Kept Alive By Something
「俐一……どうしたの」
何週間ぶりかで戻ってきた病室は、相変わらず時間が止まったかのように静謐に包まれていた。壁の時計の秒針の音だけが、この静けさをかき乱す独唱のように響いている。ベッドに横たわる希翼の顔には病の進行が見て取れる。鼻には管が刺さり、頬はこけて目鼻立ちが際立っている。手は細く、静脈が透けて見えるほどになっていた。蛍光灯の冷たい光が、その蒼白な顔を浮き彫りにする。
少し来ない間にこんなにも……。彼の声は張りを失い、一言一言が力を欠いた重い布のように空気に沈んでいくが、それでもどこか慈愛に満ちた響きを残していた。
「恋人を失った。天国に……行ったよ」
声を詰まらせながら、その事実を希翼に告げる。
冷たい雨に打たれ、衣服は体に張り付くほど湿り、涙と顔についた雨水が区別できないほどに混じり合っていた。
「そう……か」
希翼は弱々しく、静かに言った。大切にしてあげて、と言われたのに……僕はそれができなかった。病室には、言葉にできないほどの重たい空気が満ち渡り、息苦しさを増していった。
「希翼もそう、長くはないんでしょ」
窓の外の雨が降りしきる中、その言葉は細く病室に響いた。
希翼は何も答えず、ただ静かに頭を垂れ、沈黙を続けている。もはやどれほどの時間が残されているのか、自分でも分かっているのだろう。
あぁ、どうして皆僕を置いて行ってしまうの……? やるせない気持ちが溢れてくる。
「僕ももういっそ追いかけたい……もうこのまま死んでしまいたい」
「俐一、こっちに来て」
「え……」
希翼に言われるまま、近づくと白いタオルで雨で濡れた個所を優しく拭われた。
「身近な人を亡くすのは、確かにつらいことだ……。それが恋人なら尚更」
自分も同じような経験をしたから、僕の気持ちに同情してくれているんだろう。でも、彼は恋人のことを想って別れを自ら選択した。そしてその彼女はまだ生きている。でも僕は――。
「彼女のために生きていこうって決めた矢先にこれだよ……。希翼との約束も守れなかった。もう生きる意味が分からない」
半ば投げやりな感情になる。
「ボクも分からないよ、生きる意味なんて」
「希翼も……そう思うんだね」
雨の音がただ病室に響く。
肉体を持つというのは苦しいことだ。肉体を持つことで、時間という概念が生まれて、終わりなき閉塞感に苛まれる。地球に生を受けたこと自体が、苦しみの沼に浸るということを意味しているように思う。そして今も、生きる意味が見出せないからこその苦しみを抱えている。別にこの世に生まれたいなんて思って来てる訳じゃない。恩着せがましく、産んでやったなんて言われる筋合いはない。
「でも俐一の言葉で、もう少し生きてみても良いかもしれないって思えた。ボクにもまだ何かできるんじゃないかって、そう思えたんだ」
不意打ちの言葉にその場で硬直する。
「え……なんで? 僕が何を言ったの?」
これまでの記憶を思い起こすが、心当たりが全くなかった。
ほっそりした希翼の手が僕の手首を捉えた。
「俐一、話を聞いてくれる?」
希翼の声には、ほとんど力がなかったが、その目は何か重要な秘密を共有しようとする意志に燃えていた。
僕は黙ってうなずく。
「ボクが記憶喪失のフリをしたのは……自分が惨めだったからだ。日に日に悪化していく容体に絶望してた。痩せて、腕の血管が浮かび上がってきて、痛くて、苦しくて、ただ酸素を吸って二酸化炭素を吐く。気力も湧かないし、何もできないまま……植物のようにだんだん弱りながら、枯れながら、憐れまれながら生きていくのが嫌だった。こんな姿のボクを誰が受け入れてくれるのかって。時計の針が進むにつれて時間の経過の残酷さを思い知らされたよ」
希翼は何かを思い出しているようで目線は宙を仰いでいた。視線を病室の床に落とす。
絶望しているのは僕だけじゃない。希翼だってまた違った苦しみの中で生きている。自分の感じる苦しみに追いやられ、そのことを忘れていた。
「もう誰にも気にかけて欲しくなかったんだ。もう終わりにしたかった。だから携帯を解約して、家族以外の知人や友達との関係を全部絶った。真剣に将来を考えた恋人とも。あとは……ただ最期を待つだけの状態になった時、自分で点滴の針を抜こうとしたよ……でも、直前で怖くなって、できなかったんだ……」
