あまり眠れていないせいか、夕暮れの空が眠気を誘発させたので、口元を手で隠し大きなあくびを一つ漏らした。
「俺がカルシウム不足なら、リーは寝不足じゃん」
「あたしには食事が不足してるわ。……お腹空いたから何か買ってくる。買ってきてほしいものある? 嘉一は牛乳?」
百子が財布を片手に尋ねて来た。
「姉ちゃんまで言うなよ。……牛乳はいらない。パックのプロテインあったら買ってきて。後なんか面白そうな本とかあればお願い。お金は後で渡すし」
「ん」
「百ちゃん、僕も付いていって良い?」
「いいよ」
エレベーターを降り、僕は百子と共に病院の1階にある売店へと向かった。僕はいつも、彼女の後ろ姿を追いかけていた。年齢差は6歳。170cmほどの身長に流れるようなロングヘア―。彼女の頬にかかる髪をかき上げる仕草は、色っぽくて格好いい。姉の振る舞いはいつも凛としていて大人びており、同時に優しさも感じられる。いつかこんな風になりたいと、僕はずっと思ってきた。憧れの気持ちを胸に、本当は姉のように髪を長く伸ばしてみたかった。でも、それは叶わぬ願いのままだった。
さらさらと歩くたびに揺れる髪に目をやる。僕はいつも美しい姉の顔、髪、仕草を目で追っていた。だから、たとえ売店に行くだけでも、僕は姉と一緒にいたいんだ。
「僕が持つから」
「ありがとう」
百子からカゴを受け取って売店の冷蔵庫に並んでいるプロテインをいくつか入れた。身長は同じだけど格闘技をやっているからか、僕と嘉一の体格には差がある。家のリビングには壺みたいな入れ物に入ったプロテインがいくつも置かれている、バカみたいに。入院してまでプロテイン飲む必要、あるのだろうか。
一通り買うものをカゴに入れたので最後に、棚に置かれている「地蔵大百科」を手に取ってフィニッシュだ。
「……これ」
「ん……?」
会計を済ませた後のことだった。
百子は財布から3万円を取り出して僕の手のひらの上に置いた。
「あたしも仕事があるし、嘉一の面倒いつも見られるわけじゃないから。しばらく不便かけると思うけどこれで許して」
「いいよ、こんなお金受け取れないって……」
申し訳なさからお金を突き返すが、百子はすでに財布を鞄の中にしまっていた。
「学生のうちは甘えときな」
整った顔、控えめな笑顔。僅かに開いた口から見える歯は真っ白だった。
「そんな……いいの?」
「嘉一には内緒ね」
「……ありがとう」
百子は、6年間の交際を経て、嘉一が社会人になるそのタイミングで健斗さんと結婚した。健斗さんは、もともとは百子の会社の同期で、転職して今は大手のメーカーに勤めている人柄の良い立派な人だ。長い間の交際だったので、いつ結婚してもおかしくない状況だった。しかし、彼女が嘉一の社会人としてのスタートを待ってから結婚を決めたのは、僕たち兄弟への配慮からだったそうだ。結婚後は、姉弟で過ごす時間は自然と減ってしまったが、百子は今でも僕たちのことを変わらずに気にかけてくれている。
「ここって喫煙所ある?」
買い物袋を片手に病室に向かう途中、案内板の前で僕は立ち止まった。
「ここ病院だし、ないんじゃない?」
「目指すべき所は喫煙所じゃなくて禁煙外来だったりしてね、ここ病院だし」
「どこでも良いけど行くならいってらっしゃい。あたし先戻ってるから。これもらうし」
百子から買い物袋を渡すようジェスチャーを受ける。
「重いけど持てる?」
「持てるわ、どっかの誰かさんと違って骨折れてないから」
「ふふっ」
買い物袋を百子にパスした。
もともと僕がタバコを吸い始めたきっかけは百子が吸っていたからだった。百子のことが大好きで一緒にいたかったから僕は喫煙所にも付いて行った。一緒に喫煙所に行ったり、ベランダで他愛もない話をしながら煙草をふかすことができるのは自分だけの特権のようで嬉しかった。嘉一は吸わなかったから尚更だ。
でも今は百子のお腹には健斗さんとの子供がいる。子供ができたタイミングで百子はタバコを吸わなくなった。今後一切吸うつもりもないらしい。
ニコチン中毒になってしまった僕を置いて、買い物袋を持った姉はエレベーターの中に消えていった。
案内板に目をやる。
喫煙マークを探すがマップ内には見当たらない。
「あの……すいません……」
その時誰かに声をかけられた。
声の先にはブルーのメディカルウェアに身を包んだ見覚えある顔があった。当時の記憶を辿り、顔と名前を一致させる処理を脳内で行う。
「あ……に、西村君……?」
男はパアっと笑顔になって「そうそう! …えっと……俐一、の方?」と返してきた。
迷われたのなんていつ以来だろうか。
容姿で僕たちが瓜二つだったのは中学までの話。顔のパーツの配置は同じだが今となっては髪型も体型も違うし、性格の違いが容姿ににじみ出ていることもあって、双子だと気が付かれないことも多い。
「俐一の方だよ」
