Trigger
「じゃあ詩音は今一人暮らしなんだ」
「うん」
祝日の月曜日。夕方のファミリーレストラン。ランチタイムが過ぎ、僕たち以外にはあまり客がいなかった。僕たちが都合のつく時間がこの時間帯だったから仕方ない。他の3人はソフトドリンクを頼んでいたが、僕だけはハイボール。グラスに口をつけながら、西村君と詩音の会話に耳を傾ける。
「でもさ、一人暮らしするにもそこから通ってたら職場から遠くない?」
「もう少しお仕事頑張って昇格できたら会社の近くに引っ越したいなって思ってるんだけど……今は貯金とかしなくちゃで……」
詩音は現在、父親の所有するマンションで一人暮らしをしている。家賃が無料なのは大きなメリットだが、それにより職場までの距離が遠くなってしまっている。時間をかけての通勤は大変だが、それでも彼女は毎日しっかりと仕事に励んでいる。
「そんなん親に甘えれば良いのにな。詩音は親の会社継がないの?」
「会社は弟が継ぐよ。私は……自分の力で頑張ってみたくて。俐一君も絵、一生懸命頑張ってるし」
詩音は僕の顔を見つめて微笑んだので、微笑み返してみせるが僕の心は複雑だった。絵を描いているのはただの自己満足のためだ。しかし、満足のいく作品を現状作れていない。詩音は自分の将来のために一生懸命に働いているのに対して、自分は……。また人と比べて劣等感に浸っていく。
あぁ、そんな目で見ないでくれ。虚しさがこみ上げる。複雑な感情を押し殺しながら、僕は目を逸らし、苦笑いした。
「ホントに謙虚で頑張り屋なところは変わってないよな」
西村君はふっと短くため息を漏らし、グラスの氷をストローでつついた。
「そんなこと……ないよ……私なんてまだまだで……」
詩音はややうつむき加減になりながら口ごもっている。
「詩音は本当に頑張り屋さんだよ。……最近深夜まで働きづくめでさ、終電なくなることも多いからそういう時はうちに泊まってもらってるんだ。僕は夜バイトで家にいないことが多いんだけどね……カイはいるからさ」
「へぇ……」
西村君は嘉一を横目で見た。
「なんだよ」と嘉一は西村の視線に気が付き、ややぶっきらぼうな口調で反応した。
「なーんか俺以外で遊んでて良いなぁって思ってさ。俺も今度家遊びに行っても良い?」
「もちろん良いよ」
僕はそう返したが、嘉一は少し間を置いてから、まじかよ、と呟いた。眉間に皺が寄っている。
別に家に人をあげるのなんて何度もしてきたわけだし、この表情の意味が分からない。病院でのこともそうだったがやはり嘉一は西村君のこと……もしかしたらそんなに好きではない、のだろうか。今日この場に来たのも、僕たちに合わせてくれているだけなのかもしれない。
「なんだよ、嫌?」
西村君は嘉一の態度に口を尖らせた。
「そういう訳じゃない……けど」
「西村君に何か見られたくないものが何かあったりしてね」
冗談交じりに言うと、嘉一はいぶかし気な表情で僕を見た。
「は? 自分だって人のこと言えんのか? 俺が部屋入ろうとした時めちゃめちゃ怒ってきたくせによ……それこそ何か隠したいものがあるんじゃないの?」
「ノックしないで入ってくるからでしょ? デリカシーない人はモテないよ」
僕はハイボールを飲み干しておかわりをオーダーした。
「あの時は寝ぼけててドア間違えただけじゃん。……そもそもさ、前から言いたかったけど詩音が泊まりに来た時だって、リーが不在の日には部屋に基本入れないもんな。どんだけ秘密主義なんだよ」
「絵は見られたくないから……」
「それだけかよ? それだけのために?」
「……」
「リビングの硬いソファーで寝る詩音の気持ち考えたことあんの?」
「いいよ私は! ソファー好きだし……」と咄嗟に詩音が間に入る。
「僕のベッドは1万だけどリビングのソファは5万だけど?」
「おいおい、兄弟喧嘩はやめろって」
西村君は苦笑いしながら手で僕たちを制した。
嘉一は詩音の方をちらっと見た後、視線を横にスライドさせた。彼の視線が動かないので、嘉一が見ている方向に目を向けると、詩音に近づいてくる男が一人姿を現した。
「詩音ちゃんだよね!? 久しぶり! 俺のこと覚えてる?」
金髪の派手な男はさっそうと僕たちのテーブルの前に立ち、詩音の顔を覗き込んでいる。
「あ、うん。久しぶり、だね」
詩音は僕たちの顔色を一瞬伺いながら遠慮がちに返事をした。
「えー本当に覚えてる? 俺の名前言ってみ?」
「俊介君……だよね」
「そうそう! いやぁ何年ぶりだろ、やばい」
男は目を輝かせながら詩音のことを見ており、まるで僕らは眼中にない。残された3人でアイコンタクトをして通じ合う中、詩音は気まずそうに僕たちに男を紹介した。
「私の友達で……親同士が仲良くて」
「そっか」
満面の笑みで対応する。
自分の彼女がチャラそうな男に話しかけられている。正直いい気分ではない。でも、西村君とカイの前でその感情を露わにするのは恥ずかしいと感じたため、余裕を装っているふりをした。
「詩音は関東で就職したんだって? 親父から聞いたけど」
「うん。俊介君も?」
「俺は親父の会社の役員やってる。てかさ、こっち戻って来てるって知って連絡しようとしたのに電話番号使われてないとか出ちゃってさ。携帯変えた?」
「あ、うん。携帯落としちゃって……」
「じゃあ連絡先教えてよ」
詩音は再び、僕たちをちらっと見て申し訳なさそうに小さく苦笑いした。
僕は黙って目の前のハイボールを飲んだ。
「あっちにヒロたちもいるし、ちょっと顔見せてあげてよ」
「あぁ、えっと……」
「あ、すいません詩音借りていいっすか?」
男は初めて僕たちに視線を向けた。
「いいよ、行ってくれば?」
「ごめんね、すぐ戻るね」
詩音は男に連れられて行ってしまった。僕は小さくため息をついた。
「俐一。……良いの?」
西村君は眉間に皺を寄せながら聞いてきた。
「……友人関係について僕が口出しするほどのことはないよ」
「懐が広いねぇ。あの男、友人見る目で詩音を見てなかったけどな」
正直僕もそう感じていた。苛立ちを抑えつつ、グラスを取ったが、既に空だった。
「……リーが詩音のこと好きじゃないだけじゃね」
嘉一は感情のこもっていない声で言った。
「は……?」
何を言ってるの……?
