Damp Weather
翌日のことだった。
玄関の開閉音で目覚めた僕は目を擦りながらリビングに向かった。嘉一がいない。恐らく買い出しにでも行ったのだろう。
窓に目をやると、相変わらずの雨だった。そして時計に目をやると昼過ぎだった。ここ最近、不安や悲しみで眠れていなかったこともあって、久しぶりの熟睡だ。天気とは裏腹に心なしか気分は幾分かマシになっているように思う。
コーヒーを注いで一口飲み、テーブルに置かれていたプロテインバーをかじった。美味しくはない。
喪失感や罪悪感は時が解決してくれる。そう分かっていはいても、現状の苦しみにはやはり抗うことはできない。でもこうして、何か食べようと思えるというのは少しの進歩だと思う。
死後の世界についてぼんやりと考える。もし本当に死後の世界があったとしたら……。人は完全に忘れ去られたときに初めて死ぬのだと大学の教授が言っていた。だとするなら、きっと僕にできることは詩音のことを想い、忘れないでいることだろう。
部屋に戻り、詩音からもらった筆を机に置いて、静かに手を合わせた。
昨日、マンションの上から手すりに足をかけた時、これが落ちたから僕は手すりの内側に身を引くことになった。まるで詩音が僕の背後から手を伸ばし、僕を引き戻してくれたような……。理性的で、現実主義者の僕は、目に見えないものを信じるなどということはなかった。しかし今、僕の心は変わりつつある。詩音の存在を信じ、彼女が何らかの形で僕を守ってくれていると感じることで、心が少しずつ軽くなるような、一歩ずつ前に進む勇気が湧いてくる気がする。すがったって良いじゃないか。信じることで救われることだってあるんだ。僕は再度手を合わせた。
ふと書棚に入っていた
と考えているときに、ふと電話が鳴り、驚いて本を落としてしまった。ディスプレイには芯珠の名前が画面に映し出されている。僕は静かに電話を取った。
なんとなくそんな予感はしていた。直観というのは怖いものだ。
僕は急いで家を飛び出した。彼との思い出がフラッシュバックする。出会い、一緒に過ごした放課後、そして再会……昨日の、僕を諭すような優しい表情と口調……。
廊下を駆け抜け、病室に到着すると、片付けられている荷物が最初に目に入った。ベッドの上には、点滴が外れ白いシーツに包まれ、安らかな表情をしている希翼がいた。彼の家族が希翼を取り囲い、涙しながらその姿を見つめていた。
僕に気が付くと家族は間を開けてくれたので会釈をして、彼に近づいた。ひどく頬がこけ、やせ細っているが、まるで眠っているかのような表情だった。
ゆっくりと希翼の手を取った。
「希翼……」
希翼の名を呼ぶが、返事はない。そして手の温もりもなかった。昨日はまだ温かかったのに……。目の前が霞んでいくように感じた。一気に現実を突きつけられたような気分になり、思わず声が漏れる。
「俐一、ありがとう。弟がお世話になりました」
目を真っ赤にした芯珠さんが僕にそう言った。
「僕は何も、してないですよ」
「ううん、俐一が来てくれるようになってから希翼は笑うことが増えたから。……最後まで希翼のお見舞い来てくれたの、俐一たちだけだったし」
「たち……」
その時だった、病室のドアが開かれて入ってきたのは、買い物袋を持った嘉一だった。
「カイっ……」
「おう……」
知らなかったけど、嘉一も希翼の見舞いに顔を出していたということだろう。
嘉一は、無表情で希翼の家族に会釈すると、僕の横に無言で並んだ。そして僕の肩に嘉一の手が回された。嘉一の顔を見ると、感情を必死で押し殺しているのが伝わってくる。僕も嘉一の肩に手を回した。
「希翼、みんな来てくれたよ。良かったね」
芯珠さんは希翼の頬を手で撫でた。
「……」
「今朝急に容体が悪くなっちゃってさ。びっくりだよ」
「そうだったんですね……」
昨日、ちゃんと会えて、お礼を言うことができて良かった……。
「……希翼は僕を救ってくれました。絵を描き続けられたのも、彼のおかげなんです」
自分の絵がどうしようもなく自分で受け入れられなくて、でも絵を描くことをやめてしまうのは自分のアイデンティティを失うようで……。そんな中で、絵を描き続けれられたのは彼が僕の絵を美しいと言ってくれたからだ。ありのままの自分を受け入れてくれるようで嬉しかった。
僕は彼の言葉に救われてきた。昨日だって……。
「そっか。俐一も絵描くんだね。あ、良かったらお花、添えてあげてくれるかな。きっと喜ぶと思うから」
芯珠さんに花を差し出されたので、そっと希翼の顔のそばに置いた。
色鮮やかな花に包まれた希翼の顔を見て、涙が頬を伝った。楽しく生きたいと彼は言った。安らかなその眠り顔からはそれがまるで体現できたかのように思える。
しかし、この世は残酷だ。なぜ、この人は早くこの世を去らなければいけなかったのだろう。大事な人との道をあきらめさせなければならなかったのだろう。希翼は良い人だった。希翼は「もっと生きたい」と言ったのに……。奪われてしまった。
「どうして良い人ほど早く亡くなってしまうのかな」
ぼそっと出た言葉。
偉大な功績を残した人や心優しい人ほど、この世を去るのが早い。どうして……?