僕の手首を掴んでいる反対の手で、希翼は自らに繋がれている点滴の線を指でなぞった。
希翼の心臓の鼓動が、ピッピッピという機械音に乗せられて病室に反響している。
「どうしてだろうね。……いくら死にたいって思っても恐怖の方が勝ってしまう。俐一は死ぬのが怖くない?」
「……怖いよ。僕も……できなかった」
先ほどの光景を思い出した。
どうしようもない絶望に胸が押しつぶされて、気力という気力を奪われた。呼吸をするのもつらい。解放されたい。その一心だった。でもそんな状況の中でも、体が硬直して動かなかったのは……死ぬのが怖かったからだ。
「でも、生きてる限りは苦しいよ。ずっとこの苦しいのが続くなんてもう耐えられない。楽になりたい……。怖くてもほんの一瞬、勇気を出せば、そうすれば……」
必要なのは、覚悟だ。それさえあればきっと……
「ボクは思うんだ。死ぬのが怖いのは、死後の世界を本能が知ってるからじゃないかって」
「どういうこと……?」
「死後の世界の方がつらいから、ボクたちは死ぬのが怖いって無意識に思っちゃうんじゃないのかなって」
「死後の世界なんてあると思う?」
「もしあったら? 俐一はさっき『天国』って言葉を使ったよね。それは死後の世界とは違う?」
「……」
「死ねば楽になる……本当にそうなのかな?」
病室の無機質な床の模様を目で辿る。
「それは……死んだ人に聞かないと分からないね」
「そうだね。でも死んだ人たちは教えてはくれないから、自分で確かめるしかない。苦しい思いをして自ら命を絶って、更なる苦しみがその先に待っていたとしたら……。そう思うと怖くて、ボクは点滴の針を抜くのは諦めた。死ぬことが怖いし、生きることも苦しい。もうどうしようもない状況になってた。……でも、人間はいつか死ぬってことを思い出したんだ。結局最後は自然に、無事に死んでいけるって」
視線を彼の顔へと向けると、そこにはどこか解放されたような、穏やかな表情があった。そうだ、どうせ僕も死に急がずともいずれは死ぬ。そう思うと少し解放されたような気分になる。
希翼は僕の目を見た。
「手を貸して」
最初は手首を軽く掴むだけだった彼の指が、じわりと手のひらへと滑り込んでくる。指と指が絡み合い、彼の手がしっかりと僕の手を包み込んだ。
「あ……」
雨で冷え切った手が僅かな希翼の体温によって温められている。
「どう?」
希翼は繋がれた手を見ながら優しく尋ねてきた。
「どうって……」
「感想は?」
「細い」
「他には?」
「少しあったかい……」
「そうでしょ、生きてるからね。あったかい」
希翼の表情が柔らかくなる。
突発的な行動に目をぱちくりしながらも、手を離せずにいると、希翼の震える指先が僕の手の甲をとんとんと叩いた。
「ボクの爪を見て……。3日前に切ったのに少し伸びてきてる」
目線を希翼の爪の方に向ける。血色は悪いが、長方形の長細い綺麗な形をした形は確かにやや伸びていた。
「そりゃ爪だし……伸びるでしょ」
「そうだね。何もしなくたって爪は伸びるし髪だって伸びる。病気にやられて、もう先のことは見えてるはずのなのに……いっそのこと早く消えて無くなってしまいたいっていうボクの意思に反して、身体は生きよう、生きようとしてるんだ」
希翼の穏やかな呼吸のリズムに合わせて、白い掛け布団が静かに持ち上がり、また沈んでいく。心音を示す、ピッピッピという音が脳内にこだました。
繋がれた自分の手に目をやると、血管がピクピクと無意識に振動しているのが分かる。
「無意識のうちにボクたちは守られてる。身体にも、心にも」
「心にも……?」
「俐一、『死にたい』と思うことはね、実際に自分を傷つけないようにするための、心の防衛手段なんだよ」
「……どういうこと?」
「苦痛が大きくなりすぎると、心は『もう耐えられない』と感じる。その時、『死にたい』という思いが生まれるんだ。でもそれは、実際に自分を傷つけることを防ぐためのサインなんだよ。心が、『待って、まだ生きる方法があるかもしれない』と言っているんだ」
「でも、死にたいと思うから、それを実行しちゃうんでしょ……」
