After The Rain

 ――数か月後。



 まぶしい朝日で目が覚めた。

 昨日はバイトが終わり、明け方に帰ってきたがまだ外は暗く、カーテンを閉めるのを忘れていた。お昼時、半袖でちょうど良い気温だ。午後にある授業の準備をしなくては。むくっと起き上がって、天井に伸びをした。



 昨日は少し嬉しいことがあった。ユカさんの息子――以前、スキンシップが苦手で彼女に振られてしまったと話していたカエデという高校生が店にやってきて、僕を見るや否や、菓子折りを渡してきた。理由を聞くと、彼は言った。「あの時、俐一さんから言われた言葉に励まされました。嬉しかったんです、『誰も君の代わりにはなれない』って言ってくれて。相談、聞いてくれてありがとうございました。俐一さんに会えて良かったです」と。

 あの時は、相手が高校生ながらにしても一人の客として、普通に接客をしていたつもりだったが、まさか自分の言葉が、菓子折りを用意するほど彼のためになっていたなんて思っていなかった。高校生なりに頑張ってバイトをして僕のために菓子折りを買ってきてくれたんだと思うと申し訳ない気もするが……。

 僕はずっと、バーテンダーとしてアルコールを作り、客を酔わせることが自分にとって価値のあるものだと思えていなかった。でも、こうして自分の言葉で少しでも救われた人がいるのだとすれば、それは素直に嬉しいことだ。



 こんな僕にも、人のためにできることがあるんだ。



 そう思えた。



 希翼も亡くなる間際にそんなことを言っていたなぁ、とぼんやりと思い出しながら、机の上の詩音からもらった筆にそっと手を合わせた。



「昨日さ、嬉しいことがあったんだ。接客向いてるのかな」



 じっと筆の細部を眺めながら、詩音に語り掛けるようにつぶやいた。

 あの雨の日、一度地面に落としてしまったこともあって、やや毛先の方は汚れてしまっているが、高級感は保たれたままだ。あれから周りの人の助けもありメンタル面は少しずつ回復し、今では学校や大学にも行けている。しかし、普通の生活をするのがやっとだったこともあり、ずっと絵を描いていなかった。こうして「筆」として使わずに、ご神体のように机に飾っておくのが正しいのだろうか、分からない。



「もったいないもの、使えないよ」



 これは詩音の忘れ形見なんだから……。詩音への愛情を思い出しながら筆の持ち手を指先でなぞると、横に切れ込みがあることに気が付いた。切れ込み……なんで筆に切れ込み……。

 軽くひねってみると筆は上下に分かれる仕掛けになっていた。筆の中央部分は空洞となっており、そこから一枚の小さな紙切れがゆっくりと滑り出てきた。心の準備もなく、その紙切れに書かれた言葉を目にした。



『俐一くん


 いつも、本当にありがとう。一心不乱に絵を描く俐一くんを私は尊敬しています。前にゴミ箱に入っていた絵、勝手に持ち帰っちゃった、ごめんね。すごく上手だったし捨てるにはもったいないって思っちゃって……今は私の家の玄関に飾ってます。毎日、仕事に行く前に見てるんだ。元気もらえてるよ。

 これからも素敵な絵を描き続けられますように、その願いを込めて筆を送ります。


 大好きです。


 詩音』



 脳内で詩音の声で再生され、胸が詰まった。手紙を持つ手が震えている。



「僕のあんな絵を……飾ってたなんて」



 以前、百子が「何かの中に本当のプレゼントを入れて相手に渡すこと」が流行っていると言っていたが、このタイミングで気が付くなんて。君もだったんだね……。目から涙が溢れる。付き合っていた時、詩音は僕を自分の家に入れることを少し躊躇しているように見えていたけれど、それは僕の絵を持ち帰って飾っていたからだったんだ……。



