円弧の魔術師

第30話

放課後、駅前にあるドーナツショップにぼくは彼女であるいすずと訪れていた。感染症防止のアクリル板越しにぼくといすずは語らい合い、その会話を妨げない様にビートルズのボサノバアレンジBGMが流れている。コーヒーが注がれたカップに口を付けて視点を上げると、眼鏡でポニーテールのいすずの笑顔があり、その後ろのテーブル席にぼくらのようなカップルが店内を彩っていた。


「どうしたんですか?モリアくん。ぼぅっとした顔で周りを見渡して」


いすずがぼくの様子を大きな瞳で覗き込むとぼくはカップを口から外してテーブルに置いた。いすずはぼくと付き合ってからぼくへの呼び方を「さん」から「くん」へ変えた。授業や部活ではいつも通り「さん」呼びなんだけど、こうして二人で居る時に距離感の近い接し方をしてくれるから、彼女と二人きりの秘密を共有しているようで楽しかった。


「ああ、幸せだな、と思ってさ」

「もう!何言ってるんですかっ、嬉しい事言っちゃって!うひっ」


BL好きの腐女子時代の癖である引き笑いが起こるといすずはそれを咳払いで誤魔化した。季節は三学期の2月。ついこの間までロンドンで命を懸けたギャンブルに身を投じていたとは思えない平和な空気にぼくはリアルな生活の充実感と少しの居心地の悪さを感じていた。



「やあモリアくん。初めての裁判はどうだった?...てか、大丈夫?顔真っ青だけど。病院行く?」


――地方裁判所の待合室。青少年卓球指導者の薬葉くすはステア氏が対面のベンチに座るとぼくの顔を見て茶化すように話しかけてきた。ぼくはこの裁判の発起人である彼から目を背けると舌打ちを堪えて声を出した。


「裁判後に原告が被告人にヘラヘラしながら声を掛けるなんて非常識ですよ」

「あ、もしかしてボクに対して怒ってる?でもこれがボクの出来る最適解だったんだ。許してくれとは思わないけどね」


脚を組み替える薬葉氏を見てぼくは立ち上がって声を発していた。


「年末に自分の家族の元に帰省しただけで、半年間、公式戦の出場停止処分を食らうなんて、どこが正解だって言うんですか!!」


裁判所のフロアがじん、とした張りつめた空気に変わった。「まあまあ、声を張り上げないで。落ち着いて」薬葉氏の優しい声を受けてぼくは「すいません」と小声で謝罪し、再びベンチに座り込んだ。


「卓球プレーヤーとして『本格化』の始まる中学終盤の活動期間が奪われたのは間違いなくキミに取って損失だ。イギリスから未知のウイルスを持ち込んだという非難から学校や世間での偏見の目もあるし、試合に出られない事から穀山中卓球部の部長としてのメンツもあるだろう。しかし、ぼくからすればこの処分はゲロ甘だ。規律違反を犯し未成年であるにも関わらず酒を提供するパブに入り、賭博に関与していた。……ああ、キミの言い分も分かるよ。国外対応になるから少し時間が掛かるけど、キミをけしかけたキャロル・マンジェキッチにもそれ相応の処分が下るだろう。既に所属クラブが本人に事実確認を始めたと報告があった。あの日儲けた金は没収されて、クラブも解雇されるだろうね。あの年だし、引退の危機かもしれない」


薬葉氏の言葉を頭の中でかみ砕きながらぼくは事件の発端になった義理の父であるキャロルとロンドンで暮らす母と兄の森一の事を思い浮かべた。世紀の無責任男であるキャロルの事は正直どうでも良いけど、向こうでフォトグラファーとして活動する母にとって悪いスキャンダルとして迷惑を掛けてしまっているのが申し訳なかった。


「これでもキミを救うために頑張ったんだぜ、ボクは」


薬葉氏が固いベンチにふんぞり返るようにして身を楽にして語った。


「さっきも話したように未成年での賭博関与と未知のウイルスを国内に持ち込んだというキミの行いは間違いなく重罪だ。今も世界中がこのウイルスショックに苦しんでいて、コミュニケーション目的で『俺は感染者だ』なんておどけた中年たちが政府にしょっぴかれるような世情でボクらは暮らしている。いち卓球指導者として、キミを前科者にする訳には行かない。だからぼくが第三者であるにも関わらず介入し、キミから貴重な半年間を奪う決定をした。キミが犯した重罪をクリアにするという条件でね。仲人、じゃなかった、裁判官の前でもそう約束しただろ」


ぼくは彼と目を合わせずに「ありがとうございます」と呟いた。自分の青春が奪われたのに、罪人としての烙印を押される事を回避できた事にほっとした気持ちになってしまった自分が情けなかった。


「でも、こっちの方は掴めたモノがあったんだろ?」


顔を上げると薬葉氏が体の前で卓球のラケットを振るう仕草を見せた。ぼくはあの夜、賭博場で同年代の少年、枕木レンと対戦し、勝利した。闘いの最後で放った相手の顔面へのミドル打ち。知らずにぼくの体に流れた勝利への黒い波動。相手の意思と決意を打ち破ったあのワンショットのゾクゾクするような衝動がまだ手の中に残っていた。


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