After The Rain

風丸

プロローグ

Monochrome World

 真っ白のキャンバスの前に立つ時、世界を一から彩ることのできる創造者になった気分になる。



 だから、絵を描くことが好き



 その瞬間は寂寞じゃくまくたる現実の冷たさを忘れることができるから。



 水気のない刺々とげとげしい風が容赦なく肌に切り傷をつけるの現実世界。優しく、温かい世界の中で生きていたいのにそれが叶わない世界。だから、作る。心の願望をパレットに映し出し、暖色系の色を並べ、筆先に水滴を滴らせて潤いを与える。

 浅く呼吸を反復させながら絵の具を筆に絡め、虚構の白いキャンバスに静かに鮮やかな色を落とした。あぁ、これだ、確かに、確実に色づいていく。作品が完成に近づくにつれ心は満たされていった。描かれた風景画には、鮮やかで温かな世界が広がっている。こんな世界はきっと存在する。いつか……こんな世界に行けたなら、と陶酔とうすいする。絵に向き合うこの時間だけは、生まれてきたことを素直に喜べるような気持ちになれた。

 でも、完成間際になるといつも自分にはどうしようできない感情が溢れ出してくる――。



 「この絵は僕には綺麗すぎる」



 あまりにも完璧なその世界に、嫌悪感が鳥肌となって現れ、吐き気が込み上げてくる。気づけば、筆に無造作に絵の具を絡め、パレットの上でかき混ぜ、鮮やかな色彩の風景画を無残に塗り替えていた。



 結局、完成した絵はどこか暗いトーンで、自分の歪んだフィルターを通じて見えている黒ずんだ世界をそのまま写しているかのようになってしまう。



 この世界はまるで絵の具のようだ。人々の感情や出来事には、それぞれ色が付いている。思いやりや愛情には鮮やかな色が、憎しみや怒りには暗い色が割り当てられる。しかし、この2つの対立する色を混ぜ合わせると――暗い色が常に勝ってしまう。負の感情は常に強い。少しでも黒が混じれば、どんな色もその本来の輝きを失ってしまう。美しく眩しい光さえも、わずかな黒が加わるとすぐに消え失せ、鮮やかな日常を瞬時にモノクロの世界に変えてしまうのだ。



 鮮やかな色は僕には似合わない。自分の存在、愛はそもそも美しくない。



 なぜなら、僕は他の人とは違うから。



 全く、どうしてこんな風に考えてしまうのだろうか。自分の性格の捻くれ具合には我ながら呆れるものだ。昔から何事を楽観的に捉えることのできない性格。しかし、そんな捻くれ者が描いたモノクロの絵には、皮肉なことに高い評価が付けられ、数々の賞を受賞した。

「美しくも繊細。タッチが丁寧で、風景を深く観察している。心を温かくするような絵だ」などという評価もあった。「暖かい」という言葉がもたらす強烈な違和感に、審査員たちの評価を内心で嘲笑ったこともある。誰も分かっちゃいないんだ、僕がどんな気持ちでこの絵を描いたかなんて。



 自分の絵を他人に見せることは、自分の弱さを曝け出すことのようで苦痛だ。だから僕は人目を避けて一人で絵を描くようになった。絵は自己満足のために描いている。でも完成した絵はどうしても好きになることはできないという矛盾。もういっそやめてしまおうかと思ったこともあった。でも今でも筆を持つ手を離さないのは……。



『この絵は美しいと思うよ』



 という言葉があったからだ。完成した絵を見て彼はそう言った。

 評論家たちの言葉は、しばしば僕の心には響かない。評論家たちの洗練された言葉は、しばしば僕の心には届かない。彼らの言う「美しさ」や「繊細さ」は、僕が描いた絵の真の感情を理解していないように感じる。しかし、評論家でも何でもないあなたの単純な『この絵は美しいと思うよ』という言葉は、何故か心に深く響き、忘れられない。



 今、9割がた出来上がっている絵の前に僕はいる。

 眩しいくらいの鮮やかな美しい絵だと思う。しかし、いつものように喉元を掻き毟りたくなるような、耐え難いむず痒さが込み上げてきて、パレット上で色々な色を混ぜ合わせてしまう。そして果てしなく黒に近い色が出来上がる。筆にそれらを絡ませて目の前の絵を見た。あぁ、結局この作品も部屋の隅に放りつけられていると同じ道を辿るんだろう……。

 あぁ、Hoppets Vingarホーペッツ ビンガー。いつかあなたのように、画集を出せるくらい、自分の創作に心からの光を見出せる日が来ればいいのに……。



 その時だった。



『ブーブー』という音に導かれて描画を止め、胸ポケットから携帯を取り出す。ディスプレイには、姉の百子ももこの名前が表示されていた。

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