Rainy Day

 航空機には著名人も数人搭乗していたこともあって、大々的なニュースとなった。



 突然のエンジントラブルにより、航空機は長野県境の静かな山腹に不時着した。その衝撃は強く、機体は深い傷を負った。翼からは煙が立ち上り、周囲の静寂を破る唯一の音となった。

 一方で、客室の後部は主体から切り離され、山の脊を越えて坂道を転がり落ちた。後部客室は尾根への直撃を逃れ、比較的平行な角度で接地。樹々を倒しながら尾根を滑り、徐々に停止した。そのため、衝撃は相対的に小さく、他の部分と比べて軽い損害で済み、火も起こらなかった。この幸運により、後部座席にいた乗客10人は、奇跡的に生き延びることができた。



 生き残った乗客名簿の中に、――詩音はいなかった。



――――――――――――――――――――――――――――



 葬式の会場は静かで、悲しみの空気が立ち込めていた。僕の心の中も同じく、深い悲しみと喪失感に包まれていた。詩音の写真が飾られた祭壇の前には多くの献花が並べられ、黒い服を身にまとった人々が手を合わせていた。その光景を見ると、彼女はたくさんの人から愛されていたというのが分かる。



 大学での再会をきっかけに彼女と過ごした日々が心に甦る。あの日、久々にキャンパスの陽光の下で顔を合わせた時の詩音の姿が浮かんだ。彼女は久しぶり、と言いながら僕を見つめ、照れくさそうに微笑んでいた。その笑顔は、昔と変わらぬ面影を残しつつも、どこか大人びた風情を纏っていた。彼女の優しさ、控えめな性格ながらも様々なことに懸命に取り組む姿勢、周囲への細やかな気配りは、僕をたちまち魅了した。友達としての期間が長かったから、そういう対象に見てくれるか不安だったけれど、僕の告白によろしくお願いしますと詩音が頭を下げた時の感動は忘れられない。



 詩音が僕にしてくれたことは数えきれない。僕が小さなことで落ち込んでいるとき、彼女はいつもそばにいて、寄り添ってくれていた。自分の時間を削って、外が明るくなるまで眠らずずっと電話を繋いでくれていた。初めてピクニックで手を握ったあの日、朝早くから起きて、僕のためにおいしいお弁当を作ってくれた。色んな場所に行った、笑いあった。

 失ってからより分かる。……詩音の言葉や行動一つ一つが、詩音の存在そのものが僕を支えてくれていた。詩音の笑顔や温かさ、そしてその存在は、僕の心の中でかけがえのないものとなっていた。



 これから、もっと…詩音との未来を新しい形で作っていきたかったのに……。一瞬のうちに全てが奪われた。なんで……なんで……。この前まで笑顔で、僕の前にいたのに。「生きていた」のに。あまりにも理不尽だ。こんな現実信じられない。詩音がこの世からいなくなったことを受け入れることなんて、できない。



 葬式の途中、詩音のご両親がそっと僕の元へ近づいてきた。父親が手に持っていたもの――それが目に入ると胸がぎゅっと締めつけられるような感覚に襲われた。それは、泥で汚れ、部分的に焼けてしまったクマのぬいぐるみだった。紛れもない、僕が詩音に贈ったもので、その愛らしかった姿は今は見る影もない。焦げたリボンが事件の悲惨さを物語っていた。



 詩音のご両親は言う。これは詩音が、2周年記念に恋人からもらったと嬉しそうに見せてくれたものだったと。



「これ俺だと思って可愛がってくれたら嬉しいなぁ」なんてことを言ったのを思い出す。詩音、持ち歩いていてくれたんだ……。

 ぬいぐるみを受け取る。ひどく荒れた姿だったがそれはちょこんと僕の手に収まった。しかしあまりにも重い何かがのしかかったように感じられる。たちまち大粒の涙が流れてきた。

 そんな僕の様子を前にして詩音の父親はその場で深く頭を下げた。



「娘を……ありがとうございました」



 過去形……。

 その声はひどく震えており、目じりに涙がにじんでいた。隣にいた母親もハンカチで顔を覆っていた。その姿が僕の傷を更にえぐる。



「俺が……あの時、俺が飛行機にすれば良いなんて言わなければ……! 詩音は……詩音は……」



 どうしようもない気持ちがこみ上げ、感情が高ぶり慟哭どうこくする。



「詩音に聞かれたんです、飛行機と新幹線どっちが良いかって……俺は飛行機を提案しました。だから……だから……俺は人殺しです、俺が全部悪いんです!!」



 力なくその場に崩れた。頼むから僕に頭を下げることなんてしないで……あなたたちにこんな顔をさせてしまっているのはそもそも僕のせいなんだから。一心に詩音のご両親に許しを請いたい、いや、むしろこの場で殺されてしまいたい、とさえ思う。