「ありがとう、ありがとう……」



 胸の位置に手を当てて、心を込めてそう呟く。

 手紙を慈しみを込めて筆に戻し、詩音に送る予定だったネックレスをそっとその中に流すように入れると、じゃりじゃりと音を立てて入っていった。

 久しぶりに物置から取り出したイーゼルを部屋の隅に設置し、筆を手に取る。絵具を優しく筆に含ませ、思うままにキャンバスに色を滑らかに乗せていく。その瞬間、詩音の手がそっと僕の手に重なるような幻想が心を掠める。彼女の温もりが伝わるかのように、筆はキャンバスを鮮やかに彩り始める。絵を前にした詩音の穏やかな微笑みが目の前に浮かぶ。僕は微笑み返してキャンバスに目線を移した。彩られたキャンバスを前にして僕は温かい何かを感じた。長い間忘れていた、絵を描く喜びを思い出したかのような……。僕はやっぱり、絵を描くことが好きなんだ。詩音……。筆を目の前に持ってくると、中のネックレスがじゃりじゃりと音を立てた。



 その時だった。スマホが振動し、芯珠さんからメッセージが入った。それは、週末の展示会の案内だった。どうやらたくさんの有名な画家の絵の展示会を実施するらしい。

 なんで僕に……。あぁ、あの時――。希翼が亡くなった日、芯珠さんに自分が絵描きであることを伝えていたっけ。思い出して、わざわざ案内を送ってきてくれたのか。

 有名な画家の絵なんて、間近でなかなか見ることはできない。何か得られるものがあるかもしれない。僕は行きます、と一言返事を打った。



 ――――――――――――――――――――――――――――



 展示会に到着する。さすがに有名な画家たちの絵というだけあって、会場はかなりの人が訪ねていた。スタッフたちが忙しそうに動き回っている様子が見てとれる。芯珠さんもどこかにいるのだろうが、姿は見当たらなかった。

 展示会には画家一人当たり2、3点の大小さまざまな絵が飾られていた。僕は入り口から通路に沿って飾られている絵に目を通していった。夕暮れ時の公園でベンチに座りながら本を読む老夫婦の絵、古い木造のカフェで窓際の席に座る若い女性の絵、星空の下、小さな漁船が静かに湖面を漂う絵、窓辺に立つ猫の絵――。有名な画家なだけあって、どれも見事なものだった。

 そして1つの作品が目に付いた。男の人が白いシーツに腕を置き、うつ伏せになって寝ている。色鮮やかに描かれたその男性は自分にそっくりだった。その作者は――Hoppets Vingarだった。



「え……」



 その絵のタイトルは『ぐずついた絵描き』。



 放心状態でしばらくその場に立ち尽くしていると、芯珠さんが隣に来た。



「この人、俐一だよね」


「……」



 再度絵に目をやるが、写真に近いその絵は紛れもなく自分だった。



「芯珠さん、これってどういうことですか」


「スウェーデン語で、希望の翼って書いて『Hoppets Vingar』って言うんだよ。うちの父親がつけた画家としての希翼の名前」


「……」



 僕がずっと尊敬して、崇めていた存在が希翼……? だって、彼は弓道をやってて、そんな素振り1つも……。

 言葉が出ない。



「画家なんだよね、父さん。だからそれもあって、私もそうなんだけど、小さい頃から絵を無理やり描かされてきたんだ。……私は全然だったんだけどさ、希翼は幼稚園の頃から芽が出て色んな人から評価されるようになって……画集まで出すようになった」


「嘘……」


「ふふ。でも、急に希翼は絵を描くことをやめちゃったんだよね。反抗期ってやつ? 強制的に描かされてたっていうのもあると思うけど、自分がHoppets Vingarだってことも隠すようになっちゃって……。もう希翼は絵を描かないんだって父さんも諦めてた。でも、最後に希翼のノートを病室で見つけてさ。合間に描いてたんだろうね、昔と同じ、希翼の絵がそこにはあったよ。これと、これ」