「本当に死を望んでいる人は、多くの場合、その思いを言葉にはしない。『死にたい』と口にできるということは、それが求めのサイン、救いの手を探している証拠なんだよ。無意識のうちに、僕たちの心は自分自身を守るためのシグナルを発している。つまり、心に守られてる」
「守られてる……」
そっと繋いでいない方の手で胸元に触れた。僕は心に守られていた……? どこかじわじわと苦しさが和らいでくるような感覚になり、涙が込み上げてくる。
「生きる意味なんて分からない。でも、こうして何かに生かされてるとしたら……。生きることに意味なんて無理に求めなくても良いんじゃないかな。もういっそ、どうせなら最期まで少しでも楽しく生きてやろうって、最近はそんなことを考えてた」
「そうか……そうだよね」
生きる意味を必死で探すことに疲れ果てていたけれど、その意味を見つけることが全てではない。僕は無意識に心と体に守られている、生きることを許可されているという事実に、淡い感謝の気持ちが湧き上がってきた。
希翼の瞳に映る自分自身を見つめた、僕の表情は柔らかいものになっていた。深く息を吸い込むと、長い間抱えていた重い感情が、ゆっくりと軽くなっていくのを感じた。
やはりそうだ、彼の言葉には不思議な力がある。どうしてだろう、彼の言葉はどうして僕の心をこんなにも動かすのだろうか。
「俐一の言葉で気づかされたんだよ。少しだけ動く身体でも、まだできることがあるんじゃないかって思えたんだ。……もっと生きたいって」
生きたい、という言葉に僕の胸が揺れ動いた。
「待って、さっきもそんなこと……何を言ったの、僕が」
再度、記憶を張り巡らせるが分からない。ただ僕は、希翼と当たり障りのない会話をしていただけだ。
「ふふ……」
希翼はただ笑うだけだった。
「雨だと、なんだか気が滅入るね。最近ずっと雨だ」
希翼がそう言ったので窓に目をやる。依然と雨は降り続け、先ほどよりも強さを増しているように思えた。
「うん……最近太陽を見ていない気がする」
「そうだね。でも止まない雨はないから、いつかは止むね」
「……うん」
「雨の後には地が固まり、虹ができる。……雨が降っていたからこそ、太陽のありがたみがより感じられるんだろうなぁ」
そう言った後、希翼はこちらを見た。
「みんな最期はどうせ同じ、死ぬ。朝から早かれなんだ。でも……俐一。雨が止むまでで良い。ここにいてくれないか」
希翼は地を指さして言った。
僕はその言葉が何を意味するのかを理解した。
「……分かった」
希翼の言葉に応えるようにしっかりと手を握り返す。
「手、あったかくなったね」
言い終わりとほぼ同じタイミングで希翼の手は離れ、そしてブルーの制服を着た看護師が入って来た。
「そろそろ面会終了時間ですので」
「……はい」
「びしょ濡れですけど大丈夫です?」
「大丈夫、です」
「受付に傘あるので貸しますよ」
「あ、そんな……」
看護師さんとやり取りをしている間に、希翼はぼそっと呟いた。
「あの時ちゃんと気持ちを伝えることができたら、また違う未来になっていたのかな」
「希翼?」
「何でもないよ。じゃあね、俐一」
その別れの言葉で、今言わないといけないと直感で思った。
「ねぇ……希翼」
「なに?」
「ありがとう」
そう、これを言うためにここに来たんだ。力強く目を見て希翼に言った。
「うん」
優しい緑の目がこちらに返された。
病院を出て傘をさす。降りつける雨は傘に弾かれてボタボタと音を立てた。もう、濡れない。
病院の重い扉を背にして、僕は空を見上げた。灰色の雲が低く垂れ込め、断続的に降りしきる雨が、世界をモノクロームに染め上げていた。それでも、僕の心はさっきまで抱えていた鉛のような重苦しさからわずかに解放されていた。雨粒が傘を叩く音が、今はどこか慰めの旋律を奏でているようだった。
僕は歩きながら、希翼の言葉を反芻した。「止まない雨はない」―か。
僕はゆっくりと病院の敷地を歩いた。『ここにいてくれないか』――次はちゃんと約束を守らなくちゃ。それ以外のことはもう考えなくても良い。
僕はゆっくりと帰路を歩き出した。
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