第25話
“事件”が起きたのは年明けの二日目。ぼくが帰国する日の前日だ。その日の夕方、遠方であるロンドンのスーパーで母の買い物に付き合ったぼくはビートルの後ろに荷物を置き、助手席に座って流れていく街並みを眺めていた。信号待ちで車が停まると母がマニュアル車のレバーを戻してぼくに言った。
「モリア。今日あなたに逢わせたい人がいるの」
……嫌な予感がした。母が森一を連れてイギリスで暮らす理由は二つ。ひとつはこっちでフォトグラファーとしての職に就いているから。そしてもうひとつの理由をぼくはどうしても受け入れる事が出来なかった。
「キャラがあなたに逢いたいって。エミリーが録画したあなたの卓球での試合を見せたら声を弾ませて電話してきたわ。いいわね?」
――キャロル・マンジェキッチ。卓球イギリス代表に30半ばを超えてその座を守り続けている手練れのプレーヤーでぼくの母、里中雨のボーイフレンド。ぼくは彼とは会った事は無く、彼の試合と彼のネット記事でしか彼の事を知らない。そんなぼくと彼を母は引き合わせようというのだ。発進した車が路地で止まった。
「この先のパブでキャラは待ってるわ。帰りは迎えに来るから電話を頂戴」
「そんな、急!急すぎるよっ!」
「後ろに車がつかえてるわ。早く行ってらっしゃい」
連なるクラクションに急かされて車から降りるとぼくは覚悟を決めて歩道の雪を踏みしめて歩き始めた。これから会う相手はぼく達の一家を真っ二つに切り裂いた最悪の男。ちょっと卓球が上手いからってなんだってんだ!出会い頭に一発かましてやる。コートのポケットの中で拳を握ると短髪で髭面の男がぼくを見て頬をほころばせた。
「ヘイ!そこの
「勝手に同じ苗字にすんなよ。この色ボケオヤジ!」
日本語で暴言をぶつけるが彼は意味が分かっているのか、いないのか、にらみつけるぼくの顔を見て肩を揺らして微笑んだ。左手のタバコに口を付けて少し吸うと、それを地面に投げつけた。靴のつま先で火を消す彼を見てぼくは咎めた。
「路上喫煙とタバコのポイ捨ては止めろ。日本だと2000円の罰金だ」
「そうか、失礼。寒かったもんでな。カイロ代わりだ」
素直に吸殻を拾い上げる彼を見てぼくが驚くと、彼はそれをジャケットの胸ポケットに入れ「ほら」という風に優しく手の平で叩いた。……何を考えている?意識的に沈黙の
「アメからキミのピンポンのゲームを見せてもらった。日本で頑張っているようだな。せっかくお互い、ロンドンに居るんだからプロプレーヤーである俺が指南してやろうと思ってな」
「結構だ。指導者には恵まれてるんでね」
「まぁ、そう突っぱねるな」
親し気に肩を掴んだマメの多い手を払いのける。青い瞳孔がぼくの心を覗き込むようにその標準を狭めていく。彼は再度笑顔を作ってぼくに言った。
「この寒さだ。この店は俺の行きつけのパブでね。飯でも食って少し話そう」
キャロルと一緒に入った店は年季の入った
「おい、これから飯を食うのに顔を塞いでどうすんだ?」
「感染対策だ。イギリスはウイルス感染率世界トップレベルだっていう悪評を聞いたもんでね」
「ハハハ。キミが住んでいる日本は潔癖すぎるんだ」
ウェイターにビールを頼みながらカウンターのテーブルにキャロルは腕を置く。彼の姿を見て顔馴染みであろう客のひとりが話しかけてきた。
「おう、キャラ!今日は子供連れかい?ん、その子はアジア人か?誰との子だ?ハハハ!」
「ぼくはこんな奴の子供じゃない!」
「おい、飲食店でキレるなよ。……造船所での仕事はどうだいジェフ?……息子はちょっと難しい年頃なんだ。気にしないでくれ」
ぼくをなだめるとキャロルはそのジェフという客と話し始めた。ぼくはキャロルが頼んでいたコーラを受け取ってマスクをずらしてそれを飲む。イギリスは仕事の終わりにパブに寄って酒を飲む習慣が根付いていて、感染症の拡大が止まらない。日本と違い予防注射を打つ習慣も無い為、国民は皆このふざけた災厄が過ぎるのを酒を酌み交わして逃避しているようにも見えた。大人は弱虫だ。みんな目の前の現実から目を背けている。その時はそう思ったけど、ぼくも酒を飲める年頃だったら彼らに違った感想を持っていたのかもしれない。
「何を難しい顔をしてるんだ。せっかくの酒の席だ。厳しい日々の憂さ晴らしをしようじゃないか。おっと、モリア。キミはまだ未成年だったな」
ぼくがキャロルから目を逸らすと「話を本題に戻そう」とキャロルは緩んだ頬に力を入れた。
出来上がったジェフに別れを告げるとキャロルは席を立ち、カウンターの奥に居る男に耳打ちした。すると男は木製のカウンターを上げ、キャロルはぼくに着いてくるように示した。
「紹介しよう。ここが我々の
カウンターの裏の階段を下りた先にあった重厚な扉を開けるとそこにはフェンスに囲まれた卓球台があった。格闘技のリングのように部屋の中央に一段高く設置されたテーブルを取り囲むようにガラの悪い大人たちが酒をあおり、タバコを吹かしている。危険な場の空気を察して神経がひりつく。
「キミの想像通りだ。我々はここで賭け卓球をやっている」
「そんな場所に子供を連れてくるなんて……てかなにやってんだアンタ」
薄暗い部屋の隅でゴソゴソをショルダーバックをあさっていたキャロルが顔を上げると顔にサングラスと付け髭が付けられていた。ボロボロのキャップを被ったその様はロンドン市街の浮浪者のようにも見えた。
「ここでは顔が割れてるんでね。だが、ここに居るのは酔っ払いばかりだ。この程度の変装でも問題ないだろう」
「な、アンタ!この賭け卓球に出場しようっていうのか!?現役プロ選手のくせに!」
キャロルは「静かに」とぼくを諭すとこめかみにタトゥーをいれた胴元らしき赤肌の男に声を掛けた。エントリーが終わるとキャロルのサングラスの奥がこう語っていた。
『みていろ。これが世界プロの卓球だ』
キャロルと対戦者の男がリングに上がると札を握った取り巻き達が品の無い声援を上げる。母が溺愛する世界的プレーヤー、キャロル・マンジェキッチ。彼のプレーを目の前で見られる興奮に悶えるような感情を押し殺しながら、ぼくは物陰から戦いを見つめていた。
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