第29話

試合は終盤戦。10点近い大量リードを保っていた賭博場のキング、枕木レンだったが、超絶反応を可能とする純白筋の副作用か、動きに重さが見え始めて少しずつプレー中のミスが増えてきた。ぼくは相手のスタミナ切れに付け込み、確実に得点を重ねて行く。不慣れだった粒高ラバーの扱いにも少しずつ慣れてきた。クロスへのドライブがレンのラケットをすり抜ける。モニターの数字が15で並んだ。


「あの坊主!キング相手に追いつきやがったぞ!」

「もしかしたらあいつ、キングに勝っちまうんじゃねぇのか!」

「……キングは止めろって言ってんだろお前ら」


『ジャック』を自称するレンがゆっくりと屈めていた体を起こした。顔を上げると彼には試合序盤に見せていた血色が戻っていた。深く息を吐くと彼はぼくを見据えて言う。


「『調整』してたんだよ。メーンを張るオレが楽勝で勝っちまったら、こいつらも賭けのし甲斐がねぇからな」


レンの強がりを受けてぼくは気持ちを引き締める。彼はぼくに自由にやらせている間、消耗していた体力を回復していた。ウサギは亀をゴール前で待っていた。ここからがこの勝負の本番だ。


レンがクロスに長いサーブを出す。テーブルへの接地のタイミングを見計らってぼくは得意のチキータを放つ。逆を突いた打球だったが、レンが自慢の純白筋を軋ませてこの打球に喰らいつく。「しかも表かよっ、くそ!」悪態をつきながらもロビングの落下地点を見定める。


ここまでぼくはストレートとクロスの打球を使い分けて戦っていた。しかしそのどちらもレンに攻略されているから、新しい勝ち筋が必要だ。ぼくは瞬時にこれまで闘って来た相手のプレーを思い浮かべた。ぶっつけ本番だけどやってみる。ぼくはラケットを寝かせてショットを放った。


飛燕ひえん!」

「なッ!?」


ボールの下を擦ったピン球が水面に滑らせた石のように素早く滑らかにテーブルの縁を切る。打った後に思わず拳を握ってしまいそうな完璧なショット。しかし、この打球に対してもレンが大きな体を翻して追いついていた。


くそ、どうしても粒高が打球のスピードを奪ってしまう。まるで夢の中を走っているような意識と体がフィットしない浮遊感。クロスへのカウンタードライブが決まるとレンが「しゃあぁ!」とこの日初めて勝負への感情をぶちまけた。


「誰か!ラケットを変えてくれないか!普通の子供用のラケットで良い。これと取り換えてくれ!」

「落ち着けモリア。それに試合中でのラケットの交換は反則だ」


いつの間にか再びリングに上がってきたキャロルが取り乱すぼくの肩に手を置いていた。


「おい、タイムアウトは一回だけにしてくれ」

「なに、すぐ終わるさ」


審判のレッドスキンをあしらうとキャロルはぼくに告げた。


「もう一度言う。打球の回転を意識しろ。自分が一番分かっているとは思うが、反応速度はあっちの方が上だ。相手と打ち合うな。分かったな」

「そんな事言われても……」

「どうした?そんな弱気じゃ母さんを守ってやれないぞ」


次第に強くなる野次を受けながらぼくはキャロルの胸にぽん、と拳を突き出した。


「ここで母さんの名前を出すのはナシだろ」

「よし、良い目だ。キミの勝利に期待している」


臨時コーチとの短い話し合いが終わるとぼくのサーブで試合が再開した。レンがレシーブしてぼくが三球目にドライブを放つと、レンが羽織っていたロングコートを脱ぎ捨てた。鎖骨に這うように彫られたタトゥーが目に飛び込むが、ぐっと感情を堪える。怯むな。前に出て相手の隙を突け。気が付けば卓上は強烈なドライブの応酬が展開され、ぼくのコースを突いた打球にレンが超絶反応を生かして追いつき、カウンタードライブを打ち返すの繰り返し。騒々しい観客達もこれには「すげぇ」と息を呑んだ。


