第3話
――ストレス発散……って、どんなことをすれば良かったんでしょうか?
「人それぞれ違うからな。女の子なら買い物とか?……でも、そんなことで生きていたいと願えるようになるかは分からない。」
――生きようと願うためには何が必要なんですか?
「些細なことだよ。……マンガの結末が気になる。好きなバンドのライブに行きたい。そんな程度でも明日を迎える気持ちは変えられるはずだ。」
――そんなことくらいで毎日は変わるんですか?
「ちょっとのことで気分は変わる。明日は今日と違うと別の日だと信じるんだ。今日と同じ明日が続くことは耐えられないから、今日と違う明日になるように頑張るしかない。」
辛かった今日の延長にあるのが明日だと思っていました。だから、辛い日は連続してしまい逃げる場所を見失ってしまったのかもしれません。
「……俺、猫を飼ってみたいんだ。」
――え?……猫ですか?
突然の告白に意味が分かりませんでした。この会話の流れで唐突に猫が登場したんです。
「死んだ祖母ちゃんが、猫は宇宙人が作り出した生物だって力説してたんだよ。」
――宇宙人が猫を作ったんですか?……どうして?
「可愛らしい声で鳴いて、人間を骨抜きにして地球を征服しやすくするための手段らしいよ。」
――『猫撫で声』ってことですか?
「そう。それに、猫は顔の比率で目が大きくなってるんだ。」
――それが、宇宙人っぽい?
男性は運転しながら笑っていました。
そして、「それだけじゃないよ。」と言って、「猫踏んじゃった」の歌詞で踏まれた猫が雲の上まで飛んでいったことも教えてくれました。「犬のお巡りさん」で子猫は犬を困らせることができる存在であることも教えてくれます。
「……なんだって、どう思う?」
――ちょっと面白いです。……私も、飼ってみたかったです。
「ほら、そんなことでも生きていくために必要な願いに変えられたかもしれない。」
――はい。
運転席と助手席の間から顔を出して会話をしていると、ふとした瞬間に生きていた頃の映像が頭の中に流れてきました。
今と同じように運転席の後ろから話しかけている映像でしたが、私は幸せそうに笑っていました。運転席は男性で助手席は女性が座っていて、たぶん両親との時間だと思います。
「……どうした?」
涙を流していた私に気付いて、運転席の男性が心配してくれました。私は、突然甦った記憶の一部に戸惑いながらも、今見えたものを男性に伝えました。
――この車よりは、後ろの席が広かったです。
「悪かったな、そういう車なんだよ。家族ができれば広い車にするさ。」
――家族……ですか?
「君が、家族と過ごした幸せな時間の記憶だよ。……それは、得難いものなのかもしれないんだ大事にしないと。」
もしかすると、私が自らの命を断った原因が家族との関係ではなかったことを伝えてくれていたのかもしれません。それは、幸せなことのはずだったんです。
――幸せな時間もあったんでしょうか?
「当り前だろ、本当に君の人生は辛いことしかなかったのか?」
断片的に残っていた記憶は、大学で知り合った男性を好きになって、一生懸命に仲良くなろうとしていたことから始まっていていたんです。
私は、その男性が高校からの友達と付き合い始めたことを知りませんでした。でも、その友達は自分の彼氏に手を出されたと思い込んで許してくれません。
そこからは嫌がらせを受け続けることになり、楽しくなるはずの大学生活には苦しさしかなくなってしまいました。
――そこまでで記憶は終わってます。
「……そうなんだ。……でも、それだけが君の記憶の全てじゃないだろ?」
――えっ?……でも、思い出せているのは、それだけなんです。
この人の言葉は私の記憶を呼び起こそうとしてくれていました。幽霊になった私のどこに記憶が保管されているのか謎ですが、何かが残っているのは間違いないことでした。
「思い出せていない記憶の中には、幸せだった時間もあるはずだろ。」
――思い出せていない記憶……ですか?
「今、語ってくれた記憶だけが、君の人生の全部じゃないってことだよ。」
20年近くは生きていたはずで、それだけの人生の記憶が辛いことだけではなかったと思います。辛いことだけに縛られてしまい、忘れていただけなのかもしれません。
「世の中には、本当に辛いことだけしかない人生で、自ら命の断つ人もいる。」
――はい。
「君が辛いと感じていたことを、他人の俺が『そんなことくらいで』とも言わない。」
――はい。
「でも、君は他の手段を選べたかもしれない。……逃げ出すことだってできたかもしれないんだ。」
――はい。……そうかもしれません。
一人で悩み過ぎて、そんなことにさえ気付けなかったのかもしれません。命を断つ選択をするくらいなら、逃げ出す選択をしていれば違った結末だったはずです。
――心の傷みを消し去るために『サヨナラ』しか選べなかったんです。
「『喜怒哀楽』って、言葉の半分が幸せな気分のことを表現してるんだ。」
――『喜び』と『楽しみ』のことですか?
「そう。哀しいことの倍も幸せなことがあるはずなんだ。……君の人生は違ったのか?」
――分かりません……。でも、幸せな時間も沢山あったんだと……、思います。
「それに、哀しいことと同じだけ怒っていても良かったんだ。」
――怒ってもいいんですか?
そんな話をしていると、色々な記憶が甦ってきました。
家族との時間、友達との時間。笑っていたり、怒っていたり、泣いていたり。この人が言っていたように、私の記憶の中には幸せな時間が沢山ありました。幸せな記憶も沢山残っていたんです。
――どうして、こんな大切な思い出を忘れていたんだろう……。
「辛いときなんて、そんなもんだよ。」
――ただ、辛いだけだと思っていたんです。
「そんな時もあるさ。……でも、そんな時だけでもなかったはずなんだ。」
運転席から静かに諭すように語りかけてくれました。すごく優しい声でした。
――生きていたら、猫を飼って、宇宙人の手先か確認することもできたんでしょうか?
「あぁ。」
――生きていたら、素敵な曲を聞きながらドライブにも行けたんでしょうか?
「あぁ、行けただろうね。」
――こんな夜道じゃなくて、お昼のドライブは気持ちいいですよね?
「あぁ、気持ちいいよ。」
――生きていたら、美味しいコーヒーも飲めたんでしょうか?
「あぁ、飲めたと思う。」
――生きていたら、助手席に乗せてくれましたか?
「あぁ、あまり乗り心地は良くない車だけどね。」
死んでしまってから大切なことに気付くことになったみたいです。取り返しのつかないことをしてしまっていたんです。
思い出さない方が良かったのかもしれませんが、いつかは思い出していたはずのこと。自分の中には間違いなく幸せな記憶があったのだから、いつかは自分の愚かな行為を悔いることになったと思います。
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