芯珠さんはこちらを見て優しいまなざしで静かに言った。
「分からない。でもただ、言えることは、摘まれていく庭の花は、いつも1番綺麗な花だっていうことだよ」
その言葉に再び涙が溢れる。詩音もたくさんの花を添えられていた。彼女の穏やかな微笑み、希翼の優しい眼差し、二人の笑顔が、心の中でひとつに結ばれる。希翼と詩音は、もうこの世にはいない。でも、彼らは僕の心の中で、きっと生き続ける。彼らの笑顔、彼らの言葉、彼らと共に過ごした時間は、僕の中で一番美しい思い出として永遠に咲き続ける。
「……僕は希翼のこと、忘れません」
詩音は僕にたくさんの思い出とともに筆を残してくれた。
希翼には、そうした形ある遺品はなかった。けれども、彼が僕に残してくれたものは、目に見えるものではなく、心に深く刻まれたものだった。僕は彼の名前を心に刻み、彼の思いを胸に、これからの人生を歩んでいきたい。そう思った。
「うん。……時々思い出してあげるときっと喜ぶと思う」
芯珠さんは涙声になりながらも微笑んだ。
僕たちは静かに彼のベッドの側に立ち、しばらくその場に立って悲しみに浸っていた。
葬式は親族で執り行われるそうで、僕たちは希翼に心からの別れを告げて病院を出た。
「……いつまでも、慣れたもんじゃないな。人の死ってのは……」
嘉一はぼそっと呟いた。
「うん……そうだね」
まさか、今日になるなんて。
心の準備はできていたつもりだったのに、やはりショックは大きい。でもそばに嘉一がいるだけで、幾分か心の支えとなっているように思う。
「ちょっと前に見舞いに行った時は笑顔だった」
「僕も昨日行ったときは笑ってたよ」
「エバ、何か言ってた?」
「……どうせ人は死ぬって。じゃあ最期まで少しでも楽しく生きてやろうって、笑いながら、そう言ってた。僕もなれるかな、希翼みたいに」
ビニールの傘越しに空を見上げる。空から無限に雨粒が降り注いでいる。
「……なれるよ」
「楽しく生きられるかな」
「あぁ……きっと」
僕は嘉一の言葉を聞きながら、自分自身の内面と向き合っていた。
「もう僕には空っぽで何も無いのに……?」
「これからまた満たしていけば良い」
「うん……」
僕たちは沈黙を保ちながら、雨に濡れた道を歩き続けた。水たまりに足を踏み入れる度に、希翼との思い出が心を揺さぶった。彼の死が僕たちに与えた空虚感は大きかったが、それでも前に進むしかなかった。
「リーはこれからどうなりたいの」
「分からない。でも……」
「でも……?」
「雨が止むまで待ってから考えるよ」
僕たちが歩く度に、水たまりが波紋を描いた。
「明日も雨だぞ」
「止まない雨はないって希翼が言ってた」
空は灰色で、雲は重く低く垂れ込めていた。しかし、どんなに厚い雲に覆われても、その上にはいつも太陽が輝いている。
そう思いながら空を見上げると、雲の隙間からわずかに光が差し込んでいるのが見えた。
僕たちは、ゆっくりと歩みを進めた。
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