「それは違う! ……誰がこんなことになるなんて、想像するんだよ。立て!」



 嘉一が駆け寄ってきて僕の手を引いた。



「俺が決めるべきじゃなかったんだ……」



 声に力が入らない。あの頃に戻れたら、と何度思ったか分からない。呼吸が不規則になり、喉に何か詰まったような苦しさがこみ上げた。



「リー!」



 近いはずなのに、嘉一の声はぼやけて遠く聞こえた。無気力な状態でその場でうなだれる。

 脳内に字幕が繰り返し流れる。



『僕が新幹線を提案していたら詩音はこんなことにならなかったかもしれない。最愛の存在を失わなかったかもしれない。この場で多くの人が流した涙を無いものにできたかもしれない』


『全部、お前のせい。どの面を下げて葬式に来てるの? 被害者面するなよ。全部、お前がやったことだろ。お前なんか死――』



 強く手を引かれる感覚がする。僕は自分の意志で立つ気力がもう無かった。

 詩音のご両親も複雑な表情を浮かべ、言葉を詰まらせ、ただ僕を複雑な表情で見ている。



「俐一。あんたはそう提案したかもだけど、結局のところ決めたのは詩音ちゃんでしょ」



 嘉一に続いてやってきた百子が冷静に言う。それに嘉一の声が続く。



「そうだ。本来はこんな事故を招いたのは航空会社の責任だ。これは、不運の事故だった。それだけだ」



 僕の腕を掴む嘉一の手に力が込められた。

 慰めのつもりか? 僕の気持ちなんて、誰も理解できない!



「不運で片づけるなよ! ……『おかえり』、も言えなかった! こんな別れ方……うっ……あんまりだよ……」


「悲しいのはリーだけじゃない。俺も……詩音の幼馴染だから……っ」



 嘉一は唇を噛みしめ顔をしかめている。百子は僕と嘉一の間に入り、首に手を回して僕たちを引き寄せそっとつぶやいた。



「不謹慎化もしれないけど……長生きすることが幸せじゃないよ、俐一。あんたに大事にされて、詩音ちゃんはきっと幸せだった」



 僕たちはしばらくその場で肩を震わせていた。

 これでその場は収まったが、僕の心の傷が癒えることなんて無かった。



 百子は僕が心配だからと、数日は家に泊まることになった。

 リビングのソファに座りながらひたすら電話をかける。何度も何度も。しかし、着信音が鳴るだけで一向に相手は出てくれることはない。



「おい、さっきからなにやってんだよ。どこに電話かけてんだよ」



 嘉一に声をかけられた。



「詩音にかけてる……」


「ばか、出るわけないだろ正気になれ!」



 肩を揺さぶられる。



「正気だよ!! たとえ幽霊であってもなんだって良い、とにかくまた……詩音に会いたい……! 声を、聞きたい……。『俐一君』ってまた呼んで欲しい……」



 声に感情が乗り、揺れる。百子は黙ってこちらを見ていた。嘉一は一瞬固まった後、頭を掻きむしりズタズタと自分の部屋に入って扉を乱暴に閉めた。その後、扉からは押し殺した泣き声が聞こえてきた。



 僕は無気力だった。なにもやる気が起こらない。

 食欲が完全に消えた。大学に行く気力もバイトに行く気力もない。百子が僕のために料理を作ってくれているけれど、食欲が無くて食べることができない。元々、細身というのはあったけれど、食べていないせいか顔色が悪く、肋骨も浮き出て来ている。でも、もうどうなっても良い。



「ねぇ、しばらくあたしたちのとこ来る? さすがにこのままだと心配」



 見かねた百子が声をかけてくる。あたしたち、というのは「私と健介さんと」、という意味だろう。

 新婚で赤ん坊を腹に宿した幸せな家庭に、僕みたいなのが転がり込んで幸せを奪い、気を遣わるなんてごめんだ。



「……ごめん、1人にして、欲しい」



 席を立ち、自室に入って扉を閉めた。その場で扉を背に体育座りの格好になる。

 本来は百子が家に来てくれるなんてとても嬉しい出来事のはずなのに、煩わしく感じてしまう。まるで感情が入ってこない。何もかもモチベーションがわかない。



 僕って生きてる意味あるの?