「オラ、どうした!キャロルの息子!とっくにそのドライブには慣れてんだよ!」


レンが放つドライブのパワーが大きくなっている。……このままだと彼の勢いに押し切られる。この勝負に負けたらキャロルはこの賭博場の連中を欺いたとして吊るされ、ぼくは奴隷奉公として男娼に送られる。……絶対に負けられない。するとその時、キャロルの言葉が頭をよぎった。


――打球の回転。ぼくが手に握っている粒高ラケットはピン球に回転を掛けやすいラバーとして知られている。しかし、サーブならまだしも、この想像を絶する超スピードの中で回転を掛ける事なんて出来るのか?思考が鈍るとレンのドライブが更に鋭さを増す。


「出来るか、じゃないんだ。やるんだ!じゃないと母さんを守れない!」


ピン球とラケットの衝突の刹那、手首を少しだけ傾けてその粒高ラバーからピン球に回転を付加させた。これまで感覚的に手を出していたショットとは違う、新しい打球。横回転をはらんだそのドライブはレンの完全に裏を突き、空っぽのコートに打球が沈んでいく。「よし!」得点を確信したその瞬間だった。


ゴォン!と地面が揺れる音がしてテーブルが大きく揺れた。ピン球がリングから零れ落ちてモニターにはぼくの加点が表示される。この日初めてリードを奪った。いや、そんな事より…!額から溢れる血を拭う事なくレンがテーブルに手を掛けて立ち上がった。


「あの場面で変化球かよ。あり得ねぇよ。男の勝負を避けるなんてな」

「最後まで諦めずに打球を追ったのか。どうしてそこまで必死になれるんだ?」

「どうしてだって?ははは、笑わせんなよ!」


レンが額の血を拭って高笑いを浮かべると髪を留めていたカチューシャが外れ、床に落ちた。笑い声が止むとレンは顔の覆う髪越しにぼくを睨んで声をすごませた。


「こっちは金と命賭けて打ってんだよ。スポーツ感覚で打ってんだったらサッサと日本に帰ってママのミルクでもしゃぶってるんだな!」

「……キミ達が俺達を開放してくれないんだろ。それに」


レンの煽りをやり過ごしてぼくはピン球を拾いあげる。


「卓球はキミが思っているような賭けの対象にするような競技じゃない。卓球は楽しい。スポーツとして卓球を楽しむ心を思い出させてやる」

「オレに説教するつもりかよ!?この賭博場のキングであるオレに!面白れぇ、捻りつぶしてやるよ!」


試合が再開し、レンが渾身のスマッシュを放り込んでくる。冷静さを完全に欠いた力任せの暴力的な打ち方。そんな打球はもう、回転を習得したぼくには通用しない。思い通りいかない夢の中ならそのままで良い。只、目の前の打球に夢中に成る。回転によりホップアップしたピン球をレンのラケットが明後日の方向へ弾いた。


「キミがみんなの言う『キング』を受け入れようとしない理由が分かった」


床に二度三度、弾むピン球の音を聞き終えるとレンが拳をテーブルに叩きつけた。「くそっ!」いきり立つ彼を見下ろしてぼくは続けた。


「キミの反射神経は、キミの親友が遺した純白筋のお陰だ。彼の筋肉を使って賭博場で勝ち続けるキミの最後のプライドがキミを王者として呼ぶ事を拒んでいたんだ」

「止めろ!それ以上言うな!……それ以上言ったらオレはお前を……!」


力いっぱい打ち込まれたスマッシュに下からドライブ回転を掛けて打ち返す。ネットを少し超えた打球が相手のコートで弾むと意思を持った生き物のようにテーブルから滑り落ちた。


「どうするって言うんだ?俺と父親・・を」

「この野郎、お前に俺達の何が分かるってんだ!」

「おい、落ち着けよ『ジャック』」


仲裁に入るレッドスキンを押しのけるとレンはバランスを崩して倒れる彼越しにサーブを打ってきた。……やれやれ、次のぼくの手順のはずじゃないか。ふぅー、とため息を吐く余裕が産まれるくらい、今のレンは動きがゆっくりに見える。最初はぼくは自分が覚醒状態ゾーンに入っていると思っていた。しかし、実際は違った。