「やっぱり。どっちかなって思ったけど雰囲気的にそうかと思った。一瞬名前出てこなくて焦ったわ。久しぶりじゃん。なんか……背、ずいぶん伸びたな。それに声も……」
西村君は中学の同級生だ。嘉一と3年間同じクラスで仲が良かったこともあって、僕たちは度々遊んだ。こうして会うのは何年振りだろうか。病弱な妹のために将来は看護師になりたいと当時から言っていて、高校は看護の5年一貫校に進学したんだっけ。
卒業以来連絡は取ってなかったが、病院で出会うということは彼が順当に進んだ証拠だろう。
「そのメディカルウェアはコスプレ?」
「そんなわけないだろ! ……今年で3年目だよ。俐一は今何してんの?」
「夢叶えたんだ、立派だね。僕は今、ここに立ってる」
両手を広げてアピールする。
「ったく、そういうのじゃなくて……働いてんの?」
「……まだ学生だよ。大学院生やってる」
現在僕は芸術を学んでいる。
文系で大学院へ進む人はあまり多くない中で進学を選んだのは、単純に社会に出たくなかったから。特に就きたい職業があるわけでもない。1日8時間以上拘束され、自由を奪われるくらいならまだ学生として生きていたかった。
同世代では既に社会に出て働いている人がほとんどだ。そんな彼らと……たいした理由もなく進学して、ただ生きている自分を比較して情けない気持ちになる。
「へぇ、俐一は専攻とかあるの?」
「芸術、だね」
「絵上手かったもんな。大変?」
「そうだね、わりかし大変、かな」
これはある意味、嘘だ。理系はどうだか分からないけれど、文系の大学院はさほど大変ではない。芸術を選んだのも、それを本当に学びたかったというよりも、自分が今までやってきたことに親和性があるからだ。西村君、キミは学生時代からの夢を叶えて、今は働くこと、人のためになることに自分の価値を見出しているんだろう。立派なこった。でも僕は……?
大学院生になって本当に大変なのは、自分の生きる意味を探すことについてだ。
「大学生はなんか楽そうだって思ってたけどな、大学院となりゃ話違ってくるもんなのかね。……ところでなんでここに来てるん?」
「カイが骨折して入院になったからその見舞いにね」
「え、嘉一骨折したの?」
「うん。カルシウム足りてないみたいで」
「カルシウムかぁ……。嘉一は元気?」
「元気だったらここには来てないと思うけど」
「はは、まぁ確かにそうだな。何号室にいんの?」
「507号室だよ」
「5階か」
「会いに行ってやってよ、きっと喜ぶから」
「んーそうだな。俐一は今帰り?」
「いいや。ちょっと探しものがあって……」
「何をだよ」
「喫煙所」
「え……吸うの?」
露骨に驚いた顔がこちらに向けられた。
「長生きしたくないからね」
「おいおい、ここ病院な。縁起でもないこと言うなよ」
「ふふ、ごめんごめん。嘘だよ」
「あの俐一が……。まじかよー、まぁ、芸術系の人って喫煙者多いっていうもんなぁ。もしかして嘉一も吸ってたりすんの?」
「カイは吸ってないよ」
「そっか……。吸ってても良いことないしやめた方が良いぞ、まじで」
西村君は複雑な表情を浮かべてこめかみのあたりを小刻みにかいた。
なかなかこうしてストレートな表現をしてくる人はいない。僕を気遣って言ってくれてることだというのは分かるが、それは余計なお世話だ。
「それは僕の身体を気遣って? さすが、看護師さんの言うことは慈愛に満ちてるね」
「看護師でも結構吸う奴多いだよ実際……なんだかな。……余計なお世話って感じだろうけどさ、実は知り合いが今3階にいて、さ」
「知り合い? そうなんだ、入院してるの?」
「いや、なんでもない……。つまり、何が言いたいかっつーとさ……俺はあんまり友達とかにはここに来て欲しくないんだよ。だから身体には気を付けろよってこと、若いんだから」
「大丈夫だよ。タバコやめるのなんて超簡単だし。だってこれまでに100回はやめてるんだから」
「はぁ……ったく。喫煙所は外にあるよ、院内は禁煙だから。入口出て右の方歩ってけばある」
「分かった。ありがとう看護師さん」
「あ、俐一、良かったら連絡先教えてよ。今度飲みに行こう」
「ナンパ?」
「あぁ、ナンパ」
西村君と連絡先を交換し、喫煙所に向かった。
灰皿のある場所付近に立ち、タバコに火をつけ吸い込むと白と黒でできた灰がじわじわとタバコの白の部分を飲み込んでいった。
携帯のバイブが鳴る。送り主は西村君からだった。
『319号室』
何の前触れもなくいきなり送られてきた5文字に一瞬固まるがすぐに返事を打った。
『なに?』
『会うか会わないかは任せる』
西村君からのメッセージはそこで終わった。
319号室……さっき言ってた3階にいる知り合いの部屋番号だろうか。もしかしてその人は僕の知り合いでもある……? だとしたら同じ中学の人……? 誰だろう。
激しく胸騒ぎがした。
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