 日頃から感じていたことが膨張して脳内を占める。ポケットの筆に触れる。彼女の形見であるこれに触れることで心を落ち着けるので精いっぱいだ。

 未来を見据えることができたのは詩音がいたからだ。でももう、いないじゃん。何もかもが空っぽだ。もういっそ死んでしまいたい。そんな思いが脳内をぐるぐると巡回するばかりだった。



 ――――――――――――――



 その日は雨が降っていた。百子は健介さんのところに帰っていた日のこと。夕暮れ時だったが、空を覆う黒い雲が夜の訪れを早めたように、辺りは一層暗く感じられた。

 嘉一に出かけると言って家を出て、アルバイト先の近くにあるバーに訪れた。ロックダブルで注文した好みのウイスキーを、水を飲むように次々と飲み干す。高級なものだったが、今の僕にはそんなことどうでもよかった。おかわりで同じものを注文した。酔うことができたらどんなに良いことだろうか、と思いながらひたすらに酒を体に流し入れる。



 マスターがまだ飲むのかと眉間に皺を寄せながらウイスキーをカウンターに置いた。僕はそれに手を伸ばす。



「あれぇ、最近お店来てないと思ったら……」



 黒いハットを被った男に声をかけられた。彼は僕のアルバイト先でよく見かける常連客の男だった。



「あぁ、どうも……」



 男は僕の隣に座ると、彼と同じものを、とマスターにオーダーした。



「お店辞めちゃったの?」


「いえ、ちょっとお休みをもらってて……」


「ふぅん。何かあったの?」


「はは……まぁ、色々」



 あぁ、今知り合いには会いたくなかった……。これを飲み終わったらさっさと店を出よう。グラスに口をつけてグイっと傾けた。



「お兄さん、なんか寂しそうな顔してるね」



 顔を覗き込まれる。



「バレちゃいましたか、はは」



 笑い声も虚しく響き、僕の内側には深い空虚感が広がっていた。



「……俺が慰めてあげようか?」


「え……?」



 男は僕の手に自分の手を重ねてきた。



「お兄さん、この後暇?」


「……」



 呆然とする僕を見て男は自分のグラスを一口飲んだ後に言った。



「うちにおいで。良いお酒があるから。今飲んでるこれよりも」



 なぜこの男についていこうと思ったのか、自分でもわからない。これから起こることを予測できなかったわけではない。しかし、詩音との思い出に苛まれ、その記憶から逃れたいという願望も同時に存在していた。もうどうにでもなってしまえ、という気持ちが強まると、このような人の誘いに簡単に身を任せたくなる。良くないと何度も引き返そうと思ったが、結局僕は男の家の前まで来てしまった。



 玄関に入ると、男は僕を壁に追い詰め、無理やり口づけをしてこようとしたのでグッと腕を掴んで遠ざけようと抵抗する。



「ま、待って」


「ん? 待たない」



 一蹴される。



「いやっ」



 男を反射的に跳ねのけた。



「あーん? 恥じらうタイプなんだ。かわいいね」



 男はニヤリと笑った。その笑顔に不快感がこみ上げる。



「ごめんなさい、できません……」


「はぁ? ……初めて見た時、俺とだってすぐ分かった。この界隈に長くいると自然とそういうの分かるんだよ。俐一君、そうだよね?」


「……」



 男に背を向けて玄関のドアに手をかけると、腕を強く引かれた。



「家に来てんだぞ!? ここまできて、あり得ないだろ……!」


「ごめんなさい。やっぱり無理です……ごめんなさい、ごめんなさい、ごめんなさい!!」



 振り切って、勢いよく飛び出すとそのまま走り出す。



「おい!!」



 男は追ってはこなかった。雨はますます強くなり、空の色はいっそう暗くなっていた。苦しい、苦しい、苦しい。自分は何をやっているんだ。こんなこと……情けない、やるせない。

 虚ろな視界の中、マンションから見下ろす町並みは縮小されたように小さかった。



「いっそここから飛び降りれば楽になれるのかな」



 手すりの部分に足をかける。恐怖で体が強張るのが分かる。でもこの一瞬……この一瞬さえ乗り切ってこのまま落ちてしまえば……。



「詩音、今会いにいくよ」



 覚悟を決めようとぎゅっと目を瞑ったその時だった。



「あっ……」



 筆がコトンと足元に落ちた。僕はそれを拾うために手すりの内側に身をかがめた。



 筆を拾ってその場に膝をつく。心臓がバクバクと脈打っている。セーフゾーンに入ったことで意思とは裏腹に身体が安堵しているのが分かった。その場で呼吸を落ち着ける。



 筆に視線を向けた。僕は詩音に「おかえり」と言いたかった。こんなことになるならせめて、「ありがとう」と言いたかった……。生きている間に大切な人への感謝を伝えられなかったことがただただ悔やまれる。

 希翼の顔が脳内にちらついた。最近見舞いに行けていなかったが希翼もこの先は長くない。後に詩音と同じ場所に行くだろう。ならせめて、最期に希翼の顔を見て、そして……ありがとうと言いたい。



 時計を見る。まだ面会時間のギリギリだ。傘は男の家に置いてきてしまった。僕は雨に打たれながら、無心でただ病院を目指した。

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