「ぐっ!」


ラリーの途中、レンが利き手の右手首を左手で抑えた。タンクトップから伸びた腕は筋が浮き上がり痙攣している。彼の取り込んだ白筋と赤筋の均衡が崩れ、純白筋の限界が来た。気が付けばいつの間にかぼくのマッチポイント。レンの筋肉が完全に停止している。ぼくは開いた彼の右腕のコースを突くようにドライブを放った。


「いや、まだだ!モリア!」


キャロルの声が届いてぼくは再び捕球態勢を取る。レンがテーブルに落ちたラケットを口で咥え、首を大きく振ってラケットの側面でピン球を押し返した。恐るべき勝利への執念。宙に浮かんだロビング越しにぼくはレンと目が合った。


怯えていた。台に顎を擦ったレンの目が打たないでくれ、とぼくに目で必死に訴えている。彼の頭があるミドルに打ち込めばぼくの勝利が確定する。でも打てるのか?打てる訳ないだろう!ぼくの良心が動きを止めたその時だった。


ロンドンに住まう魔物。数百年に渡りウェンブリースタジアムにてスポーツの歴史を操っていた赤い悪魔がぼくの背中をそっと押した。ぼくはそれに取り憑かれたように彼の顔に渾身のドライブを放つ。しかし相手も勝負師。レンがグリップを噛みしめてラケットを振るう。ピン球とラケットがぶつかった瞬間、レンの顔から星がはじけた。


レンの口から血が吹き出し、前歯が4本、散らばる様にテーブルに舞った。ピン球は力なくネットの底を擦り、この賭博場の『キング』が力なく膝を付くとそれを取り囲む観衆達が大声を張り上げて、沸いた。……勝った、勝ったのか?このぼくが。暴言をわめく男のひとりの手に発煙筒が握られているのが見えた。するとその時、肩にごつごつとした腕が載せられているのを感じ取った。


「ここはもう、危ない。すぐに外へ出るんだ!」


リングに上がってきたぼく達の唯一の味方であるレビーがぼくを出口へ放り投げるようにして店の外へ逃がしてくれた。ぼくは煙と罵声で充満する部屋に「ありがとう!」と言い残して階段を登り、母さんへ出迎えの電話を入れた。



「いやぁ、まさか本当に勝つとは思わなかったぞ。おかげで一夜にして大金持ちだ。まさにブリティッシュ・ドリーム。私の自慢の息子だ。愛してるぞモリア」

「気色悪い。それにぼくはアンタの息子じゃない。勝負に負けたらどうなってた?これに懲りたらもうこんなギャンブルからは足を洗うんだな」


賭博場からの追っ手を避けるようにロンドン市街を駆け抜けるぼくとキャロル・マンジェキッチ。彼はあの騒乱の中、胴元から報奨金をせしめて、それを右手に握るアタッシュケースに納めていた。母が運転するビートルが角に見えるとぼくらはシートベルトも掛けずに車に飛び乗った。


「ハロー!ベイビー。可愛い息子がこんなにたくさんお金を稼がせてくれたよ!」

「ワァオ。モリア、素晴らしい仕事をしたわね。今度のママの個展の資金にさせてもらおうかしら」

「母さん、信用しないで!そいつの言葉を!そのバカのせいでぼくは死ぬ思いで卓球をやらされたんだ!」


前の席でケースの中身を確かめ合う大人ふたりに抗議の声を上げるが心は何故か充実し、謎の達成感に包まれていた。命を懸けた熱戦を終え、体の震えが止まらないまま、ぼくは自分に手に目を落とした。最後のあの一球、レンの最後の抵抗を自分のショットで打ち崩した瞬間、ぼくの体に湧き上がった感情は、怪我をさせて申し訳ないではなく『気持ち良い』だった。キャロルが師事した打球の回転を習得した全能感からだろうか?いや、ぼくの中で何かが変わろうとしている。騒がしく揺れるビートルの中でぼくは自分の中に芽生えたチカラに身を焦がすのだった。


  • Twitterで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る