僕たちのことをずっと見てきた嘉一からの言葉に驚きを隠すことができない。
「何でもねーよ」
「ちょっと、どういうこと? さすがにその発言は意味が分からない」
「だってそうだろ。詩音明らかに困ってただろうが。彼氏なら一言あっても良かったんじゃねーのかよ」
「親同士仲良いってことは経営者繋がりかもしれないじゃん。僕が何か言ったことで2人がギスギスして親同士の関係に亀裂入ったらどうするの? せっかくのビジネスチャンスの喪失に繋がる。日本経済も破綻するかも。本当、そういうところ社会人の癖に先読みもできないの? 筋トレばっかしてないで脳みそを鍛えなよ」
「俺はリーが払えないくらいの金をジム、プロテイン、サプリの消費に使って経済回してる。少なくとも、大学院で絵ばっかり描いてるお前よりは日本経済に貢献してると思うけど」
「カイ……調子に乗らない方が良いよ?」
「喧嘩すんなって。な?」
西村君がなだめる声が聞こえたが、それでも嘉一の発した言葉、「……リーが詩音のこと好きじゃないだけじゃね」という一文は、僕の心を突き刺す矢のように響き、僕を不愉快にさせるには十分すぎるものだった。
詩音が戻って来てからも気分が晴れることはなく、西村君が何度かこちらを見て、僕の様子をうかがっているようだったが、会話も、飲み物も、全てがどこか遠くで起きていることのように感じられ、僕はただただその場に座っていた。終始、どこかギスギスした状態で気が付いたら夜になっていた。
「詩音の分は俺が出すよ、ここまで来るのに交通費かかったろ」
会計時、嘉一が詩音の分まで払おうと財布を出した。
「え、いいよそんなの! 自分で払うから良いから」
「詩音の分は僕が払うよ」
僕も負けじと財布を出して、百子からもらった1万円札を引っ張り出した。
なんで詩音の会計を嘉一が払う必要があるのか。嘉一は僕と詩音を引き離そうとしている可能性があると思った。そして、あはよくば詩音を取ろうなんて考えているかもしれない。よりによって双子の弟に……絶対許せない。嫌だ。
「そんな……いいのに……ごめんね」
詩音は申し訳なさそうにうつむいた。
「全然良いよ、詩音の恋人は僕だから。ファミレスくらい安いもんだしね」
いかにも周囲に聞こえるように言いながら嘉一の顔を見ると、彼は、忘れ物を取りに行くと席に戻った西村の姿を怪訝そうな顔をして見ていた。ここまで睨みつけなくても……やはり嘉一は西村君のこと……――。
なんて思いながらも僕たちは4人は間もなく解散した。あの一件があったせいで、帰り道、嘉一との間にはほとんど会話がなかった。その沈黙は重苦しく、なんとも言えない緊張感に包まれていた。
――帰宅後。
「ポストに入ってたやつは一式まとめてここにおいてある」
「分かった」
「これは秋ちゃんからお土産だって。あと漫画も預かってる。返したいって」
「お、おう。秋なんか言ってた?」
「別に」
「そうか」
退院帰りにそのままファミレスに寄って帰ってきた嘉一は久しぶりの帰宅となる。荷物を片付けている嘉一と事務連絡程度に会話をして、そそくさと自室に戻った。
1万円のベッドに仰向けになり、スマホを操作する。今日、4人のグループチャットができた。西村君から「楽しかった! また飲もう!!」と投稿されている。正直、僕は後半のほとんどは楽しめなかった。あんな最悪な気分になるならもう嘉一抜きで良いと思うが、空気を読んで僕も西村君と同じように投稿した。そしてこの微妙な気分をごまかすかのように詩音に個別チャットした。
『今週末、どこ行く?』
僕たちは今週末、デートをする。
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