 芯珠さんは先ほどの絵と、もう一つを指さした。そこには太陽に照らされた色あざやか虹が描かれていた。タイトルは『After The Rain』。



 希翼がノートに何か書いているのを見たことがある。日記かと思ってたのに。あのノート、スケッチブックだったんだ……。分からなかった。



「僕……Hoppets Vingarの大ファンで……1回画集を希翼の病室に置いて来てしまったのもがあって……それで、……それでっ……」



 色んな感情がこみ上げてきてうまく言葉にできない。

 その代わりに彼と交わした会話が脳内に呼び起こされる。



 ――『でもたとえ亡くなってても、残された作品は僕の中では生き続けているから』


 ――『バカみたいな話かもしれないけど、ここにいる自分を想像して救われた気分になるんだよ……この人の作品に出会えて本当に良かった』



 僕は彼がHoppets Vingarだって知らなくて、こんなことを言っていたけど、希翼はきっとこれを聞いて嬉しかったんだ。だから……。



 ――『俐一の言葉で、もう少し生きてみても良いかもしれないって思えた。ボクにもまだ何かできるんじゃないかって、そう思えた』


 ――『俐一の言葉で気づかされたんだよ。少しだけ動く身体でも、まだできることがあるんじゃないかって思えたんだ』



 手で目の部分を押さえた。そういうことだったのか……。だから、最後に絵を……。



「なんで最期に虹を描いたんだろうね。あいつらしい絵だけど」



 芯珠さんは『After The Rain』の絵を見ながらそう呟いた。僕もその絵を見た。

 画面に広がる湿り気を含んだ土の地面、そこにできた水たまりが太陽の光を反射し、水たまりに映る世界を、宝石のように輝かせていた。

 そして画面に大きく描かれた虹……。その色彩は非常に鮮やかで、雨後の空の清々しさと希望を感じさせる。この虹が、画面全体に溢れんばかりの生命力を与えており、それは紛れもない、僕の大好きなHoppets Vingarの絵だった。



「あの時は梅雨時だったから……。きっと、虹が見たかったんだと思います」



 そして、僕に虹を見せてくれてありがとう。希翼……。に残って良かった。握り拳を固めてただ、その見事な絵に魅入っていた。



 芯珠さんはその後、案内やなんやで別の場所に行ってしまったが、僕はしばらく希翼の絵の前に立ち、深い感慨に浸っていた。

 そしてその深い思索から解き放たれ、もう帰ろうとしたその時、見覚えのあるお腹の少し膨らんだ女性を発見する。この人、どこかで……。しばらく考え、答えが出た。希翼の元カノだ。



「あの……!」



 人混みを掻き分け、咄嗟に声をかけていた。



「はい?」



 マタニティマークをつけたその女性は驚いた様子でこちらを見た。



「あの……希翼の……希翼の彼女さんですか?」


「あ、えと……元、ですけど。あなたは?」



 女性の爪は絵具で汚れていた。そして少しよれた服を着ていたが、物腰は柔らかく、丁寧だった。



「希翼と中学が同じでした。月城俐一と申します。えと……希翼と一緒に写ってる写真を見たことがあって……ごめんなさい、反射的に声をかけちゃいました」


「あ、あぁ、そうなんですね。でも彼はもう……」


「はい、知ってます。……残念です」



 女性は少し悲しそうな表情をしながら、ゆっくりとうなずいた。



「聞いて良いのか分からないんですけど、お腹のお子さんは……」


「あぁ、はい。彼の子ですよ。別れた後、妊娠が分かって……」


「……」



 そうなのかなと思っていたが、やはり……。こちらとしては複雑な心境だ。独り身で子供を育てていくつもりなのだろうか。こうしてマタニティマークをつけているということは……。



「育てていくですね」


「経済面からも両親には産むのはやめておけと強く言われてます。でも赤ちゃんまでいなくなったら私には何も残らないと思って……」



 女性は自分のお腹を少し困った顔で撫でた。



「じゃあ、産んでからは……」


「……産んだ後のことは分かりません」



 女性は目をふせている。



「……」



 彼女なりの事情があるんだろうというのは分かる。どう言葉をかけて良いのか分からなかったが、このまま彼女を返したくない、と思ってしまった。



「何か、僕にできることはありませんか?」


「え……そんなこと言われても……」


「力になりたいんです」



 詩音と希翼がこの世を去った後、孤独と絶望の淵に立っていた僕を救ったのは、周りの人々の小さな優しさだった。そして、今、この女性の前に立っている自分が、誰かの支えになれるかもしれない。カエデにできたように、自分にもできることがあるかもしれない、という思いから出た言葉だった。



 女性の目は驚きで見開かれていたが、僕の意思は固かった。

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